2024年6月29日土曜日

大杉栄とその時代年表(176) 1895(明治28)年12月9日~31日 一葉『十三夜』『やみ夜』(「文藝倶楽部・閏秀小説号」) 金子光晴生まれる 漱石の見合い 「漱石が来て虚子が来て大三十日(おほみそか)」(子規)   

 

大杉栄とその時代年表(175) 1895(明治28)年12月9日 道灌山事件(Ⅲ) 子規と虚子・碧梧桐 (関川夏央『子規、最後の八年』より) 「非風と仲違いし、碧梧桐にも失望した子規が「後継者」として期待するのは、ひとり虚子のみとなった。」 より続く

1895(明治28)年

12月9日

一葉、日本乃家庭社の有明文吉より「日本乃家庭」第2号への寄稿を依頼され、第1号を贈呈される。

野々宮菊子より関如来との縁談を受けるとの連絡。

星野夕影から「たけくらべ」の続編を促される。

12月10日

一葉『十三夜』『やみ夜』(「文藝倶楽部・閏秀小説号」)。

「やみ夜」は再掲載。「閨秀小説」には、若松賤子、小金井喜美子、田沢稲舟、三宅花圃、大塚楠緒子、北田薄氷などの作品が掲載される。3万部完売し重版される。


「この号は初版三万部と、当時としては破天荒な部数を印刷したにもかかわらず、すぐに売切って再版がかけられた。博文館は大阪には七百部しか送らなかったのだが、その分は一日で売れた。急いで五百部を送ると、それも二、三日ではけた。それは、文芸が生活手段となり得ることをしめした最初のきざしであった。この特別号中、もっとも好評だったのは一葉の二作であった。」(関川夏央、前掲書)


樋口一葉『十三夜』(青空文庫)

〈あらすじ〉(by Wikipedia)

貧しい士族斉藤主計の娘お関は、官吏原田勇に望まれて7年前に結婚したが、子どもが生れてから次第に冷酷無情になる夫の仕打ちに耐えかねてある夜、無心に眠る幼い太郎に切ない別れを告げて、これを最後と無断で実家に帰る。

おりしも十三夜、いそいそと迎える両親を見て言い出しかねていたが、あやしむ父に促されて経緯を話し、離縁をと哀願する。母は原田の娘への仕打ちにいきり立ち、父はそれをたしなめ、お関に因果を含め、ねんごろに説きさとす。お関もついにはすべて運命とあきらめ、力なく死んだ気になって夫の家に帰る。

その途中乗った人力車の車夫はなんとお関が乙女心で結婚を夢みていた幼なじみの高坂録之助。話を聞けば、原田に嫁いでしまった自分のために自暴自棄になり、その後所帯を持ったが妻子を捨てて落ちぶれた暮らしをしている。そのひとを今、目の前にして、万感、胸に迫る思いで無限の悲しみを抱いたまま彼とも別れ、秋の夜の冷たい月が照らす中、2人は別々の方向へと帰って行く。


12月12日

福沢諭吉、「去年来の大戦争に国光を輝かして、大日本帝国の重きを成したる」ことは、「恍として夢のごとく感きわまりて独り泣くのほかなし」と喜ぶ。

12月13日

マーラー交響曲第2番「復活」、自らの指揮でベルリン・フィルハーモニー管弦楽団により初演。

12月14日

漱石の子規宛て手紙。「正岡子規に送りたる句稿その八」同封。

「さて東上の時期も漸々近づき一日も早く〔子規の〕俳会に出席せんと心待ちをり候」

12月15日

虚子の子規に宛てた詫状のような釈明文。


「其節、小生の野心全くなき様申し候ひしは、ちと言ひすぎに有之候


「よし多少小生に功名の念ありとも、生の我儘は終に大兄の鋳形にはまること能はず。我ながら残念に存じ候ヘど、この点に在つては、終に見棄てられざるを得ざるものと、せん方なくも明(あきら)め申條。 

唯併し乍ら、功名一件外の御交際御教訓は、如旧飽迄(きうのごとくあくまで)も奉願度。」


12月15日

一葉、関如来から、「文藝倶楽部」第12編臨時増刊号「閨秀小説」の巻頭写真に一葉も入っていることへの不快感を示される。

17日ころまでに、関如来と野々宮菊子の縁談が破断。

12月18日

この日付けの漱石の子規宛て手紙。

漱石は見合い写真の鏡子を気にいったようである。写真が届いたのは、おそらく11月下旬か12月早々だと思われる。


「遠路わざわざ拙宅まで御出被下候よし恐縮の至に存候。その節何か愚兄より御話し申上候由にて種々御配意ありがたく存候。小生は教育上性質上、家内のものと気風の合はぬは昔しよりの事にて、小児の時分より「ドメスチツク ハツピネス」抔いふ言は度外に付し居候へば今更ほしくも無之候。近頃一段と隔意を生じ候事も甚だ不本意に存をり候。しかしこれがため御配慮を受けんとは期しをらず候ひしなり。愚兄の申す処も幾分の理窟も可有之、上京の節緩々(ゆるゆる)可伺候。結婚の事抔は上京の上、実地に処理致す積りに御座候。かかる事迄に貴意を煩はす必要も無之かと存候。尤も家内のもの確(しか)と致候もの少なき故この度の縁談につきても至急を要する場合には貴兄に談合せよとは兼(かね)て申しやり置候。中根の事に付(つい)ては、写真で取極候事故、当人に逢(あつ)た上で若し別人なら破談する迄の事とは兼てよりの決心、是は至当の事と存候。

(略)」


彼が中根に送った見合い写真はフロックコート姿のもので、それを見た鏡子は、


「上品でゆつたりしてゐて、いかにもおだやかなしつかりした顔立で、外ののをどつさりみてきた目には、殊の外好もしく思はれました」(『漱石の恩ひ出』)


