2022年11月3日木曜日

〈藤原定家の時代168〉寿永3/元暦元(1184)年1月21日~28日 平氏追討か和平(神器の保全)かで方針一定せず、ずるずると追討に傾く 義経の失策(小槻隆職の館に踏み込み家宅捜索を行う)     

 



寿永3/元暦元(1184)年

1月21日

・義経(26)、義仲を討ったことを院に奏聞。

夜、「木曾専一の者」と称される義仲の家人樋口兼光(河内の長野城攻韓に出陣していた)を生捕りにする。

2月2日、兼光斬首。縁者である武蔵児玉党が助命を嘆願し、義経を通して後白河に奏聞されたが許されず、渋谷高重に首を斬られた。

「源九郎義経主、義仲が首を獲るの由奏聞す。今日晩に及び、九郎主木曽が専一の者樋口の次郎兼光を搦め進す。これ木曽が使として、石川判官代を征めんが為、日来河内の国に在り。而るに石川逃亡するの間、空しく以て帰京す。八幡大渡の辺に於いて、主人滅亡の事を聞くと雖も、押し以て入洛するの処、源九郎家人数輩馳せ向かい、相戦うの後これを生虜ると。」(「吾妻鏡」同日条)。

「樋口の次郎兼光を梟首す。渋谷庄司重国これを奉り、郎従平太の男に仰す。而るに斬る。・・・この兼光は、武蔵の国兒玉の輩と親昵たるの間、彼等勲功の賞に募り、兼光が命を賜うべきの旨申請するの処、源九郎主事の由を奏聞せらると雖も、罪科軽からざるに依って、遂に以て免許有ること無しと。」(「吾妻鏡」2月2日条)。

1月22日

・この日、後白河が兼実に「神器はどうすべきか、また追討使とともに法皇の使者を副えて下してはどうか」などと諮問。兼実は、「もし神器の安全をはかるのならば、追討をすべきではなく、和平の御使を出すべきであるし、また頼朝にも御使を送って、その子細を了解させる可さである。追討使を発しながら、これに別の御使を副え遺すのでは意味がない」と答える。この頃、兼実ばかりでなく、京都政界の人々は、平氏の追討よりも、神器の無事帰還を重視していた。

後白河院としては、平氏討滅を願いとする頼朝の意向を無視することはできず、院近臣のなかにも積極的に平氏討伐を主張する強硬論もある。また、後白河自身も源氏の武力によって平氏を追討することを考えていたが、他方では和平の可能性も探っていた。後白河としては、何とかして神器だけでも無事にとりもどしたいと考えていた。そのために、和平工作をとるべしという意見も強く、法皇はじめ院当局者も、和平か決戦かの方針を一定しかねて苦悩していた。

1月22日

・松殿師家、関白・氏長者を追われ、藤原基通(21)が関白・氏長者に復帰。後白河院との男色関係を利用したと云われる。

1月25日

・この日夜、平氏が入洛するとの噂が都に広まる。

三種の神器を無事に帰京させるために、院の使者を福原に派遣して平氏と和議を結ぶか、あるいは平氏追討使を派遣して平氏軍を武力攻撃するのかで朝廷内が割れている。

三種の神器保全を最優先し、平氏軍との和平を主張する兼実によれば、平氏に対する武力追討を主張したのは、後白河院自身と左大臣藤原経宗・左大将藤原実走、院近習の藤原朝方・藤原親信・平親宗らで、彼らの強硬恵見により1月29日に源範頼・義経が平氏追討使として派遣される。

1月26日

・23日に、後白河がなお平氏追討の意向を示していることを知った兼実は、「神器のことは重大視されないのか、神の恐れがあるのに」と疑問を投げたが、この日(26日)、平氏追討を中止し、静賢法印を使者として平氏のもとに派遣するとの情報が伝わり、兼実を喜ばせた。このとき静賢法印を和平の使として遺す計画が具体化し、その遣使の内報が平氏側にも伝わった。

