2022年11月6日日曜日

〈藤原定家の時代171〉寿永3/元暦元(1184)年2月7日 生田の森・一の谷合戦② 後白河の騙し討ち? 「鵯越」について(義経は鵯越を通っていない)

 

月岡芳年 作「一之谷鵯越逆落之図」(刀剣ワールドHP)


寿永3/元暦元(1184)年

2月7日 生田の森・一の谷合戦②

〈騙し討ち;一方で和平の話し合いを提案して油断させ、強襲に出た?〉

「合戦前日の六日、修理(しゅり)権大夫(ごんのたいふ)から書状が届きました。「和平の相談があるので、来たる八日に京を出、院のお使いとしてそちらに下向します。私が安徳天皇の勅答を承って帰京するまでは狼籍をしてはならないという院の御命令が、関東武士に伝えられております。だからこの件を早く貴軍の兵士たちにお知らせください」という内容だった。それを信じたため平家は手ひどい損害を受けた。これはいったいどういうことですか」と詰問(「吾妻鏡」2月20日条)。宗盛は、和平の話は平家を油断させるための謀略だったのかと抗議している。

和平の儀は、正月26日、静賢(しょうけん)法印(信西の子)が和平使に指名され、詳細を言い含められていた。院自身はもともと平家追討でこり固まっていたので、もし後白河が和平に関心を示したとすれば、入京必至という平家の勢いを恐れた以外に、理由は考えられない。ところが同じ日に平家追討使の第一陣が京を発っていて、翌日には平家への使いの派遣が中止になった。和平話に安堵していた兼実は、後白河院側近の強硬派の策動によるものだと怒る。正月29日には範頼・義経の出立が完了する。にもかかわらずなお使節として静賢に派遣が命ぜられ、さすがに彼は、追討使派遣のうえは「道理叶はず」と辞退した(『玉葉』)。

宗盛が修理権大夫から書状が来たというから、静賢が辞退した後、その人物が改めて和平交渉の窓口に指名されたと推測できるが、その修理権大夫の実名はわからない。修理大夫であれば後白河側近の参議藤原親信(ちかのぶ)だが、彼は平家追討の急先鋒の一人なので和平使には立たないだろう。

仮に、和平話が進んで停戦命令が出たとしても、鎌倉方は聞く耳を持たないだろう。経過がどうであれ結果として平家は騙されたことになる。


〈鵯越について〉

鵯越は、『平家物語』では一の谷後方に通じる険しい獣道として描かれ、義経軍が急峻な崖を騎馬のまま駆け下りたという「坂落し」の名場面で有名。しかし、最近の研究は、『平家物語』が生田の森・一の谷・鴇越のすべての戦場を一の谷に圧縮して、「一の谷合戦」という虚構の合戦空間を創造したことを明らかにしている。現実には鴇越は一の谷に通じていない。東の生田の森と西の一の谷の間は、直線距離で10km余も離れ、鵯越の麓の夢野(ゆめの、福原西部)と一の谷の間も約6.5kmの距離がある。義経軍が一の谷を攻撃したことが明らかである以上、義経は鵯越を通っていない。

鴇越は、摂津国昆陽野(こやの)と播磨国印前野を結ぶ湯山(ゆのやま)街道山田道(やまだみち)から分岐して、福原・大輪田泊に下る山中の間道で、西摂津・東播磨の平氏勢力圏を貫く重要ルートであった。摂津国昆陽野を勢力下におさめ、平氏都落ちまで長年にわたって同地域で平氏と協調関係にあった多田行綱にとっては、鵯越は熟知のルートであったし、多田行綱こそ鵯越の「山の手」を攻略するにふさわしい人物といえる。「玉葉」には、「多田行綱山方より寄せ、最前に山の手を落さると云々」とあり、搦手の義経軍の一部隊である多田行綱軍が、鵯越の防衛ラインを突破して最初に福原に侵入した。現地の事情に通じた在地武士による素早い攻略が、「鴇越の坂落し」という伝説を生み出すことになったと考えられる。

「多田行綱山方より寄せ」の「山方」は、六甲連山の西部、播磨国三木(兵庫県三木市)・藍那(あいな、神戸市北区山多町)と夢野(ゆめの、神戸市兵庫区夢野町)・大輪田泊を結ぶ山中の間道で、このルートの途中、神戸電鉄有馬線のすぐ東の尾根に現在も鵯越の地名が残り、山から降りた夢野の東はもう福原である。「猪鹿兎狐の外通はず」というほどの道ではなく、当時から利用されていたルートであり、案内者の手引きがあれば福原を奇襲することが可能である。『吾妻鏡』に、鵯越は「一谷の後山」だと書かれているため、古来、比定地に混乱があるが、それは義経の活躍を印象づけるため、一の谷近くに場所を引き寄せた作為といえる。行綱は、義経の本隊と分かれるまでは搦手軍に属していたので、やがて彼の功が義経のそれにされてしまったのである。

山間部を通る鴇越は大軍が突入できるルートではなく、この合戦の主戦場は、あくまで数千規模の軍勢が衝突した生田の森と一の谷の東西の「城郭」の攻防であった。生田の森(東)、一の谷(西)、山の手(北)の「城郭」で囲まれた「城中」(福原)の平氏軍は、三ヵ所すべての「城郭」を鎌倉軍に破られ、総崩れとなって海路敗走した。


つづく

0 件のコメント: