2016年10月11日火曜日

明治39年(1906)3月1日~10日 韓国の抗日義兵、各地で蜂起 北一輝が堺利彦の由分社に『国体論及び純正社会主義』出版を依頼 大杉栄・荒畑寒村・深尾詔が堺利彦宅に住み込む 国木田独歩『運命』 漱石『吾輩は猫である』第9回 『文章世界』創刊(編集長田山花袋) 電車賃値上げ反対運動始まる      

皇居東御苑 2016-10-04
*
明治39年(1906)3月
・韓国、抗日義兵、各地で蜂起
忠清南道定山、前参判閔宗植、蜂起。
5月19日、洪州城占領。鎮圧に来た日本軍と長期にわたり攻防戦。
*
・韓国、忠清南道定山に押込められていた、日本との対決を進言・上疎する老儒者崔益鉉、挙兵決意。全羅道泰仁に移る。
*
・韓国、『大韓毎日申報』、韓国皇帝の列国元首宛哀訴親翰写真掲載。大問題を惹起。
*
・韓国、張志淵ら大韓自強会設立。
*
・谷中村、3小学校廃校。
*
平塚明子、日本女子大(家政科)卒業。津田英学校・ユニバサリスト系協会附属成美女学校に通う。大学時代に習得した速記でアルバイトもこなし、木村政とともに自由な生活を謳歌。7月、禅の見性を終え慧薫の法名(安名)をうける。
*
・呉海軍工廠で、戦艦「安藝」起工。1911年3月竣工。19,800トン、実馬力2,400、速力20ノット。
*
・海軍、日本海海戦にちなんで、毎年5月27日を海軍記念日と設定。
*
・この月、北一輝堺利彦の由分社に『国体論及び純正社会主義』というタイトルの原稿を持ちこみ、出版を依頼。本にすると千ページを越える膨大な分量だったため、資金に余裕がない由分社からの出版は困難だったが、堺は本の売り捌きに協力すると約束した。結局、北は初めての著書を自費出版で出す。それはすぐに発売禁止になったため、本人が献本したもの以外は世に出ることがなかった。北一輝は社会主義者として出発した。
*
・この月から大杉栄が、また4月からは荒畑寒村も堺利彦宅に居候を始める。堺が由分社に入社させた深尾詔も堺家に住み、『家庭雑誌』の編集や記事の執筆をするようになった。堺家には若い同志が出入りしており、堀保子に好意を持つ常連の間に競争が生まれたが、大杉栄がそのなかで強引に保子を妻にしてしまった。一方、堺が期待していた深尾は、病気になったこともあり、その後、次第に社会主義から離れていった。
*
国木田独歩「運命」(「佐久良書房」)
作家としての国木田独歩はこの頃から、次第に世間の注目を引くようになった。
短篇小説集「運命」は、作品集としては、明治34年の「武蔵野」、前年明治38年の「独歩集」に次ぐ3冊目で、島崎藤村「破戒」が世に出たのと同時であった。
明治36年に紅葉が没し、露伴と蘆花が筆を絶ち、鴎外が戦争に行っていたあと、研友社以後の新しい文学の勃興を思わせるものとして、夏目漱石「吾輩は猫である」と、この時揃って出た「破戒」と「運命」とが、文壇の注目を引いた。
このとき「読売新聞」に連載中であった小栗風葉の「青春」は評判の作品であったが、硯友社的な人間観に新しい時代の衣裳をまとわせたものにすぎなかった。しかし、「吾輩は猫である」の知的ユーモア、「破戒」の人生に対する真剣な疑いと輪廓の鋭い文章は、今までの文壇に見ないものであった。
この二つとともに、今までの文壇常識では下手な小説と思われていた独歩の短篇もまた、下手であることは作者が生きることの意味を追求する当然の結果であるように見えて来た。生硬と見られていたものが、今では清新なものに見えて来た。
またこれまで既成文壇の圏外にあり、硯友社系作家に近づかなかったこれ等の作家は、別個な確信を持って仕事をしているようであり、しかも既成文壇人にはその確信の内容が分っていなかった。そして文壇はこれ等の新しい書き方をする人々の前に怯んだ。
*
・漱石『吾輩は猫である』第9回(『ホトトギス』3月号)
主人が東北凶作の義捐金募集に応じる。
ただ、彼は会う人ごとに「義損金をとられた、とられた」と吹聴する。これに対して、「吾輩」は、「義捐とある以上は差し出すもので、とられるものでないには極(きま)つて居る。泥棒にあつたのではあるまいし、とられたとは不穏当である」という。
一方、ある華族から日露戦争の「一大凱旋祝賀会」開催のための義損金を募集する丁重な手紙が届くが、主人は冷淡にこれを無視する。漱石は、戦争犠牲者や銃後の国民の苦しみを忘れて勝利の美酒に酔い、戦勝国民としての幻想の一体感によろこびを感じる気にはなれなかったのだろう。

