よりつづく
靉光《自画像》と松本竣介《黒い花》
(東京国立近代美術館 MOMATコレクション展)
1927年(昭和2年)
里見勝蔵32歳
京都の家を引きはらい、佐伯(祐三)の家のすぐ近くの二階建の日本家屋に越してきた。
里見勝蔵《室内(女)》1927昭和2年— 黙翁 (@TsukadaSatoshi) 2018年7月29日
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1927年(昭和2年)
6月 第2回一九三〇年協会展(於日本美術協会)。木下義謙、古賀春江、野口弥太郎、林武、林義重らが参加。
奨励賞;靉光、井上長三郎、佐伯米子、葛見安次郎。
1927年(昭和2年)
靉光、「景色」で第2回一九三〇年協会奨励賞受賞。
1927年(昭和2年)
佐伯祐三《ガス灯と広告》1927昭和2年— 黙翁 (@TsukadaSatoshi) 2018年7月29日
第4回1930年協会展
27年9月に再渡仏。本作は第二次滞仏期の代表作の一つ。くすんだ石壁の質感表現と、幾重にも貼られた広告ビラの多彩な色斑やその上を走る鋭い奔放な筆線が渾然となって、一種の幻覚的な佐伯独特の世界を生み出している。
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1927年(昭和2年)
「長谷川利行が二科で樗牛賞を得た昭和二年、井上長三郎と靉光は一九三〇年協会の第二回展で奨励賞をもらった。翌年、利行はおなじ一九三〇年協会展に出品し、協会賞をとった。」(『池袋モンパルナス』)
1927年(昭和2年)
長谷川利行36歳
6月、1930年協会第2回展(6,17-30 上野日本美術協会)。一般公募もはじまり、《公園地帯》《陸橋みち》(cat.no.5)《郊外》の3点入選する。
「長谷川利行君の三点と喜多善之君の『石橋』は佐伯が大いに好んだ作品だ」(前田寛治「一九三○年協会展評」)。
9月、第14回二科展(9.4-10.4 東京府美術館)に《酒売場》(cat.no.6)《鉄管のある工場》《麦酒室》を出品、樗牛賞を受賞。
「長谷川利行氏、面白い処はあるが絵具がカンバスに喰つつかずに混乱してる」(宮坂勝「二科展評」)。
「長谷川利行氏のものは可成り強烈でゼレニウスキー氏を凌いで居る」(前田寛治「優位に主観主義の作家-二科批評」)。
「昭和二年、第十四回二科展に「酒売場」「麦酒室」「鉄管のある工場」の三点を出品、画壇の登竜門の樗牛賞を獲得した。
それから護育院で窮死するまで彼の画歴はわずか十三年だった。その間、利行は嵐のように絵を描いたが終生アカデミックな画壇からは受け入れられることはなかった。」(『評伝長谷川利行』)
「(長谷川利行)昭和二年、二科に出品した三点が三点とも入選して樗牛賞受賞となった。その一点「酒売場」は強烈な焼酎”電気ブラン”を飲ませることで有名だった神谷バーの内部で、いま一点「ヱビスビアホール」は吾妻橋づめにあったビアホール風景であった。いずれも矢野文夫とともに「どんとせい」とわめきながら浴びるように飲んでいた場所であった。利行はそんなところにキャンヴァスをたてかけ、酒をあおりながら、ひと息に描いた。
樗牛賞受賞のときもそうだったが、それ以前もそれ以後も、利行の絵は、安井曾太郎ら、おおかたの審査員から拒否されていた。デッサン力がない、写実性に欠ける、構成が貧弱だ、などというのが理由であった。画塾で学んだことも、師についたこともな利行の絵であれば、それは当然のことであった。安井らの反対を押しきって強く推挙したのはまず、マチスに師事した正宗徳三郎であった。ついで熊谷守一、有島生馬らが支持した。かれらは利行の絵をみて、人物にも風物にも人生感情、生活感情が脈うっている、絵の根底に人間の生命と生活への共感がある、といった。
