〈藤原定家の時代174〉寿永3/元暦元(1184)年2月7日 生田の森・一の谷合戦⑤ 〈敦盛の最期と熊谷次郎直実〉 〈重衡捕縛〉 より続く
寿永3/元暦元(1184)年
2月7日 生田の森・一の谷合戦⑥
〈師盛の最期〉
重盛の末子師盛が浜に来た時、軍船はすでに見えなかった。それでも、同行する侍たちがいたので小舟を手にいれることができ、渚にそって移動して戦場を逃れようとした。師盛は一ノ谷を脱出してきた忠度の家人豊島真治(とよしまさねはる、武者の名は諸本によって異なる)を助けようと舟を岸に近づけたした。ところが、真治が乗ろうとしたところで舟が転覆し、その光景を見て駆けつけた河越重頼の郎党に討たれている。師盛と同行した人々は、この舟は小さいのでどうやって乗せるのかと思いとどまらせようとしたが、見捨てて逃げられなかったところが師盛のやさしさとして表れている。
〈通盛の最期〉
搦手の総大将通盛が須磨浦にたどりついた時は、味方の軍船も浦に着岸している舟もすでになくなっていた。残っていた舟に乗れた師盛よりさらに遅い。一ノ谷にいた弟の教経は須磨浦から舟で淡路島に脱出した。脱出の手段がなくなった通盛は、東に向かって進み、湊川の河口付近で佐々木盛綱に討たれた。通盛の後を追って退いてきた側近の滝口宮道時貞(みやじときかず)は、首を取られた通盛の適骸を発見し、遺品として笛を持ち、近くにいた馬に乗って一ノ谷に向かった。生き残った時貞は、通盛の正室に最期の姿を伝えている。一ノ谷の城を落とした軍勢は浜に移動し、自由に通過できたと推測できる。
〈業盛の最期〉
小松家の業盛(なりもり、17、通盛の弟)は、浜で単騎となり、常陸国御家人の比気兄弟に討たれる。最期は組み合っている間に古井戸に落ちて討たれたという。
〈忠度の最期〉
一ノ谷の西木戸を守っていた忠度は配下の軍勢が散り散りになったので、最初は浜に向かって退いたが、途中で西に向きを変えて落ちていこうとした。芦屋(兵庫県芦屋市)を目指していたというのであるから、追討使の軍勢の後ろに出て、戦場の外側を大回りして芦屋から淡路島に渡ることを考えていたのであろう。
そのとき勝ちに乗った源氏の軍から、坂東武者の岡部六野太忠純(おかべのろくやたただずみ)が、大将軍と目をつけて追いつき、「名のらせ給へ」と呼びかけた。忠度はとっさに、「おれは味方だ」と答えて、ふり仰いだが、岡部はふと、歯が黒く染められているのに気づいて、平家の公達と見抜き、馬を押し並べて組みついてきた。これを見た平家の落武者らは、われ先にと逃げだしてしまう。忠度はこのとき岡部にむかって、「憎いやつめ。味方だといえば、いわせておけ」というなり、太刀を抜きはなった。
「薩摩守、「にッくいやつかな。みかたぞといはばいはせよかし」とて、熊野そだち大力(だいじから)のはやわざにておはしければ、やがて刀をぬき、六野太を馬の上で二刀(ふたかたな)、おちつく所で一刀(ひとかたな)、三刀(みかたな)までぞつかれける。二刀は鎧の上なればとほらず、一刀は内甲(うちかぶと)へつき入れられたれども、うす手なれば死なざりけるを、とツておさへて頸(くび)をかかんとし給ふところに、六野太が童(わらは)おくればせに馳せ来ッて、打刀(うちがたな)をぬき、薩摩守の右のかひなを、ひぢのもとよりふつときりおとす。今はかうとや思はれけん、「しばしのけ、十念(じふねん)となへん」とて、六野太をつかうで、弓(ゆん)だけばかり投げのけらたり。其の後(のち)西にむかひ、高声(かうしよう)に十念となへ、「光明遍照十方世界、念仏衆生摂取不捨」と宣ひもはてねば、六野太うしろより寄ッて、薩摩守の頸をうつ。」(巻第9「忠度最期」)
高らかに念仏をとなえる忠度の首を、六野太は討ちとったものの、その名を知ることができない。
「よい大将軍うツたりと思ひけれども、名をば誰とも知らざりけるに、箙(えびら)にむすび付けられたる文をといてみれば、「旅宿花(りよしゆくのはる)」といふ題にて、一首の歌をぞよまれたる。
「ゆきくれて木(こ)のしたかげをやどとせば花やこよひの主(あるじ)ならまし 忠度」
と書かれたりけるにこそ、薩摩守とは知りてンげれ。太刀のさきにつらぬき、たかくさしあげ、大音声(だいおんじやう)をあげて、「この日来(ひごろ)、平家の御方(おんかた)にきこえさせ給ひつる薩摩守殿をば、岡部の六野太忠純がうち奉(たてま)ッたるぞや」と名のりければ、敵もみかたも是を聞いて、「あないとほし、武芸にも歌道にも達者にておはしつる人を。あッたら大将軍を」とて、涙をながし袖をぬらさぬはなかりけり。」(巻第9「忠度最期」)
〈盛俊の最期〉
生田の森の山の手の侍大将越中前司盛俊が、せっかく押え込みながら敵方の武者、猪俣小平六則綱(いのまたのこへいろくのりつな)の口先にだまされ、まんまと殺され、名をなさしめる話。
盛俊に押え付けられた則綱は、「敵の首を取るというのは、自分も名のって聞かせ、敵にも名のらせたうえで、首を取ることがたいせつである。名も知らない者の首を取ってどうなさるつもりか」、と言って押した手を緩めさせ、さらには、「降人の首を取っても仕方がないだろう」、などとことば巧みに持ちかけて助けられ、田の畦に二人で腰をおろして一息入れた。そこへ向うから馬に乗った武者が一騎近づいて来た。よく見ると源氏方の人見四郎である。それがいよいよ近づいて盛俊の注意が則綱をはなれた瞬間、則綱は盛俊を突倒し、その腰刀を奪って首を掻き取った。そして人見四郎に聞えよがしに大音声で、「この日来平家の御方に鬼神と聞えつる越中前司盛俊をば、武蔵国の住人猪俣小平六則綱が討ったるぞや」と叫び、そこで則綱は、「その日の高名の一の筆にぞ附きにける」、とある。
つづく
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