寿永3/元暦元(1184)年
4月1日
・頼朝、伊豆より鎌倉に帰着(「吾妻鏡」)。
4月4日
・頼朝、平家没官領の内、平頼盛に庄務権のある家領であった34ヶ所の荘園を返還し安堵。5日、頼盛に得分権をもつ所領も安堵。
「池前の大納言並びに室家の領等は、平氏の没官領の注文に載せ、公家より下さると。而るに故池の禅尼の恩徳に酬いんが為、彼の亜相の勅勘を申し宥め給うの上、件の家領三十四箇所を以て、元の如く彼の家の管領たるべきの旨、昨日その沙汰有り。」(「吾妻鏡」同6日条)。
一旦帰京。
5月3日、鎌倉へ。6月5日、還任(正二位・前権大納言)。鎌倉出発。16日帰京。12月20日、権大納言辞任。元暦2年(1185)5月29日出家(平大納言入道と呼ばれる)。6月下旬、備前・播磨(院分国)を与えられる。文治2年(1186)6月2日病死
4月4日
・「御亭の庭の桜開敷艶色其濃なり。仍って中宮の亮能保朝臣を招請し申さる。相共に終日この花を翫ばしめ給う。前の少将時家その座に接る。」(「吾妻鏡」同日条)。
4月4日
・文覚が頼朝に若狭遠敷郡西津荘の百姓安堵と神護寺領としての保証を求め、この日、頼朝は神護寺宛に返書を送りこれを安堵。「藤内朝宗ハこれよりおほせなとかふらぬひか(僻)事なとハすへからす」と強調し、「いなむらとかいふもの」の非法は停止すべきと述べる。「いなむら」が「稲庭」の誤伝であれば、若狭の有勢在庁稲庭時定が平氏没官跡として西津荘を押さえ、頼朝は「勧農使」比企朝宗によりこれを抑制、この荘を神護寺に安堵。
この月、越前河和田荘の荘官らが、義仲従者斎藤友実の「濫妨」を受け継ぎ「鎌倉殿勧農使」比企藤内の下知と号し、地頭を称する僧上座が荘内に乱入し荘務を張行したと訴え、翌5月、「源家の濫妨」・「上座の狼藉」を停止する後白河院庁下文が在庁官人らに下される。頼朝の意志はこのように比企朝宗を通じて越前にも貫徹。
同じ5月、朝宗は加賀在庁との連署で所領を加賀白山宮に寄進(推定)、6月14日、朝重の下文で越中石黒荘弘瀬村(富山県福光町)が藤原定直に安堵(推定)。比企朝宗は、若狭・越前に加え能登・越後・佐渡についても頼朝の使としてその権限を行使したと推定。
朝宗は、北陸道が東国「王権」支配に入ったことを明確にし、7月鎌倉に帰る。
朝宗は、「鎌倉殿勧農使」権限を背景に、加賀額田荘(加賀市)・越中般若野荘(砺波市・高岡市)などを所領とし、越前でも河和田荘・吉田郡志比荘の所職を得る。若狭では、遠敷郡津々見保のみが平氏没官領として朝宗の甥比企能員の妹を母とする島津忠久の同腹の弟右衛門次郎忠季に与えられるのみ。
稲庭時定をはじめ中原氏一門を中心とする若狭の在庁・国人は、義仲に対してと同様に、東国の影響の及ぶのを最小限に喰い止める。
4月8日
・重衡、狩野介宗茂に連れられ伊豆より鎌倉に来着。頼朝は、邸の一屋舎を重衡宿舎とし宗茂郎党が交代で守護するよう命じる。
4月14日
・三善康信(頼朝ブレーン)、鎌倉へ下向。
「源民部大夫光行・中宮大夫屬入道善信(俗名康信)等、京都より参着す。光行は、豊源民部大夫光行・中宮大夫屬入道善信(俗名康信)等、京都より参着す。光行は、豊東に在り。仍って連々恩喚有るが故なり。」(「吾妻鏡」同日条)。
「民部大夫光行、また豊前の前司、平家の悪事に與す。免許を蒙るべきの由、御書を源九郎主に遣わさると(平氏与同の科を免す旨、義経に伝える)。」(「吾妻鏡」同22日条)。
4月15日
・後白河、崇徳上皇の怨霊鎮魂のため、保元の古戦場、白河北殿跡に粟田宮を創建。
4月16日
・「元暦」に改元。
4月20日
・頼朝、重衡に沐浴を許し、右筆藤原邦通・寵臣工藤祐経・女房千手前を重衡の許に遣わし酒・果物を届ける(「吾妻鏡」)。手越長者娘千手が、朗詠・今様を歌い、琴をひき慰める。平重衡は酌を重ね琵琶をひく。
この時、大江広元は、重衡の琵琶と朗詠の才に感服した頼朝に対して、才人の多い平家の中でも重衡は卓越した歌人であるとして、その芸能の才を称える説明をし、平氏一門を花に喩えるならば重衡は牡丹の花であると最大級の賛辞を与える。