悪評にも好評にもおかまいなく、利行は自在に生き、奔放に描きつづけた。本能のままに生きる利行は、懐ろがあたたかい矢野の腰巾着のようになって吉原、浅草、荒川べりとほっつきあるいた。朝から酒にひたりながらも、いつも絵筆はなさなかった。とりわけ浅草を愛し、女芸人を好んで描いた。オッ、オッ、とさけびながら描いていった。「安来節の女」を描いたときは、浅草六区の帝京座のかぶりつきに陣どり、例の小型のえのぐ箱をひらき、三味や太鼓の音にあわせて、アラエッサッサァと口ずさみながら激しく筆はしらせた。
・・・・・利行にとって生きるとは、絵を描くことであり、絵を描くことは生きることであった。描くことに酒を加えれば、その余のことはどうでもよかった。ゆすり、たかりはドヤ代を確保する手段であり、精神を昂揚させてくれる酒を手にする方便にすぎなかった。」
「・・・・・父利其の喜びようは利行以上であったという。
・・・・・利其は祝いに白地の絣の絽の羽織を誂えて送り、加えてなにがしかの金円を東京の息子へ送った。
・・・・・
利其はヤマサ醤油十代当主の浜口儀兵衛、国粋会の大親分梅津勘兵衛、あるいは旧淀藩城主・稲葉子爵家の家令など彼の面識・人脈の限りを尽くして「息子をよろしくお願いします」と挨拶状を書き送っている。
浜口儀兵衛は樗牛賞受賞作三点を買い上げ、麻布鳥居城の稲葉子爵家家令の屋敷では婦人の肖像画を描いて利行は応分の画料を手にした。
七十歳を越えた老父は息子の栄誉を俳句につくって喜び、三十八歳の息子は短いひと盛りに舞い上がっている。
小ざれいな背広や、白絣に綿の羽織という商家の若旦那のような恰好で忙し気に上野、浅草あたりへ出掛け、レビューを観たり、牛鍋を食べた。」
初秋、久しく会っていなかった矢野文夫に再会。以後連日のように矢野が根津藍染町に借りていた下宿「清秀館」を訪ねる。画家としても認められはじめた利行のもっとも景気のよかった時期で、「白絣に絽の羽織、扇子を片手に持ち、どこか若旦那のような恰好で、浅草ひさご通りの牛屋『米久』をおごったりした」(矢野文夫『長谷川利行』)。
しかし、この頃の利行の日暮里の仮寓のありさまはというと、京都の下宿時代とおなじで、ほとんど住居としての態をなしていない。
「昭和の二年頃、ある日そこに行ってみると、部屋の中一面に白いものが散らばっている。近よって、よく見ると、それは白いデッサンの紙が一めんに雪のように散らばっていたわけである。足の踏み場もない。利行はどこにいるかというと、部屋の一隅にテントを張って、その中で、新聞紙にくるまって寝ていた。布団らしいものは一枚もない。(新聞紙にくるまってると結構暖かいんだ)と利行は云った。どうして家の中にテントなんか張るんだといったら、(雨が漏ってしようがないんだ)と答えて微かに笑った。そこいら辺に雑然と七輪がありバケツがあり、そこで魚を焼いたり、米を炊いたり、自炊していたのです」(矢野文夫「利行の放浪生活」)。
矢野との再会の直後、矢野をつうじて画家熊谷登久平を知る。熊谷は矢野の下宿にほどちかい根津片町の洋食屋「北洲亭」の裏の家に下宿していた(それを9月、と矢野はいっているが一方熊谷のほうは大正15年の5月と、食い違いがある。そして熊谷が初音町の豊島という下宿屋に引っ越した後を追って、利行もすぐ近所の福井という下宿屋に間借りすることになる)。
「彼は私を吾妻橋のビヤホールに誘ひ、浅草のカフェ・オリエントに誘ふやうになつた。二人は画布と絵具箱を肩にして、月の半分を、この二つの店や、当時、隆盛であつた安来節の小屋で、絵をかいたものである。酒気をおびた彼は、安来節のはやしがとても愉快であつたらしく、三味昧や太鼓に、合はせて、唄ひながら絵をかいてゐた」。
「三河島の曲馬に、町屋の火葬場に、玉ノ井の裏のめい酒屋に浅草の神谷バーに、千住の瓦斯タンクの横丁に、彼はガランスを塗り、エメラルドを塗り白を塗つてゐた。しかも子供のように無心に喜びをもつて。日ぐれ、エメラルドやガテンスに輝く絵をテーブルにのせて酒を注文する彼は、実に他のみる目もうらやましい程、うれしさうであつた」(熊谷登久平「長谷川利行と私」)。
