2024年6月28日金曜日

大杉栄とその時代年表(175) 1895(明治28)年12月9日 道灌山事件(Ⅲ) 子規と虚子・碧梧桐 (関川夏央『子規、最後の八年』より) 「非風と仲違いし、碧梧桐にも失望した子規が「後継者」として期待するのは、ひとり虚子のみとなった。」

 

高浜 虚子

大杉栄とその時代年表(174) 1895(明治28)年12月9日 道濯山事件(Ⅱ) 高浜虚子『子規居士と余』 関川夏央『子規、最後の八年』 「道灌山の失意は、病者の一瞬の気の弱りであったろう、と碧梧桐はいう。子規は根が明朗な明治前半期の青年であり、人を恨みつづけることのできぬ人であった。」」 より続く

1895(明治28)年

12月9日

道灌山事件(Ⅲ)

■子規と虚子・碧梧桐

(関川夏央『子規、最後の八年』より)

「高浜虚子は明治二十五年九月、京都の第三高等中学校に進んだ。尋常中学四年まではよく勉強する端整な態度の生徒で、級友らに「聖人」と仇名されるほどであった。それが五年生以降急激にかわったのは、子規に感化されたからであった。そのとき、虚子の内部に漠然とした文学的野心が頭をもたげ、同時に官吏や教師といった職業への道が光彩を失った。

理由のふたつめは、碧梧桐河東秉五郎との接近であった。

兄たちの友人である子規から、いち早くベースボールの手ほどきを受けた碧梧桐は、俳句への目覚めにおいても虚子に先んじた。明治二十四年三月、尋常中学四年課程を終えると上京、錦城中学に籍を置いて、その年の七月、中学四年修了の資格で一高の試験を受けた。しかし失敗、八月には松山へ戻った。虚子とはこの頃から親しさを増した。

明治二十四年八月、碧梧桐は松山の中学に復学して五年生となり、二十六年九月、三高文科予科に入学した。虚子より一歳上であった碧梧桐だが、このとき虚子の下級生となった。三高正門前の下宿で虚子と同宿した碧梧桐は、虚子が短い期間のうちに「聖人」を脱し、大言壮語の気味ある文学書生にかわっていることに驚いた。

まだ碧梧桐が三高入学前の明治二十五年十一月、虚子は京都で子規と一週間ほど遊んだことがあった。「日本」入社を決意した子規は、陸羯南に故郷の家族を呼び寄せるよう勧められ、母八重と妹律を神戸港まで迎える途中であった。

虚子が麹屋町の旅館柊屋に訪ねると、子規は縁先の踏石の上に白い布切れを敷き、そのうえに紅く染まったもみじの葉を石で叩きつぶしていた。

「何をしておいでるのぞ」

と尋ねると、

「昨日高尾に行って取って帰った紅葉をハンケチに映しているのよ」

と子規はこたえた。

この白い小布はのちに律にわたされたのだが、このときの光景は、その日午後に出掛け、全山紅葉の嵐山を背景に、料理屋で酒をくみながら子規とかわした文学談義の記憶とともに、虚子の記憶にあざやかにとどまった。

(略)

子規が去ったのち虚子の精神は不安定となり、やや神経衰弱的症状を呈した。慣れぬ京都でのひとり暮らしのせいもあろうが、神経衰弱は、伝統的社会と西欧移入の「個人」の矛盾を生きる明治二十年代以降の青年の流行病のようであった。明治二十六年三月の春休み、虚子が徒歩での東京行を敢行したのは、おそらく無意識のうちの対症療法であった。

もっともこのときは、名古屋をすぎたあたりで足裏の肉刺(まめ)をつぶして歩けなくなり、刈谷から汽車に乗った。突然出現した虚子を子規は歓迎し、内藤鳴雪らと小さな句会を催してくれた。帰りも虚子は富士川を渡るまでは歩いた。それから汽車で京都へ帰った。

すでに碧梧桐と同宿していた明治二十七年一月にも虚子は上京した。このたびは退学届を出しての上京であった。文学の道を歩む志を立てたのである。それもまた明治二十年代青年の流行、または病気であった

