2014年10月2日木曜日

堀田善衛『ゴヤ』(44)「”私は幸福だ”(soy feliz)」(6) 「フランス革命を経て時代が一九世紀に入って行っても、この傾向はとどまらず、かえってより強くなるであろう。」

江戸城(皇居)東御苑 2014-10-02
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ゴヤの時代のスペイン貴族社会のありさま(前回の要約)
「社会の上層部が、外国の猿真似ばかりをやらかしていて、自ら独自の文化を生むことをやめたとき、上層部は何をはじめるか。
上層部は、自殺をはじめるのである……。」

「社会の上層部に文化創造の力がなくなり、・・・生命力にみちていざるをえない下層部に眼が行くことになる。つまりは貴族階級というものの解体期が、すでに現実に来ているということなのであった。エウヘーニオ・ドールス氏は、こういう傾きを、一八世紀末の、〝革命前社会のマゾヒズム″と適切に呼んだものであった。」

「・・・女王であったマリー・アントアネットでさえが羊飼いの少女に化けようというのである。革命は、社会の上層部によって、まず用意されたものであった。
革命は支配階級の容認によってはじめて成就するというレーニンのテーゼを掌に見るようなものであった」

けれどもスペインでは、支配階級がそれを容認しているのに、民衆がそれを拒否した
「けれども、幸か不幸か、スペインのマハやマホたちは、これはまた頑固一徹、徹底的に旧習墨守型の保守派であった。彼らは変化を、極端に嫌った。外国風なものを拒否し、町や通りが改修されることをさえ嫌った。・・・カルロス三世は、「私の臣民は、顔を拭いてもらうときに泣き出す子供のようなものだ」と言ったと伝えられている。上からの改革に対する抵抗が強かったのである。フランス革命と同じことが起ることを妨げる要因が、スペインの場合、民衆それ自体のなかにあった。
支配階級がそれを容認しているのに、民衆がそれを拒否した。」

上層部の下降志向は、なりふりかまわぬ墜落希求、あるいは自らを卑賎化したいという情熱、極端な場合には被凌辱を希求するというところまで行った
「貴族の男たちが、マホの衣裳をつけてマドリードの悪所に通う、・・・。彼女たちは、皇太子妃をも含めてわれわれの想像を越えた乱行をやらかしていた。美貌の近衛兵・・・。人気上々の新進画家など・・・。
・・・在俗の若い神学生・・・。また本物の、筋肉隆々たる下町のマホを引き入れもしたようである。・・・
・・・
こういう社会の、上層部の下降志向は、一種の、情熱的な贖罪本能のようなものかと受けとれるほどに、・・・なりふりかまわぬ墜落希求、あるいは自らを卑賎化したいという情熱、極端な場合には被凌辱を希求するというところまで行ったものであった。」

さらに、時代の思想(西欧文明に対する批判や自己否定)がこの傾向に拍車をかけた
「さらに、時代の思想がこの傾向に拍車をかけた。たとえばモンテスキューの『ペルシャ人の手紙』や、ヴオルテールの支那思想についての思考などは、いわば現存する西欧文明に対する批判と自己否定を含むものであった。またベルナルダン・ド・サン=ピエールの『ポールとヴィルジニイ』、あるいはダニエル・デフォーの『ロビンソン・クルーソー』なども、純潔にして罪なき文明を西欧以外の、南海の孤島に求めたりしている。それは一文明の自己否定を意味するであろう。」

時代が一九世紀に入って行っても、この傾向はとどまらず、かえってより強くなるであろう
「フランス革命を経て時代が一九世紀に入って行っても、この傾向はとどまらず、かえってより強くなるであろう。時代の希望をになって新たに登場したブルジョアジーの急速な俗化とともに。
たとえば、ボードレールの Anywhere out of the world という英文タイトルでの叫びなどは、それが極点にまで行っていることを示している。アフリカへまでさまよって行ったランポオに登場を求めることもないであろう。またヨーロッパの東の辺境であげられた”ヴ・ナロード(民衆の中へ)”という、苦痛にみちた叫び、あるいはドストエフスキーやトルストイに見られる下降志向、前者にあっての犯罪希求にまで行くもの、また後者の創造したカチューシャに見られる淫売婦、社会の最低のところにあるものの聖化も、この一八世紀思潮と風俗の延長線上にあるものである。一九世紀に立ち現れたものの、そのほとんどの根は一八世紀にあった。」

闘牛と闘牛士たちに対する異常なほどの熱中
「ところが、このオスーナ公爵夫人と、もう一人の公爵夫人とに、一つ共通したものがあった。
それは、闘牛と闘牛士たちに対する異常なほどの熱中であった。
闘牛技は、イベリア半島の歴史とともに古かった。しかも、・・・反対論もまたルネサンス以来、強く潜在していたのである。・・・
・・・一八世紀に入って王家がフランスのブルボン家に交替すると・・・
そこへ王家とともに、フランス啓蒙思想が入って来て反対論がいっそう強まって来たものであった。そうして社会の開明的な上層部に反対論が強まれば強まるほどに、徒歩の闘牛に対する熱度が民衆のなかで高まって来た。・・・」

闘牛に対する熱意は、彼(*ゴヤ)の生涯を通じて決してさめることがなかった
「かくて王家をはじめとして反対論のもっとも高まった一八世紀に、はじめて闘牛だけのための闘牛場が開設され、平民の職業的な闘牛士なるものが登場して来たのである。これらの経緯もまた実にスペイン的であると言えるであろう。事実、一七五四年と一七八五年の二度にわたって闘牛禁止の王命令が出されたが、”命令は守る、しかし実行しない”というスペインの古い諺どおりに、誰も本気にしなかった。
それに、一体闘牛に反対した開明派の知識人たちや駐仏大使経験者なども、果して本心からそうであったかどうか、疑問がのこるであろう。・・・
毎週水曜日が闘牛の日ということになった。朝から日没までやった。従ってマドリードでは週の真中に休日が一日増えた勘定になる。
従ってゴヤの生涯は闘牛の歴史の、大きな転回点を眼前にして推移して行くことになる。闘牛に対する熱意は、彼の生涯を通じて決してさめることがなかった。彼の最晩年の作の一つが『ボルドーの闘牛』であったことがそれを証明しているであろう。」

貴族の夫人たちが著名な闘牛士たちに入れあげるとなれば、それも徹底的なところまで行く
「貴族たちが、特にその夫人たちが闘牛、及び、とりわけて著名な闘牛士たちに入れあげるとなれば、それも徹底的なところまで行く。
オスーナ公爵夫人の、誇り高いサロンへ目に一丁字もない平民出身の闘牛士がスターとして迎え入れられる。・・・こちらが、静止してももっぱら殺すことに専念する古流の闘牛士ペドロ・ロメーロに入れあげるとすれば、もう一人の公爵夫人は、今様の、バレエのように華麗な演技を見せるロドリーゴ・コスティリャーレスか、その後継者であるベベ・リーリォを抱え込む。贈り物競争までがはじまる。・・・」
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