2022年11月5日土曜日

〈藤原定家の時代170〉寿永3/元暦元(1184)年2月5日~2月7日① 三草山合戦(義経が夜襲で資盛・有盛らを破る) 生田の森・一の谷合戦(通盛・忠度・業盛・経正・経俊・敦盛・師盛・知章ら討死、重衡捕虜) 「大略城中に籠るの者一人も残らず」(「玉葉」)     

 

兵庫県立歴史博物館HPより

〈藤原定家の時代169〉寿永3/元暦元(1184)年1月29日~2月4日 平氏追討決定(「凡そ近日の儀は、掌を反すが如し」) 平氏追討軍(範頼・義経)進発 より続く


寿永3/元暦元(1184)年

2月5日

・三草山合戦。夜から未明、義経軍、丹波・播磨国境付近の三草山(兵庫県加東市)で迎撃態勢をとる平氏軍(平資盛・有盛ら)を夜襲し壊滅させる。

「酉の刻、源氏の両将摂津の国に到る。七日卯の時を以て箭合わせの期に定む。大手の大将軍は蒲の冠者範頼なり。相従うの輩、小山の小四郎朝政 武田兵衛の尉有義 板垣の三郎兼信 下河邊庄司行平 長沼の五郎宗政 千葉の介常胤 佐貫の四郎成綱 畠山の次郎重忠 稲毛の三郎重成 同四郎重朝 同五郎行重 梶原平三景時 同源太景季 同平次景高 相馬の次郎師常 国分の五郎胤道 東の六郎胤頼 中條の籐次家長 海老名の太郎 小野寺の太郎通綱 曽我の太郎祐信 庄司三郎忠家 同五郎廣方 塩谷の五郎惟廣 庄の太郎家長 秩父武者四郎行綱 安保の次郎實光 中村の小三郎時経 河原の太郎高直 同次郎忠家 小代の八郎行平 久下の次郎重光 已下五万六千余騎なり。搦手の大将軍は源九郎義経なり。相従うの輩、遠江の守義定 大内右衛門の尉惟義 山名の三郎義範 齋院次官親能 田代の冠者信綱 大河戸の太郎廣行 土肥の次郎實平 三浦の十郎義連 糟屋の籐太有季 平山武者所季重 平佐古の太郎為重 熊谷の次郎直實 同小次郎直家 小河の小次郎祐義 山田の太郎重澄 原の三郎清益 猪俣の平太則綱 已上二万余騎なり。平家この事を聞き、新三位中将資盛卿・小松少将有盛朝臣・備中の守師盛・平内兵衛の尉清家・恵美の次郎盛方已下七千余騎、当国三草山の西に着す。源氏また同山の東に陣す。三里の行程を隔て、源平東西に在り。爰に九郎主、信綱・實平が如き評定を加え、暁天を待たず、夜半に及び三品羽林を襲う。仍って平家周章分散しをはんぬ。」(「吾妻鏡」同日条)。

2月6日

・夜、義経、藍那に出たところで更に兵を分け、多田行綱に主力を預け山の手口に向かわせ、子飼いの郎党70騎を率い高尾山から山中に入り鵯越に向かう。義経は険路のため、武蔵坊弁慶に命じて案内人を捜させ、鷲尾三郎経春を召抱える(経春に名がなく、鷲尾を気に入った義経が自分の名の一文字を与え、三男であることから、鷲尾三郎経春と名乗らせる)。

2月6日

平家軍に後白河法皇の院宣届く。和平交渉がり、兵を進めぬよう、源氏にも同じく言渡してあると伝える。

2月6日

・範頼軍、生田川東岸に布陣。

2月7日

・生田の森・一の谷合戦

範頼・義経、一ノ谷で平氏を破る。重衡(清盛子息)は捕虜となり、通盛・忠度(41、清盛弟)・業盛(なりもり、教盛の子)・経正・経俊(つねとし)・敦盛(16、経盛の子)・師盛(もろもり、14、重盛の子)・知章(ともあきら、知盛の子)・家人平盛俊(もりとし、盛国の子)ら戦死。宗盛は和田泊の船上にあり、安徳天皇と屋島へ逃げる。治承・寿永の内乱における鎌倉軍の軍事的優位が確定。

合戦の具体的様相を伝える唯一の同時代史料は、『玉葉』寿永3年2月8日条。(合戦については、『平家物語』諸本や『吾妻鏡』が知られているが、『平家物語』は虚実交じりあって、史実と見るには問題があり、後者は編纂の際に特別な材料を持たず、ほとんど『平家物語』をなぞって書いたことが明らかになっている。結局この合戦の経過についての信頼に足る史料は、わずかに『玉葉』2月8日条の記事があるのみ。)