という好印象を受けた。写真では金之助のあばたは修正されいた。

12月20日

(露暦12/8)ロシア、レーニン逮捕。獄中で「ロシアにおける資本主義の発展」の仕事をする。セント・ペテルブルクに1年、後シベリア・大エニセイ川右岸シュシェンスコエ村へ流刑3年間。

12月22日頃

「たけくらべ」(十三)(十四)脱稿、30日、『文学界』第36号掲載。

12月後半、国木田収二(独歩の弟)の依頼による「わかれ道」成稿、翌年1月4日発行『国民之友』(民友社)新年第277号付録「藻塩草」に掲載(江見水陰、星野天知、泉鏡花、後藤宙外らの作品も掲載)。わかれ道脱稿後、続いて有明文吉の依頼により「この子」を執筆、12月22日までに届けられる。翌年1月1日発行の「日本乃家庭」第2付録に掲載。

12月23日

「空想と写実と合同して一種非空非実の大文学を創出せざるべからず、空想に偏僻し写実に拘泥するものはもとよりその至る者に非るなり」(『日本』「俳諧大要」明治28・12・23)

12月25日

金子光晴、愛知県海東郡ニ誕生。

2歳、名古屋に移り、金子家養子。5歳、京都に移る。11歳、東京に移り、泰明高等小学校入学。13歳、暁星学園中等部入学。19歳(1914大3)、早稲田大学高等予科文科入学。

12月26日

帰京の途についた孤蝶が秋骨と小田原で待ち合わせる。

12月27日

漱石、上京。

12月28日 貴族院書記官長中根重一の長女鏡子(鏡、戸籍名はキヨ、18歳)と中根一家が住む書記官長官舎(麹町区内幸町)で見合いする。見合いは上首尾であった。 


「宏壮な洋館と和風住宅の二棟からなった官舎に、中根重一とカツ夫妻、鎮子をかしらに女四人男二人のきょうだい、それに書生三人、女中三人、抱車夫一人がいた。まだ東京ではめずらしい電灯と電話のついたその家の二階、二十屋敷さの広い部屋で見合いは行われた。夏目家側は漱石ひとりのみの出席である。

(略)

鎮子は、漱石の鼻のアバタに気づいた。それは写真にはなかった。仲人も、アバタはないと保証していた。給仕に出ていた妹の時子が、あとで鎮子に「夏目さんの鼻のあたま、でこぼこしていたわ、あれ、アバタじゃない?」といった。「そうよ。アバタよ」と鏡子はこたえたが、それで漱石の印象がそこなわれたわけではなかった。

大きな塩焼の鯛が出されたとき、漱石はいきなりその横腹に箸をつけて穴をあけた。しかしそれだけで食べるのをやめた。その鯛は折に詰めてもらい、持って帰った。穴のあいた鯛を見た直矩が「おい、これはどうしたんだ」と漱石に尋ねた。「ひと口食べてみたが、あんまり大きいからやめにしたんだ」とこたえた漱石に、直矩は「引物に箸をつけるやつがあるか。嫁に嫌われるぞ」といった。だが、嫁は漱石を嫌わなかった。」(関川夏央、前掲書)

 

漱石は鏡子についてつぎのような感想を周囲に漏らしていた。

「歯並が悪くてさうしてきたないのに、それを強ひて隠さうともせず平気で居るところが大変気に入つた」(夏目鏡子『漱石の思ひ出』)。       

12月28日

第9議会開会。

軍備拡張のため予算案は膨張する、政府は自由党と国民協会の協力により予算を成立させる。しかし軍拡予算の財源には公債が充てられ、地租増徴問題は審議されず。会期中、対外硬派が遼東半島還付についての内閣弾劾上奏案を提出、自由党と国民協会が否決、伊藤内閣は無事に議会を乗り切ろ。

12月29日

英南アフリカ会社リンダー・スター・ジェームソン(42)、兵士500率いトランスヴァール共和国不法侵入企図、失敗。

12月30日

この日より一葉日記「水のうえ」始まる。~明治29年1月10日。無署名。

孤蝶が冬期休暇により帰省。家に帰るより先に一葉を訪ねる。家には小田原の蒲鉾などを、妹邦子には大津絵の藤娘を描いた扇子を土産にくれる。4ヶ月ぶりなので話すことも多い。これから眉山を訪ねるということで夜更けに帰る。孤蝶は1月7日朝に彦根に戻るまで毎日一葉宅を訪れる

「文学界」第36号に「たけくらべ」13,14を掲載。


「これをはじめにして七日の朝帰郷までに、一日も我が家を訪ひ給はぬ事なかりき。ある時は三人、五人の友、うちつれて来る事もあり、ある時はただ一人しておはすこともあり。いとおもしろくにぎやかにのみ打過ぎぬ。」


この年は、一葉自ら「やうく世に名をしられ初て、めづらし気にかしましうもてはやさるゝ」(十月「水のうへ日記」冒頭)と記した通り、小説家一葉の名が高くなった年であった。だから彼女の実人生は、ほぼ執筆に明暮れる日々が中心となっていく。「文学界」同人や川上眉山あるいは博文館の大橋乙羽などとの交流も密になっていったが、その合間に彼女は執筆に全力を傾注し、「たけくらべ」「にごりえ」「十三夜」という代表作を続けざまに発表。

12月31日

漱石、子規を上根岸の家に訪ねる。そこへ虚子もきた。

子規、漱石を詠んだ俳句(四句)を作る。


語りけり大つごもりの来ぬところ

漱石が来て虚子が来て大三十日(おほみそか) 

梅活けて君待つ菴の大三十日

足柄はさぞ寒かったでござんしょう


つづく



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