2022年11月8日火曜日

〈藤原定家の時代173〉寿永3/元暦元(1184)年2月7日 生田の森・一の谷合戦④ 〈知盛の歎き 『平家物語』巻9「浜軍の事」「知章最期」〉 「我が身の上になりぬれば、よう命は惜しいもので候ひけりと、今こそ思ひ知られて候へ」     

 


平家物語 - 巻第九・知章最期 『この馬、主の別れを惜しみつつ…』

〈藤原定家の時代172〉寿永3/元暦元(1184)年2月7日 生田の森・一の谷合戦③ 『平家物語』の叙述を加えた合戦の模様 平重衡と梶原景季 義経の鵯越えの坂落 より続く

寿永3/元暦元(1184)年

2月7日 生田の森・一の谷合戦④

一ノ谷の城が落ちて福原旧都の西側の守りが崩れたことを聞いて、優勢であった平氏の軍勢は多くの脱落者を出して自滅していった。延慶本『平家物語』は、重衡の軍勢2千騎が消滅していく状況を、「皆係へだてられて四方へ落失ぬ、少し恥を知、名をも惜程の者は皆討たれにけり、走り付きの奴原は、或は海に入、或は山に籠、其も生ハ少し、死るは多ぞ有ける」と叙述している。

東に脱出しようとすれば範頼の追討使本隊を突破するしかないので、平氏の水軍がいる海に逃れるか、多田行綱の軍勢が進んでいる北側の六甲山系の山並みに隠れるしかなかった。「山に籠もり」という表記は、多田行綱と範頼の軍勢の間に生じた隙間から脱出しようとしたことを示しているが、「死るは多ぞ有ける」とある。生き延びるには、追討使が手を出せない軍船に乗って海に出るしかなかった。生田の森にいた人々も、山手で多田行綱と遭遇戦となった人々も、退く先は浜であった。それを追うように、追討使の軍勢も浜へと進んでいった。一ノ谷の戦いの悲劇は、浜へと退いていく戦いの中で繰り広げられていく。

〈知盛の歎き 『平家物語』巻9「浜(はまいくさ)軍の事」「知章最期(ともあきらさいご)」〉

生田の森の総大将平知盛は、子の知章(16)・侍の監物太郎頼方(頼賢)3騎で浜に退くための戦いをした。そこに、知盛のことを知る武蔵国児玉党の武者が近寄ってきて、「大手は破られたのに、何を戦うのですか」と声をかけて浜へと向かって追い越していった。武者は、大将首ではあるが旧主は討たないと見逃し、急いで逃げないと囲まれますよと忠告した。汀の方へ落ちていくとき、軍配団扇(ぐんぱいうちわ)の旗印をつけた坂東武者10騎ばかりが、ら後から追っかけてきた。弓の名手、監物太郎は敵の旗差しの首を射て馬から落としてしまう。すると、敵の大将とおぼしき者が寄ってきて、新中納言に組みつこうとした。そのとき知章が中にわりこんで馬を並べ、組んで落ち、敵の首をとる。そして、立ち上がろうとするところを、童姿(わらわすがた)の敵が出会って知章の首を討ちとった。監物太郎が、馬から落ちかさなり、その童を討ちとったが、多勢に無勢、膝を射られて座ったまま討死してしまった。

「此(こ)のまざれに新中納言は、究竟の名馬には乗り給へり、海のおもて廿余町およがせて、大臣殿(おほいとの)の御舟(おんふね)につき給ひぬ。御舟には人おはくこみ乗ッて、馬立つべきやうもなかりければ、(みぎは)汀へおッかへす。阿波民部重能(あはのみんぶしげよし)、「御馬かたきのものになり候ひなんず。射ころし候はん」とて、片手矢(かたてや)はげて田でけるを、新中納言、「何(なに)の物にもならばなれ。我が命をたすけたらんものを。あるべうもなし」と宣へば、力及ばで射ざりけり。此の馬、主のわかれをしたひつつ、しばしは舟をもはなれやらず、沖の方へおよぎけるが、次第にとほくなりければ、むなしき汀におよぎかへる。足たつほどにもなりしかば、猶舟の方をかへりみて、二三度までこそいななきけれ。」(巻第9「知章最期(ともあきらさいご)」)

