東京 日比谷公園 雲形池 2016-0909
(経緯)臨終の床にあって、これまで後継指名をしなかった将軍義持は、クジ引きで後継を決めることを指示したため、宿老たちはその準備を始めることになった。
なお、以下の記述は殆どを
今谷明『籤引き将軍 足利義教』(講談社選書メチエ)
に拠っている
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應永35/正長元(1428)年正月17日
■クジの準備 - 切り封
その後管領以下また相談の様、御没後には神前に於て左右(そう)なくこの御鬮(くじ)取り難(がた)かるべし。早速に御定め、何(いずれ)篇(へん)たりと雖も宜しかるべきの間、所詮今日十七日先づ密々にこの鬮を給りて、開く事をば御没後に沙汰すべき由、評定し了んぬ。仍て御鬮書く事をば、面々予に申す間、再三辞退すと雖も、頻りに申す間、力なくこれを書き了んぬ。続飯(ぞくい)を以て堅くこれを封ず。その上に山名右衛門佐入道封を書き了んぬ。管領一人八幡へは参詣せしめ、給はるべきの由、申し定め了んぬ。
義持の「抽鬮は儂(わし)の死後」という厳命を了承したものの、現実問題として、「御没後には神前に於て左右なくこの御鬮取り難かるべし」という意見が強くなった。義持の死は権力の空白状態であり、いかなる突発事(不測の事態)が起こるか計り難く、予めクジを作り、クジを引いておいて、開示だけを没後に行なうという便宜的方法が取られることになった。
具体的には、候補著名(名札)を入れた封筒を組合せの数(この場合は四)だけ用意し、それぞれに封印をした上で、その四本の封筒をさらに大きな袋に封入し、二重封印のクジを用意する。
神前で引くのは、大袋に入った封筒の一つで、その封筒の開封を義持没後に行なうという方法である。
封をする方法も、「切封」という簡易な封じ方ではなく、「上紙」(包紙)で厳重に包み込んだうえに、「続飯」(糊づけ)して密封し、その継ぎ目に山名時煕が花押を書いた。この封じ方だと、糊を剥がした跡が残るうえに、花押が離ればなれになり、たとい継ぎ直したとしても容易に判明するという便がある。この封印のことを「継目(つぎめ)花押」と呼んだ。
■クジの準備 - 公平性確保の手段
抽籤の公平性を確保するため、
名札の清書 三宝院満済
継目封花押 山名時煕
抽籤 畠山満家
と、宿老の役割分担を行なった。
満済は「御鬮書く事」すなわち候補四人の名札を墨書する役を充てられた。
しかし満済の日記には4人が誰かは一切記していない。
これを書いているのは時房『建内記』で、次のように記録されている。
仍て諸大名等、三宝院僧正をして孔子(くじ)を正書せしむ。謂はゆる青蓮院准后(じゆんごう)義円大僧正、天台座主なり・大覚寺大(僧正)義昭、東寺長者なり・相国寺僧隆蔵主・梶井僧正なり。
■候補者のプロフィール
〔青蓮院義円〕
応永元年(1394)6月生れ。母は義持と同じ三宝院坊官安芸法眼の女で、義持より8歳下の同母弟。
応永10年(1403)年、9(かぞえで10)歳で青蓮院に入室。家督争いを避けるために寺院に入室させたのだが、もう一つの義満の思惑は、いずれ門跡、天台座主にさせて、足利家による寺社支配を完成させようというにあった。
家督決定者以外の男子を入寺させることは、”敗者出家制”といわれ、平安初の薬子の変のとき、平城上皇が出家して刑罰を免れたのに始まり、継嗣争いの流血の惨を回避するための手段であり、歴史の叡智とも言われる。
応永26年(1419)天台座主となり、その後准三后(じゆさんごう)、大僧正となり、応永35年/正長元年(1428の段階では、座主・前大僧正。
〔相国寺永隆〕
応永10年(1403)生れ。母は池尻殿と推定されるが、泉阿弥(同朋衆か)の継子と伝えられているだけで、詳細は判明しない。