「本三位中将、武衛の御免に依って沐浴の儀有り。その後秉燭の期に及び、徒然を慰めんが為と称し、籐判官代邦通・工藤一臈祐経、並びに官女一人(千手前と号す)等を羽林の方に遣わさる。剰え竹葉上林已下を副え送らる。羽林殊に喜悦し、遊興刻を移す。祐経鼓を打ち今様を歌う。女房琵琶を弾き、羽林横笛を和す。先ず五常楽を吹く。下官の為には、これを以て後生楽と為すべきの由これを称す。次いで皇ショウ急を吹く。往生急と謂う。凡そ事に於いて興を催さざると云うこと莫し。夜半に及び女房帰らんと欲す。羽林暫くこれを抑留し、盃を與え朗詠に及ぶ。燭暗くすは数行虞氏の涙、夜深けては四面楚歌の声と。その後各々御前に帰参す。武衛酒宴の次第を問わしめ給う。邦通申して云く、羽林は、言語と云い芸能と云い、尤も以て優美なり。・・・武衛殊に事の躰を感ぜしめ給う。世上の聞こえを憚るに依って、吾その座に臨まず。恨みたるの由仰せらると。武衛また宿衣一領を千手前に持たしめ、更に送り遣わさる。その上祐経を以て、辺鄙の士女還ってその興有るべきか。御在国の程、召し置かるべきの由これを仰せらる。」(「吾妻鏡」同20日条)。
「大膳大夫(だいぜんだいぶ)広元、其時ハ因幡守卜申ケルガ、広庇(ひろびさし)ニ執筆(しゆひつ)シテ候ケルニ、兵衛佐(ひようえのすけ、頼朝)被仰(おおせられ)ケルハ、「平家ハ弓矢ノ方ヨリ外ハ、嗜(たしな)ム事ハ無歟(なきか)卜思タルニ、三位(重衡)終夜(よもすがら)琵琶ノ事柄口ズサミ、優ナル物哉」トゾ宣ケル。広元閣筆(ふでをさしおき)テ、「平家ハ代々相伝ノ才人、此人ハ当世無双ノ歌人ニテ候。彼一門ヲ花ニ喩(たとえ)候シニハ、此殿(重衡)ヲバ牡丹ノ花ニ例テコソ候シカ」トゾ申ケル」(『延慶本平家物語』第5末「重衡卿千手前卜酒盛事」) ← 広元はこの時点では因幡守にっていないなどの矛盾あり、創作の可能性が高い
酒宴では、祐経が鼓は打って今様をうたう、女房千手前は琵琶を弾じ、これに和するに重衡は横笛でもってする。その楽は五常楽(ごじようらく)だったが、これを「後生楽(ごしようらく)」といい、ついで皇麞急(おうじようのきゅう)を吹いて「往生急」であるといったので、興を催さないものはなかった。こうして時を過して夜半に及び、女房が帰ろうとしたとき、重衡はこれをとどめ、盃を与えて朗詠した。
燈(ともしび)暗うしては数行虞氏(すこうぐし)が涙、
夜探うして四面楚歌の声。
人々は重衡の言語や芸能の優美さにすっかり感嘆した。酒宴後、その様子を聞いた頼朝も、「自分は世上の聞えをはばかってその座に臨まなかったのを残念に思う」述懐し、宿衣一領を千手前に持たせて、彼女を重衝に侍せしめている。
「三位中将のたまひけるは、「この楽をば普通には五常楽といへども、重衡がためには、後生楽(私の後世を祈る曲)とこそ観ずべけれ。やがて往生の急を弾かん」とたはぶれて、琵琶をとり、転手(弦を調整するねじ)をねぢて、皇麞急(おうじやうのきゆう)をぞ弾かれける。夜もやうやうふけて、よろづ心のすむままに、「あら、思はずや、あづまにもこれほど優なる人のありけるよ。何事にてもいま一声」とのたまひければ、千手前また、「一樹の陰に宿りあひ、同じ流れをむすぶも、みなこれ先世の契り」といふ白拍子を、まことにおもしろくかぞへすましたりければ、中将も「灯闇うしては、数行虞氏が涙」といふ朗詠をぞせられける。たとへばこの朗詠の心は、昔もろこしに、漢の高祖と楚の項羽と位を争ひて、合戦する事七十二度、戦ひごとに項羽勝ちにけり。されどもつひには項羽戦ひ負けてほろびける時、騅といふ馬の一日に千里をとぶに乗つて、虞氏といふ后とともに逃げ去らんとしけるに、馬いかが思ひけん、足をととのへてはたらかず。項羽涙を流いて、「我が威勢すでにすたれたり。今はのがるべき方なし。敵のおそふは事の数ならず。この后に別れなんことの悲しさよ」とて、夜もすがら嘆き悲しみ給ひけり。」(『平家物語』巻十「千手前」)
なお、千手前は、重衡が殺されてから3年後、文治4年(1188)4月25日早暁、亡くなっている。
「今暁千手前卒す(年二十四)。その性はなはだ穏便。人々惜しむ所也。前故三位中将重衡参向のとき、不慮に相馴(あいな)れ、かれ上洛の後、恋慕し、朝夕休まず。憶念の積る所、若(もし)くは発病の因となるかの由、人これを疑う、と云々。」(「吾妻鏡」)。
つづく
0 件のコメント:
コメントを投稿