知盛は2人が戦っている間に、浜にたどりつく。そこで見たのは、須磨浦にいた平氏の軍船が沖に向かって急ぐ姿であった。本来なら浜に逃げてきた人々を可能な限り収容するために踏みとどまるべきなのにと、知盛はその逃げ足の速さにあきれることになる。知盛は20余町馬で泳ぎ、軍船にたどりついて生き残ることができた。(巻9「浜軍(はまいくさ)の事」)


知盛は愛用の名馬を泳がせて20余町を海をわたり、宗盛の軍船にたどり着く。船には馬を乗せる場所はなく、知盛はやむをえず、馬を汀へ追いかえす。阿波民部重能は、名馬を敵にわたすのを惜しんで射殺そうとするが、知盛は、「誰のものになろうとかまわぬ。命を助けてくれた馬だ、射殺すなど、とんでもない」と、これをおしとどめる。

馬は主人をしたって船を離れなかったが、船はしだいに遠ざかって行くので、やがて、あきらめて汀に泳ぎかえる。足のたつところまで来て、馬は舟の方を向いて二三度いなないたという。ここでは、情に厚い知盛と別れを惜しむ馬との交感のさまが描かれている。

知盛については、このほかにも彼が情けをかけてやった、武者たちについての挿話が記されている。

平家の都落ちの際、源氏の武将、畠山重能・小山田有重・宇都宮朝綱らが、内裏警固を命じられて上京中であった。平家は都落ちする前に、彼らを斬り捨ててしまおうとしだが、知盛は、「彼らにも東国には妻子や家来たちが待っていて、斬られたと知れば、どんなに嘆くことであろう。平家に運がつきたのなら、彼ら百人千人の首を斬ってみても、源氏に勝つことはできまい。もしまた運が開けて、平家が勝利を収めた時には、彼らの命を助けたことが、どんなにかありがたい情けとなることだろう」といったので、宗盛は畠山たちを助命し、それぞれ郷里へ帰してやることになった。

馬を助けたあと、知盛は宗盛の前で、わが子を捨てて逃げた自分の、ふがいなさを嘆きながら、人目も恥じず、かきくどくのであった。

「新中納言、大臣殿の御まへに参ッて申されけるは、「武蔵守におくれ候ひぬ。監物太郎うたせ候ひぬ。今は心ぽそうこそまかりなッて候へ。いかなれば子はあッて、親をたすけんと敵(かたき)にくむを見ながら、いかなる親なれば、子のうたるるをたすけずして、かやうにのがれ参ッて候らんと、人のうへで候はば、いかばかりもどかしう存じ候べきに、我が身の上になりぬれば、よう命は惜しいもので候ひけりと、今こそ思ひ知られて候へ。人々の思はれん心のうちどもこそ恥づかしう候へ」とて、袖をかほにおしあてて、さめざめと泣き給へば、大臣殿、これを聞き給ひて、「武蔵守の、父の命にかはられけるこそありがたけれ。手もきき心も剛(かう)に、よき大将軍にておはしつる人を。清宗と同年にて、今年は十六な」とて、御子(おんこ)衛門督(えもんのかみ)のおはしけるかたを御覧じて、涙ぐみ給へば、いくらもなみゐたりける平家の侍ども、心あるも心なきも、皆鎧の袖をぞぬらしける。」(巻第9「知章最期」)

知盛は、「わが子が親を助けようとして、敵ととっ組んでいるのを見ながら、いったい、どこの親がわが子を見捨てて、わたくしのように逃げるでありましょうか。もし、これが人の上のことであったら、どんなにか非難したく思ったことでありましょうに、わが身の上のこととなると、このとおり、よくもまあ、命というものは惜しいものであったことよと、いまこそ思い知ることができました。人びとのお思いになる心のうちが、はずかしゆうございます」といって、さめざめと泣いた。宗盛も、「清宗と同じ年で、今年は十六であったな」と、わが子のほうを見て涙み、並みいる平家の侍たちも、「皆鎧の袖をぞぬらしける」と『平家物語』は語る。

『平家物語』の泣かせ所の一つであり、知盛の真率さと人間にたいする洞察の深さをとらえた最高の場面である。知盛が我が子を見捨てたのはただの命惜しさではなく、彼が平家全軍のなかで負った重責によるのだろうが、しかしそれがすべてではなかったかもしれないという自省が、この痛切な言を吐かせている。


つづく


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