2022年11月26日土曜日

〈藤原定家の時代191〉元暦2/文治元(1185)年1月1日~25日 頼朝、範頼書状を受け取り、兵粮米を積んだ兵船を送ると約束 義経、平家追討院宣を願い出る 範頼以下39人の大将が豊後に渡る    

 


〈藤原定家の時代190〉寿永3/元暦元(1184)年12月1日~29日 藤戸合戦(範頼軍、四国攻略の準備として児島攻略) より続く

元暦2/文治元(1184)年

この年から、中世国家の骨格形成の3過程の第3過程(後白河院政末期~後鳥羽親政・院政の時期)。

京都の王朝権力(「公家」「寺家」)と鎌倉の幕府権力(「武家」)が政治的分業と協業をもとに国家権力を構成する時期。

1月1日

・範頼、赤間関到着。渡海しようとするが船・兵糧なく諦め、豊後に渡ることを考え周防に戻る。

1月1日

・佐々木義清、出雲・隠岐の守護となり、富田に入る。

1月1日

・頼朝、鶴岡八幡宮参詣(「吾妻鏡」同日条)。

1月1日

・検非違使となった義経が使庁へ初出任した時のことを記す『大夫尉義経畏申記(だいふのじようよしつねかしこまりもうすき)』元暦2年(1185)正月1日条には、武蔵国御家人である大井実春(さねはる)が、「因幡の目代」として垸飯(おうばん)を勤めたという記事が見える。「因幡」は因幡守(大江)広元のことと考えられ、この大井実春は、広元の代官として義経の動向の監視役を任されていたことになる。

1月6日

・頼朝、範頼書状を受け取り、2月10日頃に東国から兵粮米を積んだ兵船を送ることを約束し、九州の在地武士を動員して、四国の平氏軍に対する包囲態勢を慎重に整えるよう命じる。その際、三種の神器ならびに安徳天皇・平時子らを安全に迎えるよう繰り返し述べる。文中で武田信光・小笠原長清を褒め、秋山光朝を非難する。

「平家を追討せんが為西海に在るの東士等、船無く粮絶えて合戦の術を失うの由、その聞こえ有るの間、日来沙汰有り。船を用意し兵粮米を送るべきの旨、東国に仰せ付けらるる所なり。その趣を以て、西海に仰せ遣わされんと欲するの処、参河の守範頼(去年九月二日出京し西海に赴く)去年十一月十四日の飛脚、今日参着す。兵粮闕乏するの間、軍士等一揆せず。各々本国を恋い、過半は逃れ帰らんと欲すと。その外鎮西の條々これを申さる。また乗馬を所望せらると。この申状に就いて、聊か御不審を散ずと雖も、猶雑色定遠・信方・宗光等を下し遣わさる。」(「吾妻鏡」同日条)。

1月8日

・義経(27)、範頼軍が撤退すれば西国における平氏の勢力がいっきに拡大するとして、法皇に対して、平家追討院宣を出すことを、法皇近臣の大蔵卿高階泰経を通じて願い出る(「平家物語」)。

高階泰経が、権中納言吉田経房に義経出陣の是非を問うと、「義経の申状、もつともその謂(いわれ)有り、(略)しからば今春義経発向して、もつとも(平家と)雌雄を決すべきか」と経房は私見を述べる(「吉記」)。

当時、朝廷では前年の元暦元年の乱で逃走した伊藤忠清が京中に潜んでいるとの晦が流れており、義経の出陣に反対する意見もあったが、義経による短期決戦での戦争終結を望む意見も強かった。長引く内乱で荘園・国衙領支配に大きな打撃を受けていた貴族社会では、頼朝の終戦構想とは異なり、早期決霜を期待する声の方が大きかった。

「大府卿院に於いて示して云く、廷尉義経四国に向かうべきの由申す所なり。而るに自身は洛中に候すべきか、ただ郎従を差し遣わすべきかの由、申さるる人有り。且つはこれ忠清法師在京中の由風聞す。定めて凶心を挿むかと。二三月に及ばば兵粮尽きをはんぬ。範頼もし引き帰さば、管国の武士等猶平家に属き、いよいよ大事に及ぶかの由、義経申す所なり。予申して云く、義経が申し状、尤もその謂われ有り。大将軍下向せず、郎従等を差し遣わすの間、諸国の費え有りと雖も、追討の実無きか。範頼下向の後この沙汰に及ぶか。然れば今春義経発向し尤も雌雄を決すべきか。忠清法師の事に於いては、沙汰に及ばざるか。但しその身を搦め進すべきの由、尤も宣下せらるべきか。義経下向すと雖も、猶然るべきの輩は、差し分け京都に祇候せしむべきの由、尤も仰せ合わさるべきなり。」(「吉記」同日条)。

1月11日

・藤原隆季(59)没

1月12日

・範頼、赤間関(あかまがせき、下関市、下関の古名)に赴くが、船が確保できず。この時、豊前宇佐八幡宮司一族の臼杵惟隆・緒方惟栄兄弟、範頼の味方となり、範頼、彼らに兵船の用意を命じる。