応永35年の段階で26歳、3年前に伏見退蔵庵主を退き、この時相国寺で蔵主(ぞうず)の地位にあったらしい。禅籍なので、実名は虎山永隆の四字であらわされる。
〔大覚寺義昭〕
応永11年(1404)生れ。永隆のさらに1歳弟。母は実家が日野家らしいと想定される。
応永20年(1413)准后宣下、同28年(1421)18歳で東寺長者となり、ついで大僧正、この前年に東寺長者に再任。若年にして異数の出世であり、相続問題の時には義円に対抗し得る最も有力な候補者であったろうと思われる。
『今川記』には、次のようにあり、人望を得ていたと推測できる。
大覚寺殿義昭僧正は御慈悲も深く御心ばせ情ありて、勇になだらかに御坐(おわ)せしかは、諸人め(愛)でもてなし奉る。
〔梶井門跡義承〕
応永13年(1406)生れ。この時23歳。母は義満の弟満詮の室で、地蔵院持円の母に同じ、藤原誠子(実家がどのような家かは不明)。
応永19年(1412)梶井に入室得度、この年4月に天台座主。4候補中、もっとも長命を保ち、応仁の乱の勃発(1467)を見届けた。
■クジ引き - 石清水八幡
仍て管領、戊の終〔午後9時前〕に参詣す。神前に於て御鬮を給はりて、亥の終〔午後11時〕に罷り帰ると云々。(『満済准后日記』17日条)
筥(はこ)に入れ、畠山入道 時に管領なり 石清水八幡宮に持参す。神前御棚の上に於て畠山入道これを執(と)る。両度これを取る。(中略)次で他人をしてこれを取らしむるの処、(『建内記』18日条)
昨夕管領禅門(畠山満家)、八幡に参詣し、御鬮 四人の御名これに入れらると云々 を取る。(『師郷記』18日条)
抽籤の場所は、『建内記』のみが石清水八幡宮と明記していて、満済と中原師郷の日記は単に「八幡」としか記していない。もっとも信用できるのは『満済准后日記』なので、「八幡」は石清水の本社でなく、幕府に近い六条若宮八幡宮、あるいは幕府内の三条(御所)八幡宮ではないかとの説がある。
しかし、前日より石清水八幡宮において、大々的な顕密高僧(大阿闇梨は華頂僧正定助)による修法が、幕府の命で実施されており、男山へのアクセスも頻繁になっていたと考えられるし、そもそも後継の選定(神判)という重大事であるから、末社よりも本社での抽籤と考えるのが順当であろう。
こうして、午後9時前頃に社頭で抽籤した満家は、名札一枚を封じた封筒一箇を大切に携帯し、再び早馬で京都三条坊門の幕府に戻った。
■クジの開示 - 義持の死
義持の様態は、満家が石清水へ出発する直前の酉(とり)の半(なかば 午後6時)頃、危篤に陥った。
酉の半許(ばか)り歟に已(すで)に御悪名(あくみよう)出来(いできた)るの由、医師三位告げ申しき。仰天せしめ、御前に参る処に、以ての外の御体、中々申す限りなし。長老たち三四人祗候(しこう)、それ以来は一向御言語通ぜず。人をも御覧知せられざる御体なり。(『満済准后日記』17日条)
人事不省の状態となった。
続けて満済の日記は「諸人悲涙に咽(むせ)ぶ」とか「京中猥雑申す計(はか)りなし」とか混乱を伝え、噂を聞いて幕府へは「公家武家僧侶群参以ての外」という状況となり、混雑でごった返した。
満済は平癒祈願の御修法は断念し、
壇所に於て密々に祈念する計(ばかり)なり。今夜は終宵同じ御体なり。
と、秘かに壇所の一角で祈念をこらすばかりであった。壇所の雑具・本尊・仏具等はみな、夜通し、撤却して法身院の本坊に送り返した。護持僧としては、手の施しようがなくなり、あとは万一の奇蹟のみを空しく待つばかりとなった。
そして、18日昼近く、義持は死去した。
今日巳(み)の半計(ばかり)歟、御事切(こときれ)了んぬ。御年四十三なり。御沐浴等の事、一向禅僧これを沙汰す。その後床上に安置し奉る。諸人その時これを拝見す。各(おのおの)焼香申し了んぬ。各退出す。(『満済准后日記』)
