〈藤原定家の時代193〉元暦2/文治元(1184)年2月17日~18日 屋島の合戦(1) 阿波に上陸した義経、粟田良遠の館を落とし屋島へ強行 一旦は軍船に逃れた平氏に手痛い逆襲を受ける より続く
元暦2/文治元(1184)年2月17日~18日 屋島の合戦(2)
〈『平家物語』にみえる屋島合戦〉
『平家物語』覚一本と『吾妻鏡』の屋島合戦の流れはほぼ同じだが、やはり『平家物語』の方が逸話が多い。
たとえば、
①阿波から讃岐に向かう山中で、義経の進行を伝える京都からの書状を屋島に運ぶ男を捕らえた話。
②継信最期の合戦の前に、越中盛嗣と伊勢義盛が「詞争」(言葉争い)をした話。
など。
また、『吾妻鏡』では、19日の屋島合戦本戦は、継信最期で記述が終わっているが、覚一本では合戦はその後も続き、
③那須与一が扇の的を射当てた話、
④逃げる源氏側の三穂屋(みをのや)十郎の冑の𩊱(しころ)を、追う平氏側の上総景清が引きちぎった話(「𩊱引き」)、
⑤義経が対戦中に弓を海に落とし、それを危険を顧みずに拾い上げた話(「弓流し」)などの著名な逸話がある。
『平家物語』による屋島合戦
〈詞戦(ことばたたかい)〉
19日辰刻(午前8時ごろ)には屋島内裏の向い側の浦に到着し、早速牟礼(むれ)や高松の在家に放火。平家は、大勢の敵が攻めて来たと判断して、総門の前の汀に並べてあった船に乗り移り、海上に浮び出てしまった。互いに矢石を発したが、海と陸とでは戦にならなかった。
「能登殿はおはせぬか、陸(くが)に上がって一軍(ひといくさ)し給へかし」と呼びかける。
「承り侯」、と越中次郎兵衛盛嗣を先として500余人小船に乗り、源氏方に焼払われた総門前の汀に押寄せた。そして源氏方に向って「詞戦(ことばたたかい)」を挑んだ。
盛嗣「先刻や名のりあったようだが、海上はるかに隔たって仮名(けみよう、通称)・実名がしかと分らぬ。今日の源氏の大将は誰人なるぞ。名のり給え」
伊勢三郎義盛(進み出て) 「ああ、申すも愚かながら清和天皇十代の後胤、鎌倉殿の御弟、九郎大夫判宮殿なるぞ」
盛嗣「聞いたことがある。先年平治合戦のとき、父が討れて孤児になり、鞍馬の児(ちご)となり、後には金商人の所従となり、粮料背負うて奥州へ下った、あの小冠者(こかんじや)めか」
義盛「口達者だからといって、わが君のことをかれこれ申すな。おまえこそ砥波(となみ)山の合戦に負けおって北陸道をさまよい、危い命を助かって、乞食(こつじき)して都へ逃げ上った人間のくせに」
盛嗣「君の御恩に堪能して、何で乞食なんぞしようぞ、そういうおまえこそ鈴鹿山の山賊ではないか」
見かねた金子十郎家忠が進み出ていう。
つまらぬ殿ばらの雑言なんぞやめなされ。互いにでたらめ言って悪口したとて勝負にはなりますまい。
といい終らぬうちに弟の与一親範(ちかのり)が十二束(そく)三伏(みつぶせ)の大弓を引きしぼってひょうと放つと、矢は盛嗣の鎧の胸板の裏にまで深くささった。それで詞戦は終った。
義経の生い立ちに触れた「詞争」
この「詞争」で、盛嗣は、伊勢義盛の主君である義経を、
「一とせ平治の合戦に、父うたれてみなし子にてありしが、鞍馬の兒(ちご)して、後にはこがね商人の所従になり、粮料せをうて奥州へおちまどひし小冠者が事か、」
と貶す。この「こがね商人」は、延慶本では「三条ノ橘次(きちじ)卜云シ金商人」とあり、壇ノ浦合戦でも、義経のことを「金商人ノ所従」と表現する。
義経が鞍馬から奥州に下向する際に、「金売り吉次」に伴われたことは義経の著名な伝説のひとつである。そうした伝説の源流がここにうかがえる。義経は商人の「粮料」(食糧)を背負って、奥州に「おちまど」ったのであり、義経が恵まれた環境のなかで奥州に下向したのではないことを示している。
なお、「金売り吉次」の実像は、院や摂関家の御厩舎人(みうまやのとねり、上皇や摂関家所有の馬を管理する役職)ではないかと言われている。奥州は名馬と砂金の産地であるから、御厩舎人は名馬と砂金を求めて京都と奥州を往復し、また院の舎人は朝廷の使者ともなり、また裕福でもあったという。
ちなみに、壇ノ浦合戦後に義経が任命される院の御厩別当とは、そうした舎人を束ねる長官であり、上皇の親衛隊長のような役割を果たした。
〈佐藤嗣信の最期〉
佐藤嗣信は、浜の合戦で馬上から弓を射ていたところ、首に矢が当たって落馬した。それをみた平教経の童菊王丸が首を取りに走って行ったが、佐藤嗣信の弟忠信に射られて倒れた。それをみた教経は船を下りて菊王丸を救出したので、菊王丸は船内で亡くなった。一方、佐藤忠信は兄を助けて義経の御前に連れて行き、主従の最期の対面を遂げた。
菊王丸は、通盛が一ノ谷合戦で討たれた後、教経に仕えるようになったという。これは、兄通盛の軍勢の生き残りが、一ノ谷から淡路島を経て屋島に退いてきた教経の軍勢に合流したことを示唆している。
