寿永3/元暦元(1184)年
6月1日
・『吾妻鏡』における大江広元の初見記事。
鎌倉を離れる頼盛への頼朝の餞別の礼に参加。
小山朝政・三浦義澄・結城朝光・下河辺行平・畠山重忠・橘公長・足立遠元・八田知家・後藤基清などが頼朝御前に居並ぶ餞別の場で、広元は、平時家とともに引出物を頼盛に与える役を勤めている(時家は金作剣、広元は砂金)。平時家は時忠の次男であり、頼朝挙兵以前より関東に下ったのち、頼朝の側近として儀礼の場で活躍した人物。
6月4日
・「石河兵衛判官代義資関東に参着す。朝夕官仕を致すべきの由これを申す。これ去る養和元年、平家の為生虜らるる所の河内源氏の随一なり。近年は、また義仲が為に襲われ、太だ度を失うと。而るに武衛これを執り申さるるに依って勅勘を免ず。去る三月二日、右兵衛の尉元の如しの由宣下せらると。」(「吾妻鏡」同日条)。
6月5日
・この日、除目(論功行賞)。20日に結果が鎌倉に到来。頼朝、正四位下叙任。三河・駿河・武蔵の3ヵ国が知行国として頼朝に与えられ、三河守に源範頼(頼朝弟)、駿河守に源広綱(政子息)、武蔵守に平賀義信(信濃源氏、源義光孫)が補任された。このような頼朝の知行国は「関東知行国」「関東御分国」と呼ばれ、翌文治元年8月には伊豆・相模・上総・信濃・越後・伊予の6ヵ国が加えられた。
なお、義経は任官なく、範頼は義経より早く任官され、喜んだという。平頼盛は、正二位・権大納言に還任。
「武衛範頼・義信・廣綱等を召し聚め勧盃有り。次いで除目の事を触れ仰せらる。各々喜悦せしむか。就中、源九郎主頻りに官途の吹挙を望むと雖も、武衛敢えて許容せられず。先ず蒲の冠者を挙し申さるるの間、殊にその厚恩を悦ぶと。」(「吾妻鏡」6月21日条)。
6月16日
・この日、平氏が備後国に進入して、惣追捕使土肥実平・子の遠平が指揮する軍勢を破ったとの情報が京都に届く(『玉葉』)。これは、安芸国以西を平氏が勢力圏として確保していることを示している。このことを聞いた梶原景時が播磨国から備前国に軍勢を動かしたところ、その際を突いて屋島にいる平氏の水軍が室泊(兵庫県たつの市)を焼き払った。前年、室山合戦で 行家を破った場所である。
瀬戸内海の制海権はまだ平氏水軍が握っていて、戦場を選ぶ権利(主導権)を平氏が持っていることを示している。平氏追討は、完全に行き詰まっている。
兼実は、この時期の状況を「平氏その勢強しと云々、京勢わずか五千騎に及ばず」と在京する頼朝の軍勢が劣勢であるとの認識を示す(「玉葉」)。
6月17日
・「玉葉」この日条、九条兼実の後白河法皇への悪口書き付ける。
法皇が貧しい蒔絵師の家に到り、美しい製品を献納せよと命じるが、蒔絵師は貧しい故に献納せず。後、北面の武士周防入道能盛が取上げて献納。陽成天皇・花山天皇の狂と謂えども此のようなことはしなかった、とある。
6月23日
・「片切の太郎為安信濃の国よりこれを召し出さる。殊に憐愍せしめ給う。これ父小八郎大夫は、平治逆乱の時、故左典厩の御共たるの間、片切郷は、平氏の為収公せられ、すでに二十余年手を空うす。仍って今日元の如く領掌すべきの由仰せらると。」(「吾妻鏡」同日条)。
6月23日
・右中弁行隆、東大寺大仏再興の鍍金料として、頼朝1千両、秀衡5千両を献納と報告(「玉葉」同日条)。
つづく
0 件のコメント:
コメントを投稿