2024年6月16日日曜日

長徳3年(997) 伊周・隆家の恩赦 奄美島の賊が、筑前・筑後・薩摩・壱岐・対馬を襲う。 出家した定子が参内し、内裏外にある居所、職曹司に入る

東京 北の丸公園
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長徳3年(997)
この年
・宋、太宗没し真宗が即位する。
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・この頃、藤原公任「拾遺抄」が成立する。
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4月5日
・陣定において、東三条院の病気平癒を願う大赦が出され、伊周・隆家を恩赦の対象とし罪を赦され召還することに決まる。
隆家は4月21日夜入京。伊周は疫病が静まるのを待って12月に帰京。
2人とも数年の内に本位に復し、隆家は元の中納言に戻った。
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5月22日
・大地震。
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6月
・この月、日本人海賊の高麗沿岸襲撃に対する高麗側の抗議の外交文書(国牒)に対し、報復を恐れた政府は大宰府に警戒強化を命じた。
その一環として大宰府の申請を受けて、大宰大監(だいげん、府官=大宰府の在庁官人)であった「堪能武者」平中方(なかかた、維時の子)を対馬守に任じた。摂関期には、軍事的緊張をかかえた諸国の受領には武士が任命された。
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6月22日
・出家した定子が参内し、内裏外にある居所、職曹司(しきのぞうし)に入る。
一条天皇の寵愛はまだ定子にある。
「太(はなは)だ希有の事」であり、外記から行啓に扈従せよと言ってきたが行かなかった、と実資の『小右記』に記される。
通常、后は内裏を居所としたことを考えると、これは定子への特別な取り計らい。
定子を召したことについては貴族社会では同意を得られず、『小右記』は「天下甘心せず」と言う。中宮定子は失脚した伊周の妹で、伊周・隆家が捕らえられた時に自ら髪を切り出家しているからである。
しかし、一条天皇の寵愛は途切れなかった。
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10月1日
・孟冬旬(もうとうしゆん)という恒例の宴会があって、夕方から一条天皇は紫宸殿に出御し、左大臣道長・右大臣顕光・内大臣公季以下、公卿多数参列のもとに式が進められ、祝酒が一巡した。その時、内裏東側の左近衛陣を固めていた役人が突然大声を張り上げて、
「大宰府から飛駅が到来し、高麗国人が壱岐・対馬を襲い、さらに肥前国に襲来しようとしている由であります」
と報じた。

飛駅使は例によって建春門外におり、彼の持参した大宰府からの解文(報告書)と、大宰大弐藤原在国の手紙は直ちに内裏に持ち込まれた。
道長以下の三大臣は、式の途中であったが席を起って、紫伝殿の東の階段を降り、在国の手紙を読んだ。
襲来したのは高麗人ではなく、奄美島の賊とのことであった。事態を承知した大臣たちは、一応式を進め、終了後、公卿を引き連れて陣座に赴き、そこで初めて大宰府からの公式報告書の封を聞いて、会議に入った。

左大臣道長は大宰府の報告書を蔵人頭藤原行成を経て天皇に奏上し、急速に議決せよとの仰せを受けて陣座に戻り、大宰府言上の件につき会議をおこなうと宣して書類を示した。
それには大宰府からの報告として、奄美島の賊が兵船に乗って、筑前・筑後・薩摩・壱岐・対馬の諸国沿岸を襲い、略奪暴行を働き、すでに300人の住民を捕え去ったと記されていた。
そして、高麗国の船500隻が日本に向かおうとしているというも、流言と断りながらも、付け加えられていた。

会議は午前2時に開かれ、公卿からは種々の発言もあったが、結局、大宰府に対し、要所の警備、賊の追討、神仏への祈祷、戦功者の褒賞などを下令し、高麗国の件は信用するに足らないが、一応神仏への祈祷を怠らないことなどが定められた。
この結論は夜が明けてから行成を経て奏上され、公卿の議決通りに行なえとの勅命が下って、10日後、諸社に奉幣使が出された。
そして、11月2日には大宰府から重ねて飛駅が到着し、南蛮の賊40余人を捕獲したとの報告があって、この事件もまもなく落着した。
この年の南蛮の賊徒というものの正体は不明である。
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