大杉栄とその時代年表(173) 1895(明治28)年12月1日~9日 第9議会(「藩閥の政党化」「政党の藩閥化」) 軍事費は前年比43.5% 財源は清国賠償金・公債・増税 道濯山事件(Ⅰ) より続く
1895(明治28)年
12月9日
道濯山事件(Ⅱ)
「稲は刈り取られた寒い反甫(たんぼ)闇市を見遥るかす道灌山の婆(ばば)の茶店に腰を下ろし・・・・・
「どうかな、少し学問が出来るかな。」
斯う切り出した居士は、何故に学問をしないのかといふ事を種々の方面から余に問質(といただ)すのであつた。殆ど二三時間も婆の茶店に腰をかけてゐた間に、ものを言った時間は四分の一にも当らぬ程で二人の間には寧ろ不愉快な絶望的の沈黙が続いた。居士はもう自分の生命は二三年ほか無いものと党悟した一つのあせりがもとになってじりじりと苛立つてゐた。二十三歳の快楽主義者であつた余は、さういふせつぱ詰つた苛立つた心持には一致することが出来なかった。
「私(あし)は学問をする気は無い。」と余は遂に断言した。これは極端な答であつたかも知れぬが斯う答へるより外に途が無い程其時の居士の詰問は鋭かつた。・・・・・
「それではお前と私とは目的が違ふ。今迄私のやうにおなりとお前を貢めたのが私の誤りであつた。私はお前を自分の後継者として強ふることは今日限り止める。詰り私は今後お前に対する忠告の権利も義務も無いものになつたのである」
「升(のぼ)さんの好意に背くことは忍びん事であるけれども、自分の性行を曲げることは私には出来ない。詰り升さんの忠告を容れて之を実行する勇気は私には無いのである。」
もう二人共いふべき事は無かつた。暮れやすい日が西に舂(うすず)きはじめたので二人は淋しく立上つた。居士の歩調は前よりも一層怪し気であった。御院殿の坂下で余は居士に別れた。」(高浜虚子『子規居士と余』十)
「そのとき満二十一歳であった高浜虚子は、長く重たい沈黙ののち、
「私は学問をする気はない」
と子規にいった。
それは子規の、
「どうかな、少し学問が出来るかな」
という、問いとも叱責ともとれる言葉への回答であった。一個の独立宣言でもあった。
子規の言葉は尋常であった。しかし口調は鋭かった。要するに子規は虚子に、「学問」をして自分の仕事の後継者たれ、と命じたのである。
子規のいう学問とは読書であった。教養であった。そこには外国語や西洋わたりの知識も含まれていた。
広い視野のもとに日本の伝統芸術たる俳句を眺め、俳句の将来をより野太いものにせよ、というのである。また、人の上に立って芸術運動を率るために、自堕落わがままに流れやすい虚子の心性を学問によって律せよ、というのでもあった。
子規は虚子の怠け癖、あるいは悠揚迫らなすぎる日々の態度を飽き足らず思っていた。勃興する新文学や女性にたやすく心を揺らす虚子を不安に思ってもいた。
虚子は子規が好きであった。だが子規が吹かす兄貴風に反発したい部分もないではなかった。子規であれ誰であれ、先達の「指導」のもとに精進するのは自分の気質に合わぬし、子規のいう「学問」への興味が絶無ではないにしろ、自分は決して読書子にはなれぬ、と虚子は思っていた。
虚子は自由人であった。同時に頑固であった。虚子は明治二十年代末の知識青年としてはめずらしく西欧的思想に強い憧れの念を持たなかった。
書斎の人たり得なかったのは子規とおなじであったが、子規以上に常識人であった。それゆえ、子規とおなじく、あるいはそれ以上に編集者、経営者の才能が宿っていたのだが、このとき子規はむろん、虚子自身もそのことに気づいていない。虚子はただ、自分の性格が子規の思うようなものではないと、この際はっきりいっておくべききだと感じたのである。
ふたりは婆さんの茶店に、都合二、三時間も腰をかけていた。しかし会話した時間はその四分の一にもあたらず、「むしろ不愉快な絶望的の沈黙」に支配されがちであった。
虚子は、その沈黙のうちに、子規の深い失望と焦燥を読みとった。
冬の短日で暮れるのは早い。子規は口をひらいた。
「それではお前と私とは目的が違う。今まで私のようにおなりとお前を責めたのが私の誤りであった。私はお前を自分の後継者として強うることは今日限り止める。つまり私は今後お前に対する忠告の権利も義務もないものになったのである」
虚子はいった。
「升さんの好意に背くことは忍びん事であるけれども、自分の性行を曲げることは私には出来ない。つまり升さんの忠告を容れてこれを実行する勇気は私にはないのである」
乏しい会話は尽きた。子規は杖にすがって立ち上がった。」(関川夏央『子規、最後の八年』 (講談社文庫) )
道灌山から戻った子規は在広島の旧友五百木良三(飄亭)宛に長い手紙を書き失意の心情を吐露する。
「小生が心中は狂乱せり。筆頭は混雑せり。貴兄は気を落ちつけて読んでくれ給へ
「呼(ああ)命脈は全くここに絶えたり。虚子は小生の相続者にもあらず、小生は自ら許したるが如く虚子の案内者にもあらず。小生の文学は気息奄々として命旦夕に迫れり。今より回顧すれば虚子は小生を捨てんとしたること度々ありしならんも、小生の方にては今日迄虚子を捨つる能はざりき。親は子を愛せり。子を忠告せり。然れども神の種を受けたる子は世間普通の親の忠告など受くべくもあらず。子は怜悧也。親は愚痴也。小生は簡程にまで愚痴ならんとは自ら知らざりき。・・・・・咄(とつ)談話は途断えたり。夕陽うしろの木の間に落ちて遠村模糊(おんそんもこ)の裡に没し去り、只晩鴉(ばんあ)の雁群と前後して上野に帰るあるのみ。」
「一語なくして家に帰る。虚子路(みち)より去る。さらでも遅き歩は更に遅くなりぬ。懐手のままぶらぶらと鶯横町に来る時、小生が眼中には一点の涙を浮べぬ。今後虚子は栄ゆるとも衰ふるとも我とは何等の関係もあらず。去れども涙は何を悲んでか浮び出たる。鴨呼正直なる者は涙なり。」
「しかし、飄亭を驚かせた手紙をもって「子規の人物の一端の暴露とするのは早計」と河東碧梧桐はいう。
(そこにあらわれた強烈な孤立感は)病魔に襲われた者の、その発病時に感ずる発作のように、未来を否定する一種の幻想である。(・・・)しかし自己の運命に杞憂を抱く弱者の心理として、何らかの支持者を得ようとする、その孤独に堪えない悶々の情は酌量すべきである。(・・・)
病気が日を追うて重大となり、それこそ命旦夕に迫った時でも、もう二度とかような幻想には囚われなかった、何らの焦燥も起さなかった。死の雰囲気の濃厚となるにつれて、心はいよいよ清澄に平静であった。(『子規を語る』)
子規という人の本質はこちらの方で、要するに道灌山の失意は、病者の一瞬の気の弱りであったろう、と碧梧桐はいう。子規は根が明朗な明治前半期の青年であり、人を恨みつづけることのできぬ人であった。」(関川夏央、前掲書)
つづく
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