しかし、翌27日には、この計画が反古にされ、遣使をやめて追討を断行するという空気が強まってくる。朝議はたびたび変り、政治当局者たちの無定見を暴露しながら、事態はずるずると決戦の方向に進む

兼実は、これは院の近臣による「和讒(わざん)か」とし、藤原朝方(ともかた)等の名前をあげ、「小人君に近づき、国家を擾(みだ)す、誠かなこの言」と嘆く(『玉葉』正月27日条)。兼実は和平派で、後白河は追討派、公卿の大半は神器の無事の帰還を望む和平派だが、一部の近臣が後白河におもねって、追討を焚き付けている

1月26日

・義仲の首、大路渡し(引きまわし)され晒される。

「今朝検非違使等、七條河原に於いて、伊豫の守義仲並びに忠直・兼平・行親等の首を請け取り、獄門の前の樹に懸く。また囚人兼光同じくこれを相具し渡されをはんぬ。」(「吾妻鏡」同日条)。

「伊豫守義仲が首渡さる。法皇御車を六條東洞院に立て御覧ぜらる。九郎義経六條河原にて検非違使の手へ渡す。検非違使是を請取て、東洞院大路を渡して左の獄門の前の椋の木にかく。首四あり。伊豫守義仲、郎等には高梨六郎忠直、根井小彌太幸親、今井四郎兼平也。樋口次郎兼光は降人也。」(「平家物語」)。

1月27日

・安田義定・範頼・義経・一条忠頼の使者が鎌倉に義仲追討報告をもたらす。梶原景時の使者は「討ち亡ぼした囚人等の交名の注文」を進呈、他の使者が記録を持参していないのに神妙であると再三賞賛。28日、小山朝政・土肥実平・渋谷重国ら有力御家人の使者も合戦の報告を伝える。(「吾妻鏡」)

1月27日

・兼実、平家追討と神器奉還の矛盾を指摘、追討使と別に、頼朝に神器奉還使者派遣の了解を求める。
1月27日

・後白河、平家本陣に院宣を下す。源平間に立って、和睦成立させるので、手出ししないように命じる。
29日、安徳天皇と神器返還の為、和平使者静賢法師を平氏本拠地屋島へと向かわせると一の谷に連絡。

九州へ逃がれた平氏、四国へ進出。屋島に行宮を建て、南海・山陽を支配下に治め勢いを取り戻し、軍兵10万余を摂津・播磨境の一ノ谷に城郭を構築し集結、京に攻め上る気配を示す。

1月28日

・源氏軍、2月7日卯刻に平家軍と箭合せと定める。
1月28日

・小槻隆職(おづきたかもと)、義経郎従が恥辱に及んだ(「追捕せられ、家中恥辱に及ぶ」)と訴える(「玉葉」同日条)。

義経が誤報により大夫史(たいふし)小槻隆職の館に踏み込み家宅捜索を行う。義経には大夫史(太政官弁官局の書記局長)と史大夫(太政官弁官局の書記官を勤めて従五位下に昇進した者)の区別がつかず、史大夫(元書記官)が密書の仲介をしたという情報で大夫史(書記局長)小槻隆職の家に踏み込んで捜索を行ったというお粗末な事件。しかも、踏み込んだ家は、兼実が「文庫(官務文庫)の戸を打ち破り、併せて取られ了んぬと云々、およそ、宮中文書、古来ただ一本の書なり、しかるに、肝心を失うは、すなわち、我が朝の滅亡なり」(「玉葉」)と記すように、官位は低いが朝廷の枢要を預かる家であった。朝廷が重要であるがゆえに書写を許さずに小槻氏の文庫に保管を託してきた書類を、義経は平家の密書を探すために取り散らかし、一部を持って行った。義経は一ノ谷合戦の大勝で英雄に祭り上げられたので、公卿たちは口をつぐんだが、義仲が兵粮米徴収のために京都の富裕な家に踏み込んだのと同じくらい、眉をひそめられる大変な失態


つづく



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