2022年11月16日水曜日

〈藤原定家の時代181〉寿永3/元暦元(1184)年4月21日~29日 志水義高(12、義仲嫡男)、入間河原で殺害される 一条忠頼(甲斐源氏武田信義の嫡男)謀殺 「平氏なお強々、松浦党以下少々これに属す」(『吉記』)      

 


寿永3/元暦元(1184)年

4月21日

・粛清②。頼朝娘大姫の夫で義仲嫡子志水義高(12)、鎌倉を出奔。

26日、頼朝家臣堀親家の郎党、義高を捕らえ、武蔵入間河原で斬る。

義仲没後はの義高は、「武衛の聟タリトイへドモ、・・・・・ソノ意趣モツトモ度リガタシ」(「吾妻鏡」21日条)との理由。頼朝は復讐を怖れた。大姫にとって、この事件の衝撃は大きく、「病床ニ沈ミタマヒ、日ヲ追ヒテ憔悴」という状況(『吾妻鏡』元暦元年六月二十七日)。回復することなく、13年後、建久8年(1197)、没。

「仍って志水の冠者計略を廻らし、今暁遁れ去り給う。この間女房の姿を仮り、姫君御方の女房これを圍み郭内を出しをはんぬ。・・・而るに海野の小太郎幸氏は、志水と同年なり。日夜座右に在って、片時も立ち去ること無し。仍って今これに相替わり、彼の帳臺に入り宿衣の下に臥し、髻を出すと。日闌て後、志水の常の居所に出て、日来の形勢を改めず、独り双六を打つ。・・・晩に及び縡露顕す。武衛太だ忿怒し給う。則ち幸氏を召し禁しめらる。また堀の籐次親家已下の軍兵を方々の道路に分け遣わし、討ち止むべきの由を仰せらると。姫公周章し魂を鎖しめ給う。」(「吾妻鏡」同日条)。

堀の籐次親家郎従籐内光澄帰参す。入間河原に於いて志水の冠者を誅するの由これを申す。この事密儀たりと雖も、姫公すでにこれを漏れ聞かしめ給い、愁歎の余り、奬水を断たしめ給う。理運と謂うべし。御台所また彼の御心中を察するに依って、御哀傷殊に太だし。然る間殿中の男女多く以て歎色を含むと。」(「吾妻鏡」同26日条)。

「堀の籐次親家の郎従梟首せらる。これ御台所の御憤りに依ってなり。去る四月の比、御使として志水の冠者を討つが故なり。その事已後、姫公御哀傷の余り、すでに病床に沈み給い、日を追って憔悴す。諸人驚騒せざると云うこと莫し。志水が誅戮の事に依って、この御病有り。偏に彼の男の不儀に起こる。縦え仰せを奉ると雖も、内々子細を姫公の御方に啓さざるやの由、御台所強く憤り申し給うの間、武衛遁れ啓すこと能わず。還って以て斬罪に処せらると。」(「吾妻鏡」6月27日条)。

4月23日

・「下河邊の四郎政義は、戦場に臨み軍忠を竭し、殿中に於いて労功を積む。仍って御気色殊に快然なり。就中、三郎先生義廣謀叛の時、常陸の国の住人等、小栗の十郎重成の外、或いは彼の逆心に與し、或いは奥州に逐電す。政義最初より御前に候せしむるの外、或いは彼の逆心に與し、或いは奥州に逐電す。政義最初より御前に候せしむるに於いて諧わざるの由、筑後権の守俊兼に属きこれを愁い申す。仍って芳志に随うべきの由、慇懃の御書を常陸の目代に遣わさる。」(「吾妻鏡」同日条)。

4月26日

・粛清③。一条忠頼(甲斐源氏武田信義の嫡男)、鎌倉に招かれ鎌倉の営中で頼朝が臨席した酒宴の最中に謀殺される。

延慶本『平家物語』では工藤祐経によって殺害されている。この時、忠頼の郎党らが反撃するが、3人が殺害され、他は捕縛される。同月、忠頼の子の行忠が常陸に流され誅殺される。

なお、この事件は『吾妻鏡』では6月16日となっており、頼朝は助経に討手を命じるが、助経が逡巡したので、別に討手を命じられていた天野遠景が誅殺したとある。

内乱当初から独自の行動をとってきた甲斐源氏の一族は、1月20日の義仲滅亡の際には、安田義定や一条忠頼が鎌倉軍とともに義仲追討にあたり、この頃から頼朝にしたがっていた。その甲斐源氏武田信義の子板垣兼信は、この年3月に土肥実平とともに山陽道に下向した際、頼朝と同じ源氏一門であるとして実平の「上司」となることを望み、頼朝から「門葉(もんよう)によるべからず」(「吾妻鏡」3月17日条)と叱責を受ける。