虚子は内藤鳴雪が舎監をつとめる本郷真砂町の常盤会寄宿舎に入れてもらい、東京見物をしたり上野の図書館に通ったりして日をすごした。青年たちの文学熱を導いた坪内逍遥、森鴎外、幸田露伴の作品は図書館にはなかったから、古書店で漁った。

逍遥の『小説神髄』『当世書生気質』『妹と背かがみ』などは明治十八、九年に刊本となった。ついで露伴が明治二十二年『風流仏』を出し、二十三年『露団々』を刊行した。二十三年はじめには鴎外の『舞姫』が「国民之友」に掲載され、ついで『うたかたの記』が出た。明治二十四年から二十五年にかけて鴎外『文づかひ』、露伴『いさなとり』『五重塔』と発表され、その後に斎藤緑雨、樋口一葉がつづいて、子規、独歩、そして漱石の明治三十年代文学を準備するのである。

だが、二度目の上京を必ずしも虚子はたのしまなかった。句会が期待したほどおもしろくはないのは、よい句ができぬからであった。みなが「道楽者」の行末に同情しているように思われたからでもある。

明治二十七年四月、「日本」に小金井の観桜記を書けと子規に命せられたが、書けなかった。かわりに「百花園の春色」というのを書いて見せると、子規に酷評された。「こりゃ文章になっておらん。時間の順序が立っていないし、場所もはっきりしない。学校までやめてかかった人としてはこんな事ではいかんのじゃないか」と叱られた。虚子は、子規がいうところの「学問」の意味を思い知った。

五月、虚子は京都へ帰った。帰ったら復学するつもりで、すでに碧梧桐を通じて担任教授に願いをあげてあった。このときも信越線で軽井沢まで行き、あとは上田、松本を通って木曾路を歩いた。岐阜からは汽車に乗った。「木曾紀行」も子規が編集する新聞「小日本」に書けといわれていたのだが、結局虚子は書かなかった。

(略)

木曾徒歩旅行ののち京都に帰った虚子は、三高の担任教授服部宇之吉を訪ねた。復学の願いは碧梧桐を通じてあげてあったが、本人が直接こい、といわれたからである。

「もう二度と勝手をしないという条件で、今度だけは復校を許す」

服部はそういい、さらにこうつづけた。「今度京都の予科は解散することに決ったから、君は鹿児島へ行け」

明治二十七年六月二十五日、高等学校令が公布され、高等中学校は高等学校となった。当時の第一高等中学校から第五高等中学校(東京、仙台、京都、金沢、熊本)はそれぞれ第一高等学校から第五高等学校に改称・改組された。このとき三高には法・医・工の三科のみがおかれることとなり、大学予科は廃止された。ナンバースクール五校のほか、当時山口高校(のち高商となる)、鹿児島造士館(のち第七高等学校)があったが、その鹿児島に行けというのである。

いまだ鉄道も達せず、蛮風の地と他郷出身学生に恐れられていた鹿児島では、自分はとても生きのびられそうもない、と虚子は思った。が、学校にあらためて質すと移籍先は熊本(五高)、金沢(四高)、仙台(二高)でもよいといわれた。虚子と碧梧桐が西日本人には縁遠い仙台を選んだのは、東京にもっとも近いからであった。彼らは子規との縁を失いたくなかったのである。

(略)

明治二十七年九月、虚子と碧梧桐は連れ立って仙台へ行った。

「汽車が白河の関を過ぎた頃から天地が何となく蕭条(しようじよう)として、我等は左遷されるのだというような一種の淋しい心持を禁ずることが出来無かった」

「扨て仙台駅に下車してみると、其は広い停車場ではあったが、何処となくガランとしていて、まだ九月の初めであるというのに秋風らしい風が単衣の重ね着の肌に入(し)みた。車を勧めに来た車夫のもの言いが皆目判らなかった」(高浜虚子「子規居士と余」)

ふたりが落着いたのは、「スンマツスツジウスツパンツスズキヨスキツ」新町七十七番地鈴木芳吉方で、湯屋の裏座敷であった。

(略)

