2022年11月30日水曜日

〈藤原定家の時代195〉元暦2/文治元(1185)年2月19日~29日 「荒手の兵入替々々戦いければ、平家遂に責落されて、第二日の巳剋には、屋島を漕出て」(『平家物語』) 志度合戦 義経は瀬戸内海の制海権を掌握     

 


〈藤原定家の時代194〉元暦2/文治元(1184)年2月17日~18日 屋島の合戦(2) 『平家物語』にみえる屋島合戦 詞戦 佐藤嗣信の最期 扇の的 夜戦 より続く

元暦2/文治元(1184)年

2月19日

・屋島の合戦二日目

〈勝敗を分けた援軍〉

経緯は不明だが、延慶本『平家物語』は、「荒手(新手)の兵入替々々(いれかえいれかえ)戦いければ、平家遂に責落されて、第二日の巳剋には、屋島を漕出て」と、援軍が到着した追討使が平氏を屋島から追い落としたと記している。

初日は攻め込んだ追討使の方が攻撃に行き詰まり、多くの死傷者を出して退く負け戦となった。しかし、義経が屋島に攻め込んだという情報が周囲に与えた影響は大きく、翌日には追討使の方に多くの軍勢が加わって平氏を圧倒したと『平家物語』は記している。

勝敗を分けた2日目の援軍とは誰か。

事前に讃岐国に派遣されていた橘公業が声をかけていた讃岐国の地方豪族や、後白河・信西入道の子供達・近藤氏の線で都とつながりをもつ阿波国の地方豪族、頼朝の叔父義嗣・義久兄弟を担いで挙兵した反平氏の人々などが、潜在的な反平氏勢力である可能性は高い。ただ、二日目の戦いについて誰も具体的に記していないので、確定的なことはいえない。

平氏の方も、讃岐・阿波の港に散在させた家人が急を聞いて駆けつけてくるはずである。義経方に集まった武者の数が多く、押し切られたということであろう。

平氏が最も頼みとしたのは、河野通信討伐から帰路についている粟田教良の軍勢3千騎で、首実検のための使者はすでに到着しているというので、近くには来ていたはずである。『平家物語』等は、義経の使者伊勢能盛(よしもり)の話として、教良の父重能は降参し、叔父能遠を生け捕ったという嘘に粟田教良が騙されて降参したとする。しかし、物見の情報を得た粟田教良は、二日目の合戦の状況を知って、勝ち目なしと考えたのではないかと推測できる。義経の使者に平氏敗北のことを知らされて降参したという形で平氏から離れだと考えられる。

粟田重能以下粟田の一族は、阿波国では豪族であるが、朝廷の下級官人として重代の地位を持っている。平氏が勢力を伸ばしたので家人となったが、朝廷の官人としての実績も低くはない。粟田の家の存続を考えれば、平氏を離れるのをいつにするか決断する時期にきていた。重能の率いる四国水軍は一ノ谷合戦で早すぎる退却をし、屋島合戦において良遠・教良が追い詰められていないのに降参した。この人々の戦意の低さにこそ、彼らの本音が現れている。立場上、平氏を見限ることはできないが、本音は見限っているという苦い立場である。

「南御堂の事始めなり。武衛(・・・)その所に渡御す。御堂の地南山麓に仮屋を構う。御台所同じく入御す。・・・その後熊野山領参河の国竹谷・蒲形両庄の事、その沙汰有り。当庄の根本は、開発領主散位俊成彼の山に奉寄するの間、別当湛快これを領掌せしめ、女子に譲附す。件の女子始め行快僧都の妻たり。後前の薩摩の守平忠度朝臣に嫁す。忠度一谷に於いて誅戮せらるの後、没官領として、武衛拝領せしめ給うの地なり。而るに領主の女子本の夫行快に懇望せしめて云く、早く子細を関東に愁い申し、件の両庄を安堵せしむべし。もし然れば、未来を行快子息(女子腹と)に譲るべしと。この契約に就いて、行快僧都熊野より使者(僧栄坊)を差し進せ、言上する所なり。行快と謂うは、行範の一男、六條廷尉禅門為義の外孫たり。源家に於いてその好すでに他に異なる。・・・

また廷尉(義経)、昨日終夜阿波の国と讃岐との境の中山を越え、今日辰の刻屋島の内裏の向浦に到り、牟礼高松の民屋を焼き払う。これに依って先帝内裏を出でしめ御う。前の内府また一族等を相率い海上に浮かぶ。廷尉(赤地錦の直垂・紅下濃の鎧を着し、黒馬に駕す)、田代の冠者信綱・金子の十郎家忠・同余一近則・伊勢の三郎能盛等を相具し、汀に馳せ向かう。平家また船に棹さし、互いに矢石を発つ。この間佐藤三郎兵衛の尉継信・同四郎兵衛の尉忠信・後藤兵衛の尉實基・同養子新兵衛の尉基清等、内裏並びに内府休幕以下の舎屋を焼失す。黒煙天に聳え、白日光を蔽う。時に越中二郎兵衛の尉盛継・上総五郎兵衛の尉忠光(平氏家人)等、船より下りて宮門の前に陣し、合戦するの間、廷尉の家人継信射取られをはんぬ。廷尉大いに悲歎し、一口の衲衣を屈し千株松本に葬る。秘蔵の名馬(大夫黒と号す。元院の御厩の御馬なり。行幸供奉の時、仙洞よりこれを給う。戦場に向かう毎にこれに駕す)を以て件の僧に賜う。これ戦士を撫るの計なり。美談とせざると云うこと莫しと。」(「吾妻鏡」同日条)。


2月21日

・義経80騎、讃岐の志度(香川県志度町)の道場に篭る平氏を追い払い、平氏家人の阿波民部大夫成良の子の粟田則良を帰服させる(田口成良の嫡男教良は伊予出征から帰還途上にある。義経はこれと正面切っての戦いは不利と判断、伊勢義盛を教良の許に派遣、言葉巧みに騙し、教良以下1千余を降人とする)。これに伴い伊予水軍河野四郎通信が兵船30隻と共に義経軍に加わり、熊野水軍別当湛増、義経に合力。義経は瀬戸内海の制海権を掌握。熊野水軍・塩飽党・三島水軍は源氏方につくが、北九州水軍(原田種直)・松浦党(源披)・菊地一党・山鹿秀遠は平家方に付いてる。

・志度合戦。

平氏が屋島から彦島に退いた翌日、屋島の東にある志度浦(しどのうら)の籠る平氏の残兵を義経は80騎の軍勢で討ったという。義経が80騎で鎮圧できる規模であることを考えれば、讃岐国・阿波国の港に配置されていた軍勢が急を聞いてかけつけてきたが間に合わず、志度寺に立て籠もって討たれたということと推測できる。

田口成良(重能、阿波民部大夫)、嫡男教良の義経への帰服を知り、また屋島の敗戦で平家滅亡必至と判断し、平家を見放し源氏に寝返り、壇ノ浦では兵船300余をもって源氏に走る。壇ノ浦敗戦要因の1つ。

「平家讃岐の国志度の道場に籠もる。廷尉八十騎の兵を引きい、彼の所に追い到る。平氏の家人田内左衛門の尉廷尉に帰伏す。また河野の四郎通信、三十艘の兵船を粧い参加す。義経主すでに阿波の国に渡る。熊野の別当湛増源氏に合力せんが為同じく渡るの由、今日洛中に風聞すと。」(「吾妻鏡」同日条)。

2月22日

・梶原景時率いる源氏の主力勢140余隻、ようやく屋島の磯に到着(「吾妻鏡」同日条)。

人々は、「四国をば九郎判官攻め落されぬ。今は何の用にかあふべき。六日の菖蒲(しようぶ)、会(え)にあはぬ花、闘(いさかい)はてての乳切木(ちぎりき)かな」と笑ったという。"

2月29日

・「加藤の五郎入道営中に参り、一封の状を御前に置かる。事問わざるに落涙数行す。・・・ 愚息景廉、三州の御共として鎮西に下向す。而るに去る月周防の国より豊後の国に渡らしめ給わんと欲するの刻、景廉重病に沈む。然れども病身を一葉の船に乗せ、猶御共を為すの由これを申し送る。則ちこの状なり。凡そ君の奉為、戦場に臨み万死の数に入る。今に於いてはまた病に侵され、殆ど死を免がれ難からんか。再び合眼せずんば、老耄の存命甚だ拠所無しと。武衛御感涙を拭いながら、景廉が状(和字)を覧る。」(「吾妻鏡」同日条)。

「景廉所労の事、武衛御歎息殊に甚だし。仍って景廉病痾の事、尤も療養を加うべし。平癒の後は、早く帰参すべきの由、示し付けらるべきの趣、御書を参州に献ぜらる。また慇懃の御書を景廉に遣わされ、病悩の事を訪い仰せらる。」(「吾妻鏡」3月6日条)。


つづく


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