2022年11月9日水曜日

〈藤原定家の時代174〉寿永3/元暦元(1184)年2月7日 生田の森・一の谷合戦⑤ 〈敦盛の最期と熊谷次郎直実〉 〈重衡捕縛〉

 

 『一の谷合戦図屏風』舟へ戻ろうとする平敦盛を呼び止める熊谷直実

〈藤原定家の時代173〉寿永3/元暦元(1184)年2月7日 生田の森・一の谷合戦④ 〈知盛の歎き 『平家物語』巻9「浜軍の事」「知章最期」〉 「我が身の上になりぬれば、よう命は惜しいもので候ひけりと、今こそ思ひ知られて候へ」 より続く

寿永3/元暦元(1184)年

2月7日 生田の森・一の谷合戦⑤

〈敦盛の最期と熊谷次郎直実〉

延慶本『平家物語』は、敦盛(清盛の弟の経盛の子)の退却を「中納言殿に続いて打ち入りて泳がせけり」と記している。知盛から少し遅れて敦盛が海に入っていったことになる。

熊谷次郎直実が好敵を求めて馬に乗り海岸線を歩いていたら、そこに練貫(ねりぬき)に鶴を縫うた直垂(ひたたれ)に、萌葱匂(もえぎにおい)の鎧を着、連銭葦毛(れんぜんあしげ)の馬に金覆輪(きんぷくりん)の鞍を置いて乗った武者が一騎、沖に浮ぶ船を目がけて海にさっとうち入り、五、六段ばかり泳いで行く。それを見た直実は手にした日の丸の扇をさっと開き、よき大将とお見うけ申す。敵に後ろを見せるとは見苦しゅうござるぞ、引き返し給え、引返し給え、と叫ぶ。するとその武者はとって返し、汀(みぎわ)に上がった所で、むんずと組み、どうと落ち、取押えて首を切ろうとして甲(かぶと)を押上げてみると、わが子小次郎ほどの若武者である。そのうえ美少年だし、態度も優れている。心を動かされた直実は、人一人討ったところで大勢に影響はなかろうからと、助けようとするが、そこへ土肥、梶原らが進んで来たのでやむなく首を切り落す。そこでこう嘆く。

「あはれ、弓矢取る身ほどくちをしかりける事はなし。武芸の家に生れずば、なにしに、たゞ今かゝ憂き目をば見るべき。情なうも討ち奉ったるものかな。」

熊谷次郎直実のその後

2月8日、敦盛の首に遺品と書状(熊谷状)を添えて、敦盛の父経盛に送る。

14日、平経盛、直実に感謝を述べた返状(経盛返状)を直実に送る。

1190(建久元年)敦盛の7回忌供養。紀州高野山に熊谷寺を建立し、敦盛の供養塔を建てる。

1193(建久4年)3月、京都の法然上人(源空)を訪れ仏門に入る。蓮生房と名乗る。

1195(建久6年)8月、京都より熊谷郷に戻る。東海道藤枝宿に熊谷山蓮生寺を建立。熊谷郷に帰った後、草庵を建て住む。

1207(承元元年)9月4日、上品上生を予告し往生。      


〈重衡捕縛〉

重衡は、乳母子後藤盛長と共に西に退き、湊川・須磨関(須磨区関守町)を越えて明石浦(兵庫県明石市)まで逃れたところで、梶原景時の軍勢が射る遠矢が乗馬に当たり、自害する間もなく生け捕られた。

重衡は、生田の森の戦いでは最も突出した陣地の外で戦っていたので、退くのも最後になった。重衡も追跡する梶原景時・遠藤家国(『平家物語』は記載なし)も、須磨浦を通過し、追討使が攻め落とした一ノ谷城を通過し、明石浦まで進んだ。遠藤家国は、範頼が摂津国で追討使の軍勢を集めた時に応じた摂津国渡辺津の武者で、水運との関わりが深くこのあたりの港や海は詳しい。須磨浦の浜辺では、知盛が見たような敵味方入り交じる光景も、沖合から横矢を射る役割を担うはずの平氏の軍船も記されていない。重衡が須磨浦に着いた時、水軍はすでに退いていた。

なお、重衡が明石浦で乗馬を射られた時、最後まで一緒にいた乗替である後藤盛長が逃亡した。乗替は主人の乗り替え用の馬を預かり、それに乗って付き添う役の侍のこと。

重衡は、延慶本では追ってきた梶原景時に、「御乗替ノ逃候ツルコソ無下(むげ)ニ見苦覚候へ。イカニアレ体(てい)ニ候侍ヲバ召仕(めしつかは)セ給ケルヤラム」と声をかけられる。あなたは命の綱である乗替馬を、我が身の命惜しさに主を見捨てるような侍にまかせた、と人を見る目の甘さを指摘している。景時のこの時の言葉を、重衡はのちに「縦(たとへ)バ三百ノ鉾(ほこ)ヲ以テ一時ニ胸ヲ指(ささ)レ」るにも劣らぬ衝撃だった、と述懐づる。乗替への憎しみではなく、自らの洞察力不足や未熟さ、我が身のいたらなさへの反省をしている。

主を見捨てた後藤兵衛盛長は、延慶本では「一所ニテ死(しなむ)」と契った郎等だが、語り本系では乳母子となっている。小さな違いのようだが、乳母子は乳母とともに、生涯にわたって養君に忠実、密接に仕える関係にあった。乳兄弟なら同一人の乳で育てられた間柄だから、肉親の情が薄い実の兄弟よりも信頼しあえる関係である。それが主君を見捨てることは、一般の郎等が離反するよりずっと非難され、憎まれる行為である。非難は逃げられた重衡ではなく逃げた盛長のほうに集まる。語り本系では盛長を乳母子に変えることで卑怯者の面をより強調し、重衝の悲嘆や焦りや悔しさを合理化し、同情の対象に変えている。


重衡のその後

2月9日入京。京都の土肥実平に預けられる。後白河法皇寵臣で参議右兵衛督の四条隆房は、八条堀河堂(八条御堂)を土肥実平の宿所に提供し、重衡もここに迎える(~3月2日)。平家が壇ノ浦で敗れた後、鎌倉へ護送、頼朝と対面。頼朝は重衡が死を覚悟している事を悟り、身柄を法師達に渡す。1185年6月23日に木津のほとりで刑死。


つづく



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