26日、兵船82艘が源氏側に提供(周防の宇佐那木遠隆(うさなぎとおたか)は食料を提供)、範頼以下39人の大将が豊後に渡る(「吾妻鏡」)。足利義兼・千葉介常胤(孫の千葉常秀を従え)、同行。

この時、下河辺行平は、持参していた戦費も兵粮も尽き、甲冑を売って船を買い、豊後国に渡ったという(「吾妻鏡」)。範頼が「絶粮」と言うように、従う御家人たちの困窮も限界に来ていた。範頼は、周防国の留守を三浦義澄に預けて博多進攻を開始。

「参州周防より赤間関に到る。平家を攻めんが為、その所より渡海せんと欲するの処、粮絶え船無く、不慮の逗留数日に及ぶ。東国の輩、頗る退屈の意有り。多く本国を恋う。和田の小太郎義盛が如き、猶潛かに鎌倉に帰参せんと擬す。何ぞ況やその外の族に於いてをや。而るに豊後の国の住人臼杵の次郎惟隆・同弟緒方の三郎惟栄は、志源家に在るの由、兼ねて以て風聞するの間、船を彼の兄弟に召し、豊後の国に渡り、博多の津に責め入るべきの旨儀定有り。仍って今日三河の守周防の国に帰ると。」(「吾妻鏡」同日条)。

「惟隆・惟栄等、参州の命を含み、八十二艘の兵船を献ず。また周防の国の住人宇佐郡の木上七遠隆兵粮米を献ず。これに依って参州纜を解き、豊後の国に渡ると。同時に進み渡るの輩 北條の小四郎 足利蔵人義兼 小山兵衛の尉朝政 同五郎宗政 同七郎朝光 武田兵衛の尉有義 齋院次官親能 千葉の介秀胤 同平次常秀 下河邊庄司行平 同四郎政能 浅沼の四郎廣綱 三浦の介義澄 同平六義村 八田武者知家 同太郎知重 葛西の三郎清重 渋谷庄司重国 同二郎高重 比企の籐内朝宗 同籐四郎能員 和田の小太郎義盛 同三郎宗實 同四郎義胤 大多和の三郎義成 安西の三郎景益 同太郎明景 大河戸の太郎廣行 同三郎 中條の籐次家長 加藤次景廉 工藤一臈祐経 同三郎祐茂 天野の籐内遠景 一品房昌寛 土左房昌俊 小野寺の太郎道綱

この中常胤は衰労を事ともせず、風波を凌ぎ進み渡る。景廉は病身を忘れ相従う。行平は粮尽き度を失うと雖も、甲冑を投じ小船を買い取り最前に棹さす。人怪しみて云く、甲冑を着けず、大将軍の御船に参らしめ、全身戦場に向かうべきかと。行平云く、身命に於いては本よりこれを惜しとせず。然らば甲冑を着けずと雖も、自身進退の船に乗り、先登に意を任せんと欲すと。将帥纜を解く。爰に三州曰く、周防の国は、西は宰府に隣し、東は洛陽に近し。この所より子細を京都と関東に通し、計略を廻らすべきの由、武衛兼日の命有り。然れば有勢の精兵を留め、当国を守らしめんと欲す。誰人を差すべきやてえり。常胤計り申して云く、義澄精兵たり。また多勢の者なり。早く仰せらるべしと。仍ってその旨を義澄に示さるるの処、義澄辞し申して云く、意を先登に懸けるの処、徒にこの地に留まるは、何を以て功に立てんやと。然れども勇敢を選び敢えて留置せらるの由、命ずる所再三に及ぶの間、義澄陣を防州に結ぶと。」(「吾妻鏡」同26日条)。

1月19日

・文覚、陣参に対する僧徒の自覚に関し神護寺衆徒に諭す(「神護寺文書」同日付け僧文覚起請文)。国法の埒外に立ち得るとの特権の自覚。

「私威を以て合戦を企て、勝負を決する」こと、「臣下に追従して、賄賂を致す」ことなどをすべて悪として斥け、降参のみをとるべき唯一正当の手段とする。「末代大事の訴訟出来のときは、大衆陣参して天聴を驚かすべきなり、もし裁許を蒙らざるときは、陣庭に立ちながら一生を尽すべきなり。」

1月20日

・源(久我)通親、権中納言となる。

1月21日

「武衛御宿願に依って、栗浜明神に参り給う。御台所同じく伴わしめ給うと。」(「吾妻鏡」同日条)。

1月22日

「出雲の国安楽郷を以て、先日鴨社神領に寄付せしめ給いをはんぬ。」(「吾妻鏡」同日条)。

1月22日

・義経、和泉春木庄内観音寺住僧などの住房を安堵し、武士の狼藉を禁止。

1月25日

・この日早暁、右大臣兼実の息、三位中将良経が末曽有の夢(その内容は分らない)を見たというので、未刻(午後2時ころ)父子で東方の天をなが勃ていたところ、黒雲が東から西へ走った。これを見て兼実は、これはきっと天道が平氏を伐(う)たしめ給うによってこの雲があったにちがいない、と占う。一方では、兼実は同日、「伝え聞く、平氏強々と云々」、との噂が流れてはいるが、平氏の命運はいくぱくもないであろう、というのが、都の人々の抱く実感であったと思われる。

1月25日

・北条義時(23)、豊後国に渡る


つづく


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