「武田の党」は治承4年の甲斐・駿河路の戦いで平家を二度破り、富士川の戦いでも勝利したし、横田河原の合戦、平家の都落ち、宇治川の合戦・粟津の合戦、生田森・一の谷の合戦のいずれにも参加し、頼朝の勝利に貢献した一族である。しかし、平家追討の終りが見え始めた今、もう利用価値はなく、早く抑え込んだ方が得策である。

頼朝の甲斐源氏弾圧。

建久元年7月、信義3男板垣兼信が隠岐に流され、同4年11月、安田義定(信義の弟)・義資父子を排斥。信義自身の鎌倉出仕は、建久5年11月以降なくなる。信義一族で、命脈を保つのは、弟の加賀美遠光・奈古義行・浅利義成、5男(石和)信光、小笠原長清、信義の継承者武田有義のみ。有義は正治元年(1199)12月の梶原景時失脚に連座し、石和信光に排斥される。

「一條の次郎忠頼威勢を振うの余り、濫世の志を挿むの由その聞こえ有り。武衛又これを察せしめ給う。仍って今日営中に於いて誅せらるる所なり。」

夕方、頼朝は忠頼を招き、向き合って着席。御家人数人が列席。忠頼の討手工藤祐経が頼朝へ献盃。祐経の顏色は尋常でない。小山田有重の子の重成・重朝が盃と肴を手にして忠頼の前に進むが、有重は息子2人に「指貫は上括とするもの」と教え、2人が括を結んでいる時、天野藤内遠景が忠頼を誅殺。頼朝は背後の障子を開き奥に入る。忠頼の共侍の新平太と甥の武藤与一と山村小太郎が、主人殺害を見て、太刀を手を取り侍の間に駆け上る。3人は、多くを傷付け頼朝の寢殿近くに進む。稲毛重成・榛谷重朝・結城七郎朝光達が新平太・与一を討ち、天野遠景が山村を俎板で打ち、縁の下に転倒したところを遠景の郎従がその首を取る。翌日、頼朝は鮫島四郎(宗家)を召し、昨夕の騒動で宗家に御方討ちの罪科があったとして右手の指を切らせる(「吾妻鏡」6月16、17日条)。

「忠頼の家人甲斐の小四郎秋家」は、「歌舞の曲に堪える者」で、官仕すべきと命じられる(「吾妻鏡」6月18日条)。

「今日、井上の太郎光盛(一条忠頼の一族)、駿河の国蒲原の駅に於いて誅せらる。これ忠頼に同意するの聞こえ有るに依ってなり。光盛日来在京するの間、吉香船越の輩、兼日の厳命を含み、下向の期を相待ちこれを討ち取ると。」 (「吾妻鏡」7月10日条)。

「故井上の太郎光盛の侍保科の太郎・小河原雲籐の三郎等降人として参上す。仍って御家人たるべきの由仰せ下さる。籐内朝宗奉行すと。」 (「吾妻鏡」7月25日条)。

4月27日

・吉田経房、「平氏なお強々、松浦党以下少々これに属す」(『吉記』)と平氏が九州での勢力回復に成功していることを伝える。一時は平氏を九州から追い出す勢いを示した緒方氏も、再び豊後国に押し戻された。

4月28日

・頼朝、平氏「征罰無事の御祈祷の為、淡路の国廣田庄を以て廣田社に寄附せらる。その御下文、前の齋院次官親能が上洛の便宜に付け、神祇伯仲資王に遣わせらるべしと。」(「吾妻鏡」同日条)。

4月29日

・頼朝、文官中原親能(ちかよし)を派遣し平氏追討を奉行させる。

「前の齋院次官親能使節として上洛す。平家追討の間の事、西海に向かいこれを奉行すべしと。土肥の次郎實平・梶原平三景時等同じく首途す。兵船を調え置き、来六月海上和気の期に属き、合戦を遂ぐべきの由仰せ含めらると。」(「吾妻鏡」同日条)。

4月29日

・文覚が院参して荒言を吐いたとの風聞(「玉葉」)。


つづく

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