2022年11月20日日曜日

〈藤原定家の時代185〉寿永3/元暦元(1184)年8月1日~12日 「鎮西多く平氏に与し了んぬ。安芸国において官軍(早川と云々)と六ケ度合戦、毎度平氏理を得ると云々」(「玉葉」) 義経(26)左衛門少尉・検非違使(「無断任官」) 総大将範頼とする平氏追討軍、鎌倉進発。北条義時(22)従う          

 


〈藤原定家の時代184〉寿永3/元暦元(1184)年7月1日~28日 伊賀・伊勢の叛乱(鎮圧にあたった近江の佐々木秀義は討死 叛乱側平田家継ら討死、叛乱鎮圧) より続く

寿永3/元暦元(1184)年

8月

・この頃の義経(26)の文書実務を担うスタッフ。

①少内記中原信康(右筆)、②右馬権頭平業忠:後白河法皇御所の六条殿のかつての所有者、法皇の近臣、③右衛門尉藤原時成:院近臣、④大夫判官平知康、藤原信盛:検非違使。

治安・合戦・警備スタッフ。

①伊豆右衛門尉有綱:源頼政の孫の仲綱の子、義経の女婿、文治2年6月16日大和宇陀郡で幕府の追捕を受け敗北、深山に入り自殺。

②堀弥太郎景光:早くから義経に従う。元暦2年5月15日平宗盛を連れて鎌倉に到着することを頼朝に報告、6月21日義経命令により宗盛の子の清宗を斬る。文治2年9月22日院近臣藤原範季と連絡をとり京に潜伏中に糟屋有季により捕縛。同日、佐藤忠信も捕縛。

③佐藤忠信:兄継信と共に秀衡から義経につけられた郎従、兄は屋島の合戦で義経の身代わりになって戦死。頼朝の許可なく自由任官した東国住人として叱責される。(「吾妻鏡」元暦2年4月15日条)。

④伊勢三郎能盛(義盛):「愚管抄」でh「伊勢三郎ト云ケル郎等」が義仲を討取るとされる。壇ノ浦合戦では平宗盛・清宗を生捕り、屋島の合戦では越中次郎兵衛盛継と詞戦(ことばいくさ)を交わす。

義経の手勢には奥州の武士(佐藤忠信・堀景光)と弁慶・伊勢義盛など諸国を流浪する武勇の輩の2系統あるが、いずれも限定武力。義経が追捕活動を行う為には、頼朝に組織された「鎌倉御家人」が付けられる。また、義経が独自武力を組織するには官職につく必要がある。

8月1日

・一の谷戦後の4月末以降、重衡を鎌倉に送り届けた梶原景時が、土肥実平とともに平家追討戦にあたる。ところが土肥軍は備後で追い返され、播磨の梶原が備前に進み、それを見た平家が室泊を焼き払うという情勢になる。

平家いまだ強勢の報が何度も京都に伝わり、兼実も「鎮西多く平氏に与し了んぬ。安芸国において官軍(早川と云々)と六ケ度合戦、毎度平氏理(り、勝ち)を得ると云々」という情報を書き留めている(『玉葉』8月1日条)。早川は土肥(小早川)の軍を指し、これが『平家物語』の能登守教経が奮戦する、一の谷戦以前の「六ケ(ろくか)度軍(どのいくさ)」に化けたのだろう(巻9)。

8月3日

・伊賀国惣追捕使に補任されている信濃源氏の大内惟義、伊賀・伊勢の反乱を追討した恩賞を求めてきくるが、頼朝は逆に反乱を防止できなかった落ち度を責める。

8月3日

・頼朝の使者、義経に、伊賀の兵乱に出羽守平信兼の子等が関わっているので、京中に隠れている与党探索・誅戮を伝える。10日、義経、平信兼男3人(兼衡・信衡・兼時)を宿所に招き誅す。12日、義経、伊勢に向かい出羽守信兼を討つ。 

「大内の冠者の飛脚重ねて参着す、申して云く、去る十九日酉の刻、平家の余党等と合戦し、逆徒敗北す。・・・惟義すでに会稽の恥を雪ぐ。抽賞に預かるべきかと。」(「吾妻鏡」同2日条)。

