2022年11月4日金曜日

〈藤原定家の時代169〉寿永3/元暦元(1184)年1月29日~2月4日 平氏追討決定(「凡そ近日の儀は、掌を反すが如し」) 平氏追討軍(範頼・義経)進発        

 



寿永3/元暦元(1184)年

1月29日

・朝廷は平氏追討を決定し、2月6日を追討使進発の日とした(『玉葉』)。

また、平氏に対して三種の神器返還を求める使者として後白河院の腹心静賢(じようけん)法印(信西入道の子)を派遣するという話は、静賢の辞退によって中止と決定した(『玉葉』)。平和裡に神器を返還させるのが御使の役目であるのに、それと相反する追討使と同時に派遣されるのは道理にあわず、また御使の役目も果たすことができないというのが事態の理由で、兼実も理にかなった意見という。

密使のやりとりは行われたが、正式な使者の派遣はなく、和平に優先して追討が実施されることになった。

和平使節の内命までうけていた静賢法印は、「和平の使いは、神器の無事な入洛をはかるためであるのに、武士を遺して征討するのなら、今さら普通の御使いにも及ぶまい。使節の責任も負えない」と朝議の変更や法皇の日和見的な態度に憤慨して、使節を辞退した。

こうして、法皇は結果的には、平氏側をだまし討ちにしたことになった。そこから、これらの和平工作や、和平姿勢が、法皇による故意の策謀であったとの説も生まれる。しかし、事実は、静賢のいい分を聞いた兼実が、「申す所、もっとも理(ことわり)あり」と同意するとともに、「凡そ近日の儀は、掌を反すが如し」と批判しているように、そこには朝議の不定見と、法皇自身の混迷があったことによる、偶然の結果と理解できる。

1月29日

・関東の「両将」範頼・義経軍、兵を二手に分けて平氏追討に向かう。

一隊は、西国街道を進む大手軍(総大将は範頼、軍奉行梶原景時。他に鎌倉御家人の武田信義、小山朝政、下河辺行平、千葉常胤、梶原景時の景季・景高・景家ら)。

軍勢には、鎌倉幕府の御家人に、朝廷の命令によって集められた畿内の軍勢が加わっていた。摂津国渡辺津の源留(みなもとのとめる)や遠藤為信は、追討使の廻状によって出陣。彼らは、この追討に加わっている間に、鎌倉幕府の御家人としても登録された。後白河院は、義仲を討った追討使の軍勢が一ノ谷に集結した平氏の軍勢に対して数が少なすぎるので、摂津源氏の多田行綱に出陣を命じ、畿内の武者に対して追討への参加を呼びかけていた。後白河院は、この時に集まった人々が、そのまま鎌倉幕府の御家人として吸収されてしまうとは、思いもよらなかったであろう。一ノ谷に出陣した摂津源氏もまた、同様である。治承寿水の内乱が終わった時、摂津源氏の家人には朝廷の武官として立場を変えなかった紀氏の一族など少数の人々が残ったが、坂東の工藤氏・下河辺氏や摂津国の渡辺党などの家人は鎌倉幕府に吸収されていた。

朝廷の努力によって、範頼率いる大手の追討使は軍勢を増やすことができたが、2月6日段階で兼実が把握していた情報では、追討使大手はわずかに2~3千騎、平氏は2万騎ということであった。『平家物語』との数字の乖離は大きすぎるが、福原旧都にいる平氏の軍勢が範頼の大手の軍勢の数倍以上ということは確認できる。

もう一隊は義経が率いる2万余の搦手軍(安田義定、畠山重忠、土肥実平、熊谷直実・直家父子らの鎌倉の宿将に加え、武蔵坊弁慶、伊勢義盛、佐藤継信・忠信兄弟など、義経子飼いの郎党が従う)は、丹波路を迂回、小野原・三草山を通り播磨三木に向かって進軍。

伊勢平氏や伊勢の在地武士を同盟軍として組織していた義経軍は、山城・丹波国境の大江山(大枝山)付近において一旦逗留し進軍ししなかった。「玉葉」によれば、義経軍には在京経験の豊富な土肥実平と中原親能が「頼朝代官」として付き添っていたが、彼らは院が使者を平氏のもとに派遣して和平交渉を行うことに積極的に賛同しており、「下向の武士、殊(こと)に合戦を好まず」(寿永3年2月2日条)という状況であった。