「八日丁卯。天晴。未明、人走り来たりて云はく、式部権少輔(藤原)範季朝臣の許(もと)より申して云はく、この夜半ばかり、梶原平三景時の許より、飛脚を進め申して云はく、平氏皆悉(ことごと)く伐ち取り了んぬと云々。その後、午(うま)の刻ばかり、(藤原)定能卿来たりて、合戦の子細を語る。一番に九郎(義経)の許より告げ申す。搦手なり。先ず丹波城を落し、次に一の谷を落すと云々。次に加羽冠者(範頼)案内を申す。大手、浜地より福原に寄すと云々。辰の刻より巳の刻に至る、猶一時に及ばず、程無く責め落され了んぬ。多田行綱山方より寄せ、最前に山の手を落さると云々。大略城中に籠る者一人も残らず。ただしもとより乗船の人々、四五十艘ばかり島の辺(ほとり)に在りと云々。しかるに廻り得べからざるによりて、火を放ち焼け死に了んぬ。疑ふらくは内府(宗盛)等かと云々。伐ち取る所の輩の交名(きょうみょう)未だ注進せず。よりて進らきずと云々。剣璽内侍所の安否、同じくもつて未だ開かずと云々。」

戦闘は、「辰の刻より巳の刻に至る、猶一時に及ばず」と、午前7時頃から9時頃までの2時間足らずで勝負がついた。

兼実への合戦の報はまず梶原景時からのそれで、八日朝まだ暗いうちに兼実の家司藤原範季を経てもたらされた。飛脚を使った「平氏みな悉く伐ち了んぬ」との院への速報。梶原景時は遠征軍全体の軍奉行(いくさぶぎょう、大将軍の下にあって軍事全般の統轄にあたった)的な役を務めていた。名門貴族の徳大寺(藤原)家に仕えていたことから教養高く、弁舌も巧みだったので、頼朝に重用された無二の腹心。

つづいて昼ごろ藤原定能が兼実亭にやってきて詳細を語った。定能は院の側近であるから、院に通報された記録内容を兼実に紹介したのだろう。こういう記録は合戦記録といわれ、合戦が終わると各大将軍のもとで情報の集約が行なわれた。

この記事によると、戦闘は福原を取り囲む次の三ヵ所で同時に展開した。

まず第一は義経から報告のあった戦闘で、丹波路を進んだ搦手の義経軍が、丹波・播磨国墳近隣の三草山(丹波城)の平氏の防衛ラインを突破し、播磨国印南野(いなみの)から山陽道を東進して一の谷に攻め寄せ、これを攻略したと伝えている。

第二は範頼から報告のあった戦闘で、海浜を通る山陽道(浜地)から西進して福原に向かった大手の範頼軍が、ここには明記されていないものの、生田の森で平氏軍と交戦し、辰の刻(午前8時頃)から巳の刻(午前10時頃)までの「一時」足らずでこれを攻め落としたという。

第三は、範頼の報告のなかにあった多田行綱の戦闘で、摂津国惣追捕使として搦手の義経軍に同行した多田行綱の部隊が、山方から押し寄せ、最も早く「山の手」を攻め落としたと伝えている。「山の手」とは、北部の山間部から福原に南下する鵯越の麓付近に設けられた平氏の防衛ラインと推定される。

「大略城中に籠るの者一人も残らず」は、平家が大損害を出したことを示す。「もとより乗船の人々、四五十艘ばかり島の辺に在り」云々は、大輪田泊の経島付近に乗船したままの人々いて、狭い港内に多数の船が停泊していたため、混乱のあまり外海に出られないまま、自ら火を放ち焼け死んだ。その中には宗盛らもいるらしい。討ち取った者のリストは、まだ院に注進されていないので、お見せできない。三種の神器の安否も、まだ聞いていない。宗盛の死など誤報も混じっているが、以上が、定能が兼実に語った内容。

以上が、「玉葉」2月8日条から見える事柄

〈一の谷と生田の森の位置関係〉

合戦の空間は、北に六甲の険峻な山地が東西に長く連なり、南は大阪湾。東の生田森は、現在の神戸市の中心街三宮にある生田神社背後の森で、これが大手。搦手は、西の一の谷(『源氏物語』で有名な須磨近辺)までは約10km、JRで7駅、各駅停車で15分もかかる距離。

従って、この合戦は、「大手」と「搦手」の二つの戦場を合成した「生田の森・一の谷合戦」というべき。「一の谷の戦い」という呼称は、義経中心に合戦をみた結果で、『平家物語』に見えるさまざまな記事も、混乱しながら多く一の谷側に集められている。

〈平氏の損害〉

「平氏讃岐八島帰住す、その勢三千騎ばかり」(「玉葉」2月19日条)という。

「二千余人が頸共切懸(くびともきりかけ)」(盛衰記巻38平家頸共切懸)、「梟首する者一千余人」(「吾妻鏡」2月15日条)

生田の森の大将軍重衡生け捕り、その他大将軍クラス10名討死。


つづく

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