利行はこの矢野、熊谷と「浅草から墨田川の土手を歩いて、三囲、水神の森、堀切、尾久、南千住、町屋、関屋と写生をした」。そして夜は「三岩酒場とか泡盛屋などで下地をつけて、酔った勢いで上野山下の『カフェ三橋亭』に通った」りする生活がつづいた(矢野文夫『長谷川利行』)。
やはり矢野の紹介で高橋新吉を知るのもこの頃か。
「初めて長谷川君に逢ったのは、十六、七年も前で谷中の逢初町の角にあった、下宿であった。・・・長谷川君は当時は血色も好く、第一印象では平凡な事務的な人間のやうに見えた。晩年の長谷川君は、去勢された人間みたいに無気力で、失語症とでも言ふか、言葉と脳髄の働きが一致してゐないやうな談話振りであつたが、・・・」(高橋新吉「長谷川利行追悼」)。
「宮崎というモデルやが、三崎町辺にあったが、そこで、モデルをやとって、中村(*中村金作)の部屋で、長谷川や私など五,六人で、よくデッサンをしたのであった。モデル代は割勘で払っていたように思う。長谷川の、欲のない笑い顔を思い泛べることができる。裸の若い女を、ミカン箱の上にかけさせて、色々のポーズをさせて、描くのである。長谷川が、白い画用紙に、鉛筆を走らせながら、奇声を発していたのも、昨日のように、鮮やかな思い出である」(高橋新吉「長谷川利行と下町」)。
「奇声」とは、口を手で隠し、しなをつくってホホホと笑って薄気味悪がらせた笑い声のことだろう。そういえば利行はどんなときも膝をくずさず正座したし、「ボロ襖を閉めるのに、小笠原流に女のような所作をしたり、山妻の出すお茶をうやうやしく受け取ったり、野人無頼の私には些か気味の悪いふしがあった」(「長谷川利行の奇怪さ」)。
11月、大調和展に落選。朝日新聞に「反大調和展」を投稿。
11月、「長谷川利行、熊谷徳兵衛油絵個人展」(彩美堂・木秋社、11.20-30)が開かれる。これは大調和展に落ちた作品を陳列したもので、これを1930年協会を設立した前田寛治と、やはり1930年協会会員でこの年の二科賞を受賞した里見勝蔵が見に訪れ、それが縁で里見の知遇を得て家にも遊びに行ったようである。
また根津藍染町から下谷根岸に通じるだらだら坂に額縁屋「彩美堂」があって、そこに利行はいつの頃からか親しく出入りするようになった。
この年の『美之國』11月号の個人消息欄に彩美堂を通して6号50円、10号100円の予約販売をする旨の告知がある。
「谷中善光寺坂下にある彩美堂という額縁屋は公募展に出品する際の額縁を安く貸しており、貧乏絵かきやその卵でいつも賑やかだった。
親父は商売っ気のない人のよい男で利行が顔を出すと喜び、飯や酒をおごってくれた。
店の近くの一帯には画家や詩人・小説家やソ連帰りの左翼運動家などが多く住んでいて、芸術家や知識人の醸し出す凛とした雰囲気と旧い家ずまいの下町情緒とが交じりあい、奇妙な居心地よいものが漂っていた。
彼らはだらだら坂を昇り降りして上野や浅草へ歩いて出て、酒場やカフェーで遊んだ。
川端康成は、浅草を小説に書くために上野桜木町に引っ越していた。カジノ・フォーリーの踊り子たちを可愛いがり「浅草紅団」を朝日新聞に連載した。
市電に沿って日暮里、田端方向へ行くと森鴎外がいた観潮桜があり、その近くに高村光太郎や小杉放庵が住んでいた。
利行が樗牛賞を受賞する二カ月前には田端にいた芥川龍之介が自殺をしている。」(『評伝長谷川利行』)
1927年(昭和2年)
寺田政明、九州画学院に入学、この頃ゴッホやゴーギャン、ブレイクらの影響を受けた。
1927年(昭和2年)
佐伯祐三29歳
7月29日、東京を汽車で出発、大阪・下関・関釜連絡船・シベリア鉄道経由で、8月21日パリに到着。
10月、モンパルナス大通りの新築のアトリエに移る。
荻須高徳、山口長男(たけお)、横手貞美、大橋了介(りょうかい)がパリに到着、佐伯を訪ねる。
11月、第20回サロン・ドートンヌに《広告のある家》《新聞屋》が入選。ポール・ロワイヤル大通り周辺で「カフェ・レストラン」の連作。
つづく
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