東北地方の凶作
東北地方は、明治30年頃から連続的な凶作に見舞われ、特に日露戦後に襲った大凶作は、出征・戦死・傷病などによる働き手不足も加わって、農民たちの生命をも脅かすのであった。
東京朝日新聞記者・杉村楚人冠は、東北地方へ取材し、「雪の凶作地」(1906年1月25日~2月20日)として困窮する農民の姿を16回にわたって報告。
彼は、戦勝の陰に泣く出征軍人家族などの惨状を、正義感とヒューマニズムに充ちた気魄溢れる文章によって描き出した。このルポルタージュが始まる、全国から新聞社に義捐金が寄せられ、各地に救援組織が作られ、政府もおそまきながら特別措置を急がざるを得なかった。
*
・『文章世界』創刊。編集長田山花袋(数え36)
花袋は、明治35年の「重右衛門の最後」以後、目立った作品は書かず、博文館の編輯者として生活していた。
博文館には、綜合雑誌「太陽」と、春陽堂の「新小説」に対抗している文芸雑誌「文芸倶楽部」がある外、何種類もの雑誌があった。しかし、青年たちに実用的な手紙などに使う文章の書き方を教える雑誌が別にあってもいい、と館主の大橋新太郎が考えついたことから、この雑誌は生れた。
*
・東北地方大飢饉。宮城、岩手、福島県の窮民を、救済のため公営土木・耕地整理・植林事業などに就業させる。
*
・福島県信夫郡で、大飢饉の窮民の満州移民募集を開始。
*
・利根製紙株式会社創立(群馬県)。資本金50万円。1907年8月開業。1908年12月解散。
*
・独、深刻なストライキ開始。
*
・露、労働組合法制定。労働組合を公認し、同時にその活動を制限。総選挙。政府与党敗北。
*
・アンリ・マチス(37)、パリのドゥルエ画廊で素描や木版も含めた大規模な個展。
*
3月1日
・鉄道国有法、閣議決定。
*
3月1日
・三重紡績会社・大阪紡績会社・金巾紡績会社の3紡績会社、綿布輸出組合三栄組を結成し、綿布の朝鮮輸出促進を協定。
*
3月2日
・統監伊藤博文、漢城着任。
9日、伊藤、高宗謁見。信任状奉呈。
*
3月2日
・東京市街鉄道3会社(街鉄・東電・外濠、私営会社)、3銭から5銭に値上申請。
政友会主導市会決定(10万円をばら撒いて議員・記者を買収)。反対運動激化。
*
3月2日
・関西美術院開院式。院長浅井忠。
*
3月2日
・国債整理基金特別会計法公布。
非常特別税法改正公布。平和回復の翌年までと言う期限を廃止し、非常特別税を戦後に継続(増税存続)。
*
3月3日
・外相加藤高明、鉄道国有化に反対し辞任。西園寺首相が外相を兼任。加藤は岩崎家の婿。三菱の御用新聞「東京日日新聞」、元老井上馨も鉄道国有化反対。
三菱は、長崎の造船所、高島炭鉱を経営し、更に九州鉄道株を買収中。九州鉄道を手中にすれば、競争相手の三井、貝島、麻生などの炭鉱の運搬も独占し得る。
九州の炭鉱主は、三菱の鉄道支配を覆すために政府の鉄道国有化に賛成。
*
3月3日
・政府、郡制廃止法案を衆議院に提出。
17日 可決。貴族院審議未了。
*
3月3日
・福井県下の生糸・羽二重業者、税務署の不当課税に反対して同盟休業。3月6日解決。
*
3月4日
石川啄木(20)、妹光子を盛岡女学校教師に託し、妻・母と共に渋民村に帰る。渋民尋常小学校・盛岡中学校の後輩齋藤佐蔵の縁でその祖母齋藤トメ方に寄寓。
23日、宗憲発布による父一禎への曹洞宗宗務局の恩赦(3月14日付)通知。
4月10日、野辺地の父一禎も渋民に帰還。宝徳寺檀家は、提出済の代務住職中村義寛の住職跡目願いを撤回して一禎の再住を曹洞宗宗務局に提出。しかし、中村派は無視、以後宝徳寺檀徒間に大きな争い。  