『源平盛衰記』は、義経には腹心とたのむ4人の郎党がいたと記す。そのうち、鎌田政清(正家)の子盛政が一ノ谷合戦で討ち死にし、屋島合戦ではその弟鎌田光政と藤原秀衡が附けた佐藤嗣信の二人が討ち死にした。奇襲や急戦を好む義経は、宗たる武者が少数の郎党だけを率いた突撃や騎馬戦をするので、軍勢の中核となるべき人材を多く死なせてしまう欠点をもっていた。
同じ頃、渡辺津に置いて行かれた義経配下の軍勢は、居残った軍奉行梶原景時の努力によって解散とならずにすみ、軍勢としてのまとまりを維持することができた。しかし、彼らの不満は大きく、急いで義経を追いかけるような行動には出なかった。義経は、渡辺津から後続の軍勢が駆けつけることが期待できず、自らの手で合戦をなんとかしなければならなくなっていった。
但し、教経は、『吾妻鏡』『玉葉』によればすでに一の谷の合戦で戦死している。『平家物語』では教経は壇の浦でも活躍して入水したとし、「能登殿最期の事」という一段がある。一の谷での死が事実とすれば、その後の教経の物語は虚構ということになる。
一方、嗣信を失った義経も悲嘆にくれ、これを丁重に葬っている。『平家物語』巻11「嗣信最期の事」では、「もしこの辺に導き僧やある」と尋ね、一日経(いちにちきよう、多人数で一日のうちに一部を書写すること)を書いて弔ってほしいと頼み、大夫黒(義経が判官五位に任じられたとき後白河から拝領し、鴇越の逆落しもこの馬で下ったという)と呼ばれた名馬をその僧に布施として与えている。『吾妻鏡』も同様の記事を掲げた後、「これ戦士を撫むの計(はかり)なり。美談せざるはなし」と評している。
〈扇の的〉
海に逃れた平氏は、義経の急襲をしのぎ、追討使の軍勢が思いのほか少ないとわかると、落ち着きを取り戻した。平氏側は、讃岐・阿波の港に散在させた家人が駆けつけてくるのを待ち、河野氏追討を終えて伊予国から帰路についている栗田教良の軍勢の到着を待つことができるので、水軍だけで無理に戦いを進める必要はなかった。しかも、追討使より弓戦の技術は高いので、軍船の上から源氏の騎馬武者を一方的に叩くことができた。
余裕の出てきた平氏は、ここで趣向をこらした提案を義経に対して行った。女房を乗せた非武装の軍船を一艘、汀(みぎわ)に近づけさせ、その軍船に造った扇の的を射落としてみよというのである。その説明は女房が身振りで行うので、これが戦闘でないことは明らかであった。この挑発を受けた義経は、応ぜざるをえまいと武者たちに相談したところ、後藤実基(さねもと)が那須資宗(すけむね)の子余一資高(よいちすけたか)が上手であると推薦した。
鎌倉を代表する弓の名手は下河辺行平と榛谷重朝(はんがやしげとも)であるが、下河辺行平は範頼に属して周防国にいた。榛谷重朝は秩父一族である。今は、三浦一族と秩父一族は頼朝の命令で仲良くしているが、三浦氏は治承4年(1180)の衣笠城合戦で河越重頼を惣領とする秩父一族が三浦義明(義澄の父)を討ったことを忘れてはいなかった。三浦義澄にはこのような合戦のの華となる場面を、秩父一族の榛谷重朝が勤めることは許しがたいであろう。周囲はその事に気をつかい、下野国北部の豪族那須氏の子がよいと後藤実基が気を利かせて推薦した。
那須資高は馬の腹が水につかるまで海の中に入り、見事に一矢で的を射貫いている。平氏側は船板を叩いて資高の優れた射芸を賞賛し、50代の武者が舞を披露した。ところが、追討使の側にはそのような余裕はなく、舞う武者を射よという強硬な意見が出され、資高は老武者も射ることになってしまった。これは、追討使の中に生まれた資高に対する嫉妬を、義経が抑えきれなかったことを示している。扇の的を射たところで終われば、合戦の中に生まれた雅な場面として語り継がれることになる。しかし、その射芸を讃えて舞う者まで射てしまったので、「情け無く射たり」という結末になってしまった。
〈夜戦〉
ここで、平氏側から猛然と攻め始めるものが出て、夕刻の浜で再度の激突がおこる。軍船から上陸した平氏の武者は200余騎、追討使側の軍勢は300騎であるが、平氏側には軍船から援護の弓射があるので、またしても露出した状態で戦うことになった追討使の騎馬武者は浜から退けられていった。
義経は乗馬を海に入れた時に弓を流してしまうほどの緊迫した状態となり、平氏の軍船にすぐ側まで迫られる危機にみまわれた。この日、追討使は浜から離れた毛無山に陣取り、平氏は焼失した内裏の前に陣を取ることになった。
『平家物語』は、義経の急襲が成功して追討使が優勢なように記述されているが、個別に事例を積み上げていくと、この日の合戦は一方的に損害を出した上に突入以前の場所に押し戻された弁明の余地なしの義経の負け戦である。合戦は夜も続いたが、またしても追討使は平氏の弓射の前に前進を阻まれ、多くの者が討たれたという。
『平家物語』は、この夜、それまで三日三晩寝ていなかった源氏の兵たちが前後不覚に寝込んでしまったのを、もし平家方が夜襲していたらひとたまりもなかったろうに、攻撃しなかったのが運のきわめとはなった、としている。
つづく
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