2020年12月29日火曜日

日下徳一『子規断章 漱石と虚子』(晩年の子規に関するメモ)(メモ9)「「柿二つ」は虚子が子規の晩年の数年間をその死まで描いた小説で、大正四年一月から四月まで朝日新聞に連載された。この年、数えで四十二歳の虚子は大阪毎日新聞「俳句欄」の選者も務めており、『俳句と自分』や『子規居士と余』を相次いで刊行するなど忙しい年であった。」   

日下徳一『子規断章 漱石と虚子』(晩年の子規に関するメモ)(メモ8)「『三四郎』には「原口さん」という画家が登場する。.....ここでは不折のエピソードが「原口さん」のエピソードになっているが、名前は関係ない。注目すべきは、ここでも漱石は子規の最後の手紙を思い出していることだ。漱石はおそらく「倫敦消息」の続篇を送らなかったことが、こんな時にも唐突に頭によぎったにちがいない。」

より続く

日下徳一『子規断章 漱石と虚子』(晩年の子規に関するメモ)(メモ9)

「柿二つ」 - 虚子と碧梧桐


1 雑誌を編輯してゐる俳人


「柿二つ」は虚子が子規の晩年の数年間をその死まで描いた小説で、大正四年一月から四月まで朝日新聞に連載された。この年、数えで四十二歳の虚子は大阪毎日新聞「俳句欄」の選者も務めており、『俳句と自分』や『子規居士と余』を相次いで刊行するなど忙しい年であった。

小説のタイトルは子規が明治三十年秋に詠んだ


三 千 の 俳 句 を 閲(けみ) し 柿 二 つ


から採っていることは周知の通りだ。この作品で虚子は写生文の特色を存分に活かし、子規の風貌を実にリアルに活写して余すところがない。おそらく虚子の小説の中では最も秀れたものの一つであろう。

ところで大正四年といえば子規没後十四年、俳句の世界で虚子と碧梧桐が袂を分かってからだいぶ経つ。当時、碧梧桐は新傾向俳句の旗頭として『新傾向句集』を出すなど、その活躍ぶりが世間の注目を浴びていた。

こうした二人の文学上の対峙だけが理由とは思えないが、子規とその周辺を描きながら「柿二つ」はあくまでも子規と虚子の交友が主であって、その他は全て脇役でしかない。また、ここでは主な登場人物はSは子規、Kは虚子といった具合にイニシャルで表す。子規は幼名の升(のぼる)からNの場合もあるし、画家の中村不折はFだ。しかし、どこにも碧梧桐のイニシャルHは出てこない。余り顔を出さない不折にイニシャルを与えるのなら、碧梧桐もHとすればいいのに虚子はそうしていない。

ただ「Kと雑誌を編輯してゐる俳人」というのが碧梧桐のことだ。もっともこういう言い方は碧梧桐だけでなく、伊藤左千夫は「ストーヴを寄附した歌人」になっている。これは左千夫が明治三十三年、子規庵へ石炭ストーヴを寄贈したからである。ちなみに子規生前の根岸界隈はガスはおろか、水道も電気も来ていなかった。電話を引いているのも陸羯南の家だけであった。電気が来ていないのに電話があるのは不思議なようだが、電話は電話線を引くだけで工事が簡単だったからであろう。

(略)


2 もう一つの絶筆


子規の病気を案じて、明治三十五年一月、碧梧桐は妻の茂枝と共に子親庵とは目と鼻の先の上根岸へ転居して来た。虚子も明治三十年十一月から、新婚早々のいとと子規庵からさして遠くない日暮里村元金杉に部屋を借りていたが、何度目かの転宅の末、明治三十四年九月からは麹町区富士見町に移った。長女真砂子、長男年尾が生まれ家が手狭になったからである。寒川鼠骨は以前から子規庵の真南、鉄道線路を渡った空き寺の涼泉院に間借りしていた。

この三人の門下生が中心になって明治三十五年三月の末から、看護当番を決めて子規庵に交替で詰めることにした。子規の母や妹の看病の労苦を少しでも軽くするためであった。

案じていた矢先、それから間もなくの五月十三日、子規の容態が悪化し危篤に近い様相を呈した。子規も『病淋六尺』の五月十八日の項に、


十三日といふ日に未曽有の大苦痛を現じ、心臓の鼓動が始まつて呼吸の苦しさに泣いてもわめいても迫つ附かず、どうやらかうやら其日は切抜けて十四日も先づ無事、唯しかも前日の反動で弱りに弱りて眠りに日を暮らし、十五日の朝三十四度七分といぶ体温は一向に上らず、其によりて起りし苦しさはとても前日の比にあらず・・・


と後日筆記させている。この時は子規ももうこれで駄目かと覚悟し、牡丹の花生けの傍に置いてあった石膏の自分の塑像を碧梧桐に持って来させ、


自題

土 一 塊 牡 丹 生 け た る 其 下 に


と自ら書きつけた。もしこの儘眠ってしまったら、これが絶筆になるところだった。碧梧桐は前夜から当番で泊まっていて、子規が絶筆を書くのを手伝うことになったわけだ。虚子も碧梧桐からの連絡で遅れたが駆けつけ、碧梧桐と交替しその晩は当直した。この日の模様を碧梧桐は、子規の三十三回忌のために補筆した『子規を語る』の〈続編〉に、


それから秀真(ほずま)の作つた子規の塑像を持つて来いと言って、其の裏に「自題 土一塊牡丹生けたる其下に 年月日」と墨をつぎつぎ書くのであった。「病牀六尺」にも「若し此儘眠つたらこれが絶筆であるぞと言はぬ許りの振舞」とあるやうに、明らかに辞世の一句であつたのだ。                (二十八 辞世)


と書いている。

しかし、こんな大騒ぎをした子規も午後になると次第に苦痛も薄らぎ、その日が根岸の祭礼日だったことを思い出す。そして朝の様子とは打って変わって、豆腐のご馳走を取り寄せたりワインに口をつけてみたり、俳句を作ったりする。

(略)

さて問題の子規の塑像は、正面からとひっくり返して底面を撮ったものの二葉が講談社版の『子規全集』第三巻の口絵に出ていて、絶筆もはっきり読みとれる。それは、なぐり書きながら子規らしい筆致でさほど弱々しいものではない。ただ日付は「五月十五日」と書くべきところを「明治三十五年五月十二日」としているが、これは気分の高ぶっていた子規がうっかり間違えたのだろう。


つづく




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