■クジの開示 - 青蓮門院義円と判明
管領以下諸大名、各一所に参会(さんね)して、昨日神前に於て取る所の御鬮、これを開き了んぬ。管領(満家)これを開くなり。青蓮院殿たるべき由、御鬮なり。諸人珍重の由、一同にこれを申す。(『満済准后日記』)
青蓮院准后 前天台座主 御相続たるべきの由、御鬮を当て給ふと云々。(『師郷記』)
但し、時房の『建内記』では石清水社頭においてすでに満家が開封し、二度引いてすべて義円、ついで他人が引いてまた義円、つまり三度引いてすべて義円の卦(け)が出たことになっている。
神前御棚の上に於て畠山入道これを執る。両度これを取る。青蓮院なり。次で他人をしてこれを取らしむるの処、また青蓮院なり。三ケ度同前と云々。(五月十八日条)
この『建内記』の記述は虚報に基づくものである。
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正月18日
・4代将軍足利義持(43)、没。
管領以下諸大名が籤を開封、青蓮院門跡義円が後継将軍に決定。
翌日に義円を青蓮院から仮御所として裏松亭(日野義資邸)に移すと決まる。
裏松(日野)義資:
足利義満家司を勤め、将軍家との関係を深める。
義満正室康子や義持正室栄子の甥。後に義教正室となる日野重子の実兄、後に権勢を振るう日野勝光・日野富子の祖父。後の将軍義勝・義政の実の伯父。
十八日、晴れ。今日巳半ばかりか、御事切れおわんぬ。御年四十三なり。御沐浴等の事、一向に禅僧これを沙汰す。その後床上に安置し奉る。諸人その時これを拝見す。おのおの焼香し申しおわんぬ。おのおの退出す。管領以下諸大名、おのおの一所に参会して、昨日神前において取るところの御鬮、これを開きおわんぬ。管領これを開くなり。青蓮院殿たるべき由御鬮なり。諸人、珍重の由、一同にこれを申す。この御くじの事、今日かの門跡に申し入るるべきかいかんの由、評議する間、予申して云わく、「在方卿に仰せて、吉日を撰ばれ、今明間に申さるるべきか」と云々。その儀むべなるべき由、面々これを申す。すなわち在方卿を召して吉日を撰ぶところに、明日(十九日)、最上の吉日なりと云々。よって、明旦管領以下、かの門跡に参り、まず裏松亭に入れ奉るべき由、定め申しておのおの退出しおわんぬ。故御所御追号の事、勝定院たるべき由、長老達計らい申しおわんぬ。(「満済准后日記」18日条)
大樹内大臣殿薨逝したまう。・・・長得院大樹は父公に先だちて薨去し了ぬ。よって女子御両所の外、継嗣の器なし。武将忽に闕くは珎事というべし。畠山左衛門入道道瑞(管領なり)已下の諸大名相談じ、昨朝三宝院僧正を以て継嗣の御人躰を伺うの処、その器なきによって仰せ置かるるに及ばず、且つ縦い仰せ置かるると雖も、面々が用い申さざれば正躰あるべからざるの由、押せあり。よって只仰せに随うべし、但し他人の御猶子においては用い申すべからず、御連枝四人(各釈門なり)の内を以て仰せ定めらるべきの由、各々これを申す。然らば連枝四人の御名字を書き連ね、八幡宮の神前において孔子をとり、神慮に任さるべきの由、仰せあり。或説に、緒御連枝四人の内、諸大名が計い申すべきの由、仰せあるの間、孔子たるべきの由、諸大名評定す、と云々。よって諸大名等、三宝院僧正をして孔子を書かしむ。所謂青蓮院准后・大覚寺大僧正・相国寺僧隆蔵主・梶井僧正なり。筥に入れて畠山入道が石清水八幡宮に持参す。神前御棚上において、畠山入道これをとる。両度これを取るに青蓮院なり。次に他人をしてこれを取らしむる処、また青蓮院なり。三ケ度同前と云々。次に帰京の処、已に御分別の儀なく、惘然の御式なり。時に深更と云々(「建内記」同日条)
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