最終的には後白河院の意向に基づいて、平氏追討が強行されたが、義経軍と同盟関係にあった平氏家人の多くは、その方針が固まった時点で離脱したと思われる。

2月

・河内の源康忠の本宅安堵、兵糧米使の非法停止。御家人化を促す。

〈追討使を迎え撃つ平家方の布陣(延慶本『平家物語』より)〉

平氏の本陣は福原京跡。

一ノ谷の城郭の立地条件は、「木曽討たれぬと聞けば、摂津国と播磨との境なる難波一谷という所にぞ籠もりたる、(中略)南は海、北は山、岸高くして屏風を立てたるがごとし、馬も人も少しも通るべき様なかりけり」(延慶本『平家物語』より)という。義仲滅亡を聞いて急造された城で、手前は海、背後には鉢伏山(神戸市須磨区一ノ谷町)がある。福原旧都の西側の入口を守るために設けた城であると同時に、福原旧都から退く時には須磨浦・明石浦から脱出するための足止めの場所となっていた。一ノ谷の城は塩屋口に設けた要害のことで、山手から生田口にいたる広大な領域を守るために設けたものは陣地(野戦築城)と考えてよいもの。

平氏は軍勢を二手に分け、知盛・重衡が率いる大手は福原旧都の東側を守るために生田の森(兵庫県神戸市生田区)に陣を敷き、丹波路を迂回してくる敵に対して道を塞ぐ要衝となる三草山(兵庫県加東市)に布陣する搦手を小松家の資盛・有盛・師盛の兄弟が率い、侍大将に平清家・江見太郎清平を付けた。この軍勢は総勢7千騎。三草山の陣地は義経の夜製によって落ちたため、師盛と清家が翌5日に福原旧都に戻って負け戦を報告した。そこで、西側を守る搦手の総大将に通盛・平教経、侍大将に平盛俊を任じ、須磨の浦の入口となる一ノ谷城から西側の山裾に布陣した。平氏側は、東側を固める大手の軍勢と、西側を固める搦手の二手に分かれたことになる。

2月1日

・頼朝、範頼が墨俣の渡で御家人と先陣を争った事を知り叱責(「私の合戦を好み、太だ穏便ならざるの由」(「吾妻鏡」同日条)。範頼は3月6日に「御気色の事免許」が命じられるまで謹慎。

2月3日

・行家、後白河の召しにより帰京。その勢はわずかに70~80騎。頼朝の勘気も解けたらしい。

「・・・今日行家入洛す。その勢僅かに七八十騎と。院の召しに依ってなり。頼朝また勘気を免ずと。」(「玉葉」同日条)。

2月3日

・若狭の賀茂別雷社の社司、平氏追討で下向した「官兵」と「国中の武士」が遠敷郡宮河荘・矢代浦に乱入して狼藉を働いたとし、院庁下文を「御使并大将軍」に下して「土民」を安堵してほしいと訴え。7日賀茂社宛に院庁牒発行、「官使并使者」に対し狼藉停止・供祭物の運上を命じる。

ここでの「官使并使者」は、「鎌倉殿勧農使」比企藤内朝宗。比企氏は武蔵比企郡(東松山市周辺)を所領とする豪族、朝宗は、妻が北条政子の「官女」、娘も頼朝に仕えやがて北条義時に嫁す頼朝の信任厚い後家人。範頼・義経軍と共に西上し若狭入り。「追討謀叛の間、土民なきが如し」という状況の北陸道諸国に対する「勧農」権限を保持し国衙在庁の指揮権を掌握。荘園・公領に対する狼藉停止が朝宗に期待される。

2月4日

・義経軍、六甲山北を迂回。5日、範頼軍、摂津昆陽野宿営。

2月4日

・福原で清盛3回忌の仏事。法会は船上で営まれたらしく、安徳や宗盛は福原に上陸せず船で「和田海辺」(大輪田泊付近)にいたらしい(『吾妻鏡』2月20日条)

2月4日

・頼朝、紀伊の湯浅宗重の追討を禁じ、本領安堵して京に召すよう義経に書状を送る。御家人化を促す。


つづく

平氏追討軍の進路と平家軍の防御態勢(一の谷、福原、生田の森)
(兵庫県立歴史博物館HPより)




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