・・・・・虚子と碧梧桐はふたり連れだった。そのうえ二高には坂本四方太、大谷繞石(じようせき)など京都からの転学組もいた。それでも仙台はさびしかった。秋深まるにつれ、さびしさはつのった。東京、子規、文学、俳句、句会の座、みな恋しかった。

虚子と碧梧桐は協議の末、二高を退学することにした。虚子にとっては二度目の退学である。碧梧桐は子規にその決意を書き送った。すると子規はすぐに返信してきた。強い反対の意をしるした返信であった。

「学校をやめる事がなぜ小説家になれるか、一向分らぬように思はれ候。学校をやめて何となさる御積りか。定めて独学とか何とかいはるるならん。なれども独学の難きは虚子兄之熟知せらるる所に候へぼ、同兄より御聞取り成さるべく候」

これは明治二十七年十月二十九日付だが、十一月二日付の手紙はより烈しかった。

「若し両兄が今迠に作り給ひし文章俳句小説、之を文学者の作として見んか、平凡ならざれは陳腐、幼稚ならざれば佶屈(きつくつ)、殆んど見るに足るべきものなきなり」

「之を要するに、高等中学生たりし両兄に向つては感服せしもの多し、然れども文学者たる両兄に対してはあき足らぬ者猶多し」

ふたりとも未熟だといっている。もう少し修業してオトナになってから文学を志しても遅くはないといっている。

しかしこの手紙を受けとったとき、すでにふたりは退学の手続を済ませていた。彼らは子規に相談をもちかけたのではなかった。ただ報告したにすぎなかった。

明治二十七年十一月末、上京した碧梧桐は子規宅に転がりこんだ。虚子は小石川の新海非風(にいうみひふう)の家に同居の後、本郷台町に下宿した。そこはかつて漱石がいた家であった。根岸の家にふたりは置けぬという事情があったにしろ、虚子は子規の監視を避けたのである。

(略)

明治二十八年に入ると非風が日銀の北海道支店に転勤が決まったので、虚子は本郷の医科大学附属病院前、龍岡町の下宿に碧梧桐と同居した。

明治二十八年五月、虚子は京都に遊んだ。折しも内国博覧会開催中の京都には寒川鼠骨がいて旧交をあたためた。子規瀕死の電報を陸羯南から受けとったのはそのときであった。

(略)

明治二十八年夏、子規を須磨の保養院へ送った虚子は、七月末に東京へ帰った。帰ると龍岡町の下宿を引払い、東京西郷戸塚村へ移った。そこは、その年四月にピストル自殺した藤野古白がいた下宿であった。秋、虚子は東京専門学校(のち早稲田大学)の入学試験を受けた。「学問をせよ」という子規の意見にしたがい、坪内逍遥のシェークスピアの講義を聞くつもりであった。

東京専門学校の試験は形式的なもので、虚子は誰よりも早く答案を出した。・・・・・だが、いざ学校へ行ってみると、逍遥の講義はシェークスピアではなくワーズワースであったから、ワーズワースに興味のない虚子は、じきに学校へ行かなくなった

そんな虚子に子規はよくこう忠告した。

「お前は人に相談という事をおしんからいかん。自分で思い立つと矢も楯もたまらなく遣っておしまいるものだから後でお困りるのよ」

しかしその忠告は、子規自身に向けられてしかるべきものであった。晩年に至って子規は些事まで人に相談する人となったが、それは病床から動けなくなった子規が、他人を「悦服」せしめるために「相談」というステップを踏んだにすぎない、とは虚子の追懐である。

虚子との同居を解消した碧梧桐は、子規の推薦で「日本」に入社し、神田淡路町に住んだ。従軍記者となって外地へ向かう子規の後継という含みであった。だが、神戸、須磨、そして松山で病身を養う子規に聞こえてくるのは、若い碧梧桐のもの知らずぶりと勤務態度への不評ばかりであった。

非風と仲違いし、碧梧桐にも失望した子規が「後継者」として期待するのは、ひとり虚子のみとなった。・・・・・」(関川夏央、前掲書)


つづく


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