「大内の冠者の使いを召し、・・・但し抽賞せらるべきの由を進し申せらる。頗る物儀に背くか。その故は、一国の守護に補すの者、狼唳を鎮めんが為なり。而るに先日、賊徒の為家人等を殺害されをはんぬ。これ用意無きが致す所なり。豈越度に非ずや。然れば、賞罰は宜しく予が意に任すべしてえり。また御使を京都に発せらる。今度伊賀の国兵革の事、偏に出羽の守信兼子息等の結構に在るか。而るに彼の輩圍みの中を遁れ、行方を知らずと。定めて京中に隠遁するか。早くこれを尋ね捜し、踵を廻さず誅戮せしむべきの趣、源九郎主の許に仰せ遣さると。安達の新三郎飛脚として首途すと。」(「吾妻鏡」同3日条)。"

8月6日

・後白河、義経(26)を左衛門少尉に任命し検非違使とする。

17日、頼朝、義経の無断任官に激怒。(異論もあり、後述)

「午の刻、源中納言来たり、数刻言談す。語りて云く、去る比頼朝納言に還るべきの由、推挙を泰経に付け申し上ぐと。定めて不快の事有るか。恐れを為す。また云く、明日除書有るべし。九郎任官すべしてえり。」(「玉葉」同3日条)。

「九郎義経一の谷の合戦の勧賞に左衛門尉になさる。即、使の宣旨を蒙りて九郎判官とぞ申ける。」(「平家物語」)。

8月6日

・頼朝、範頼・足利義兼・武田有義・千葉常胤等の平氏追討軍の出陣に際し餞別の酒宴を催す(「吾妻鏡」)。

「武衛、参河の守・足利蔵人・武田兵衛の尉を招請し給う。また常胤已下宗たる御家人等、召しに依って参入す。この輩平家を追討せんが為、西海に赴くべきの間、御餞別の為なり。終日御酒宴有り。退散の期に及び、各々馬一疋を引き賜う。」(「吾妻鏡」同日条)。

8月8日

・源範頼を総大将とした平氏追討軍1千余、鎌倉を進発。従う武将は、伊豆の北条義時(22)・甲斐の武田有義・下総の千葉常胤・相模の三浦義澄・下野の足利義兼・比企能員・和田義盛・天野遠景・佐々木盛綱・結城朝光ら関東の有力御家人。

8月27日、京都着。29日、朝廷から追討の官符を給わり、9月1日、山陽道に向けて進発(「吾妻鏡」)。

対する平家は、宗盛が屋島を城郭にして守り、知盛が九州武士を動員して門司関を固め、長門の彦島に本営を置いている。

千葉常胤、範頼の軍監となり、胤正・成胤・常秀ら子や孫たち、葛西清重・豊嶋清光・安西景益・安西明景ら下総の豪族を率い従軍。

「参河の守範頼、平家追討使として西海に赴く。午の刻進発す。・・・次いで扈従の輩一千余騎龍蹄を並ぶ。所謂、北條の小四郎 足利蔵人義兼 武田兵衛の尉有義 千葉の介常胤 境の平次常秀 三浦の介義澄 男平太義村 八田四郎武者朝家 同男太郎朝重 葛西の三郎清重 長沼の五郎宗政 結城の七郎朝光 籐内所の朝宗 比企の籐四郎能員 阿曽沼の四郎廣綱 和田の太郎義盛 同三郎宗實 同四郎義胤 大多和の次郎義成 安西の三郎景益 同太郎明景 大河戸の太郎廣行 同三郎 中條の籐次家長 工藤一臈祐経 同三郎祐茂 天野籐内遠景 小野寺の太郎道綱 一品房昌寛 土左房昌俊・・・」(「吾妻鏡」同日条)。

8月10日

・義経、召喚した兼信の子息3人(兼衡・信衡・兼時)を捕らえて自邸で尋問し、自害に追い込み、あるいは殺害する。

8月12日

・義経、出羽守関信兼討伐のため伊勢へ発向(「山槐記」)。捕捉できず。信兼は元暦元年末か文治元年初に病没。

『源平盛衰記』では、信兼は伊勢国滝野(三重県松坂市)に構えた城に籠もって抵抗したが、落城して自害する。


つづく

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