3月5日付け日記(日比谷焼き討ち事件、鉄道国有化について)
 「近頃の新耳目は、天下の名士河野広中氏らの兇徒嘯聚事件についての警視庁の卑劣なる行動の曝露された事である。昨年九月五日、ポーツマス条約の屈辱に義憤を発して、国民大会が河野氏等の主唱の下に日比谷苑頭に催された。警視庁が無謀にもこれを暴力を以て禁止したのが、はからずも幾万愛国の赤子の怒を買って、東京は忽ちに暴動の府となり、内務大臣官舎が焼かれ、幾多の警察署が破壊され、幾百の交番も焼打の的、あはれ聖代帝闕の下、叫喚の風潮の如く、義憤の猛火全都に漲った。巡査が抜剣する、戒厳令が布かれる、河野氏等を初め二百幾十名は直ちに兇徒嘯聚罪として検挙されたのであった。かくて今年その公判が開かれるに及んで、図らざりき、国民の安寧を保護する筈の管視庁が、諸名士を罪に陥れむがために、幾百の黄白を散じ、無腸漢を買収して殊更に神聖なる法廷に偽証を申立てしめむとした事が天下に曝露されたのだ。最後の勝利は正しき者の手に落つるとは云ひ乍ら、警察権の不信今日の如くは、国民は何れの時に安んじて眠る事が出来やう。」

「目下政界争論の焦点は鉄道国有案である。国家経営上の利便と社会政策的見地からは可とせられ、事業の前途のためと国益増進の立脚点からは否とせらるゝ。・・・戦時税継続案もさうだ、鉄道国有案もさうだ、利に傾く多数の党人を籠蓋(ろうがい)して、前内閣と同じ狂暴を逞しうして居る」

鉄道国有化;
日露戦争を通じて陸軍が兵と武器を集中化する必要上、規格を統一し、管理を一本化するために国有化が要請された。
一方で、これは私鉄買い上げ論でもあった。
*
3月5日
・第3回日比谷焼き打ち事件公判
*
3月7日
・東京市街鉄道電車賃5銭均一の値上げの願書、3社府知事及び警視総監に提出
*
3月7日
・カリフォルニア州議会、日本人移民制限決議案可決
*
3月7日
・フィンランド、24歳以上の男女納税者に選挙権付与。
*
3月8日
・電車賃値上げ反対大演説会。芝区兼房町玉翁亭。社会党・国家社会党合同。
9日、神田青年会館で。
10日、社会党員、市民大会(11日開催)のビラ10万枚配布。神田三崎町吉田屋で演説会。
*
3月8日
・電車賃率改正市調査会、5銭均一の値上げを否決。
*
3月9日
・この日付け『読売新聞』、電車賃値上げ反対運動と電車焼き打ちの噂を報じる。
書き出しは、
「三電車の五銭均一に値上げの請願を出したるに就て市民の激昂ハ非常にて殊にこの値上げを運動するにハ当局者中に少なからざる収賄等のある由なれバ・・・」
とあり、値上げ運動の背後に汚職問題があることを示唆。

東京市会では、明治28年(1895)に不正鉄管事件、明治33年に市参事会収賄事件が起きている。
不正鉄管事件とは、東京市に供給していた水道管を巡る収賄事件であり、市参事会収賄事件は、汚物掃除請負人指定、量水器購入、水道用鉛管納入を巡って起きた事件で、いずれも急速に発展して行く東京の基盤整備にからむもの。
そして、電車の利権を巡って、三たび汚職事件の当事者たちが暗躍していた。

その後の経過;
値上げ反対の世論の高まりにより、3社は願書を一旦取り下げるが、5月26日に突然、3社は合併。
合併が認可された8月1日、内務大臣は運賃を4銭均一にすることを認可。
合併認可、運賃の1銭値上げも秘密裡に行われた。
明治44年、東京市は合併した3社の経営と財産を買収。買収費は実情の値の2倍に相当したといわれる。市有化にあたって、会社は利益を上級社員には平均390円を払ったが、運転手や車掌には46円しか支払わなかった。
*
3月9日
・第4回日比谷焼き打ち事件公判
*
3月9日
・日本初の石油発動機装備船、完成。
*
3月10日
・日露戦役陸軍記念会(「来賓無慮三千余名なりき」)
*
3月10日
・宮崎民蔵、「土地均享人類の大権」刊行。
*
*

0 件のコメント: