1895(明治28)年
10月8日
乙末事変(閔妃殺害事件)そのⅡ
〈海外の報道〉
10月15日、京城特派員コロネル・コッコーリールは、パリ発行の『ニューヨークヘラルド』の「ヘラルドがニュースを提供した」という欄で「朝鮮の大臣と対談する」という副題をつけて朝鮮の王妃が殺害されたことを大きく報じた。
10月16日発行の『ニューヨーク・ウィークリー・トリビューン』は「朝鮮の王妃の殺害者が確認された。王(高宗)は囚人、独裁者である王の父は親日政府にかつがれて就任した」と10月13日付のパリの新聞から引用して報道した。更に、「王妃(閔妃)は日本軍隊が城門を守っていた時、殺害された。日本の大臣がその殺害陰謀を知っていたという内容は見当たらなかった。王はいま囚人で、反対派リーダーであるお父さんの大院君は新内閣を親日勢力で構成するだろう。王妃の側近は逃亡した。壮士という日本人が王妃の殺害者として逮捕された」と比較的詳細に報じている。
同紙の10月30日付では「朝鮮の王妃の死体が発見された」というタイトルで、10月16日横浜発記事を引用し、「王の父(大院君)と彼の追従者によって、最近攻撃を受けて死んだ王妃の死体が発見された。(日本政府は)小村(寿太郎)朝鮮公使に万一日本人たちが王妃を殺害したのが証明されたら、殺害犯を処罰せよと命令した」と報じられている。
この頃日本では、『読売新聞』や横浜の『毎日新聞』などが事件翌日からこの事件を大々的に報じており、それらの情報の引用か、関係者からの情報提供を受けたと考えられる。
〈イザベラ・バード『朝鮮紀行』に描かれた朝鮮王朝及び閔妃暗殺事件〉
イザベラ・バードは、1894年1月~1897年3月、朝鮮を4度訪れている。『朝鮮紀行』の中には、高宗・閔妃との面談の模様、閔妃暗殺をめぐる事柄なども描かれている。
イザベラ・バードは、閔妃から内々に会いたいと招待を受け、アメリカ人宣教師アンダーウッド夫人とともに訪ねた。
「王妃はそのとき40歳をすぎていたが、ほっそりしたとてもきれいな女性で、つややかな漆黒の髪にとても白い肌をしており、真珠の粉を使っているので肌の白さがいっそう際立っていた。そのまなざしは冷たくて鋭く、概して表情は聡明な人のそれであった。王妃は濃い藍色の紋織り地の、ひだをたっぷりとって丈の長い、とてもゆったりしたハイウェストのスカートと、たっぷりした袖のついた深紅と青の紋織りの胴着という衣装だった。……話しはじめると、興味のある会話の場合はとくに、王妃の顔は輝き、かぎりなく美しさに近いものを帯びた。・・・王妃はわたしに親切なことばをさまざまにかけて丁重かつ明敏なところを示したあと、国王になにか言った。すると国王がただちに会話に加わり、おしゃべりはさらにさらに半時間つづいた。」
「国王は背が低くて顔色が悪く、確かに凡人で、薄い口髭と皇帝髭を蓄えていた。落ち着きがなく、両手を頻りにひきつらせていたが、その居ずまいや物腰に威厳がないと言うのではない。国王の面立ちは愛想が良く、その生来の人の好さは良く知られているところである。会話の途中、国王が言葉に詰まると王妃がよく助け舟を出していた。
その後三週間で更に三度私は謁見を賜った。どの時も私は王妃の優雅さと魅力的な物腰や配慮のこもった優しさ、卓越した知性と気迫、そして通訳を介していても充分に伝わってくる話術の非凡な才に感服した。その政治的な影響力が並はずれて強いことや、国王に対しても強い影響力を行使していることなどなどは驚くまでもなかった。王妃は敵に囲まれていた。国王の父大院君を主とする敵対者たちは皆、政府要職のほぼ全てに自分の一族を就けてしまった王妃の才覚と権勢に苦々しい思いを募らせている。
王妃は毎日が闘いの日々を送っていた。魅力と深い洞察力と知恵の全てを動員して、権力を得るべく、夫と息子の尊厳と安全を守るべく、大院君を失脚させるべく闘っていた。国王の即位直後に大院君は王妃の実弟宅に時限爆弾を潜ませた美しい箱を送り、王妃の母、弟、甥をはじめ数名の人間を殺害した事実がある。大院君は王妃自身の命を狙っており、二人の間の確執は白熱の一途を辿っていた。
王家内部は分裂し、国王は心優しく温和である分性格が弱く、人の言いなりだった。そしてその傾向は王妃の影響力が強まって以来ますます激しくなっていた。最良の改革案なのに国王の意思が薄弱なために頓挫してしまったものは多い。絶対王政が立憲政治に変われば事態は大いに改善されようが、言うまでもなくそれは外国のイニシャチブの下に行われない限り成功は望むべくもない。
国王の人柄について長々と記したのは、国王が事実上朝鮮政府であるからである。それも単に名目上の首長に止まらない。成文化されているにせよ、いないにせよ、憲法がなく議会も存在しないのである以上、国王の公布した勅令以外に法律はないと言える。国王は統治者として極めて勤勉で各省庁の業務全般について熟知し、膨大な報告と建白を受け、政府の名の下に行われる全ての事柄を気に掛けている。
細部を仔細に考慮することにかけては国王の右に出る者はいないとはよく言われることである。同時に国王は全体的に物事を把握することに長けていない。あれだけ心優しい人であり、あれだけ進歩的な考えに共鳴する人なのであるから、そこに性格的な強さと知性が加わり、愚にもつかない人々の意見に簡単に流されるところがなければ名君に成り得たであろうに、その意志薄弱な性格は致命的である。」
高宗と閔妃はイザベラ・バードにイギリスでの国王と国民の関係を熱心に尋ね、閔妃はこう述べたという。
「王妃はヴィクトリア女王について語り、「あの方は望みのものをすべてお持ちです。――偉大さも冨も権力も。ご子息とお孫さんは王なり皇帝におなりだし、お嬢さまは女帝におなりです。栄光のなかにらっしゃる女王陛下に哀れな朝鮮のことをお思いくださいとお願いするのはむりでしょうね。女王陛下は世のためになることをいっぱいなさっています。立派な人生を送っていらっしゃいます。女王陛下のご長命とご繁栄をお祈りします」。……わたしがいとま乞いを告げると国王夫妻は立ち上がり、王妃とわたしは握手をかわした。夫妻からわたしは、またもどってきてもっと朝鮮を見てほしいとの思いやりあることばをたまわった。九ヶ月後わたしが朝鮮にもどったとき、王妃は惨殺されたあとで、また国王はみずからの宮殿に実質的な囚われの身となっていた。」
大院君に関しては、
「国王は43歳で、王妃はそれより少し年上だった。国王がまだ未成年で例にもれず中国式の教育を受けているうちは、国王の父であり、ある朝鮮人作家の評するところによれば「鉄のはらわたと石の心」を持つ大院君が、摂政として10年間極めて精力的に国を統治した。1866年には2000人の朝鮮人カトリック教徒を虐殺している。辣腕であり、強欲であり、悪を顧みない大院君の足跡は常に血で染まっていた。」
「わたしは宮殿で大院君に拝謁し、その表情から感じられる精気、その鋭い眼光、そして高齢であるにもかかわらず力づよいその所作に感銘を受けた。」
閔妃暗殺を聞いたイザベラ・バードは、長崎からソウルに駆けつける。
概要
「1895年10月、乙未事変の一報に接すると、閔妃に愛情を抱いていたバードは、日本の当局の妨害をものともせず、漢城に向かう。これが3度目の朝鮮訪問となった。約2か月漢城に滞在し、閔氏殺害について子細に記録した。
事件について「野蛮な殺害」、「乱暴な暗殺」、「悪魔的な殺害」と表現し、この流血の所業がソウル駐在日本公使館の手になる野蛮なクーデターであることを認めている。「キツネ狩り」という符牒のもとに実行された蛮行を現場で目撃した最初の西洋人は独立門を設計したロシア人建築家のアレクセイ・セレディン=サバチンだった。その回想によれば「乾清宮の床は20~25人の日本刀を手にした和服姿の日本人で占拠された。彼らは部屋の内外を飛び跳ねながら、女の髪をつかんでは地べたに放り投げ足蹴にしている」。彼らは閔妃を探すため、多くの宮女を殺害し、何人かの宮女が一人の貴婦人を取り囲んでいるのを見るや、それが閔妃だと決めつけ刀で斬殺した。ある者たちは閔妃の死体を凌辱し、あげくは石油で燃やしてしまった。高宗と皇太子もやはり脅迫を受けた。皇太子妃も例外ではなかった。血まみれになって引きずられた。その時のショックで得た病で数年後、夭逝する。
バードは首謀者の三浦梧楼と配下の蛮行を非難したものの、日本政府への抗議はしなかった。その後は惨劇の起きたソウルを離れ、京畿道と黄海道を経て、平壌に至る地方旅行を開始した。」(Wikipedia『朝鮮紀行』)
イザベラ・バードが見聞し『朝鮮紀行』に記した事件の顛末
「一八九五年一〇月、長崎に着いたわたしは朝鮮王妃暗殺のうわさを耳にし、駿河丸船上で、事態収拾のため急遽ソウルにもどる合衆国弁理公使シル氏からうわさの真偽を確認した。そして済物浦〈チエムルポ〉からソウルに直行し、ヒリアー氏の客としてイギリス公使館に滞在し波瀾〈はらん〉の二カ月を過ごした。」
「三浦子爵は大院君とのあいだに結んだ周知の取り決めをいよいよ決行に移すときが来ると、王宮の門のすぐ外にある兵舎に宿営している日本守備隊の指揮官に、訓練隊(教官が日本人の朝鮮人軍隊)を配置して大院君が王宮へ入るのを護衛し、また守備隊を召集してこれを助けるよう指令を出した。三浦はまたふたりの日本人に、友人を集めて大院君派の王子が当時住んでいた漢江〈ハンガン〉河畔の竜山〈ヨンサン〉へ行き、王子が王宮へ向かうのを警護するよう頼んだ。その際三浦は、二〇年間朝鮮を苦しめてきた悪弊が根絶できるかどうかは、今回の企ての成功いかんにかかっているのだと告げ、宮中に入ったら王妃を殺害せよとそそのかした。三浦の友人のひとりは非番だった日本人警察官に、私服を着て帯刀し、いっしょに大院君の住まいへ来るよう命じた。」
(ダイ将軍(アメリカ人)とサバティン氏(ロシア人)の陳述と数種の公式文書からバードが「読者の興味を引きそうな箇所」を記したもの)
「七日の朝、訓練隊は日本人教官とともに行進と反対行進を行い、王宮を包囲する形となって王宮内に不安を引き起こした。ダイ将軍とサバティン氏は八日未明に非常召集を受けた。このふたりは門のすきまから外をのぞき、月の光のなかで多数の日本人兵士が着剣して立っているのを見て、そこでなにをしているのかと尋ねたところ、兵士たちは左右に散り、物陰に隠れてしまった。塀のべつのところには二〇〇名を超す訓練隊が隠密の行動をとっていた。ふたりの外国人がどうすべきかを相談しているところへ、大門のほうからなにかを激しく連打する音が聞こえ、銃声がそれにつづいた。
ダイ将軍は侍衛隊を呼び集めようとしたが、襲撃者の群れは五、六発銃を乱射したあと、ふたりの外国人を跳ねとばさんばかりの勢いで国王の住まいを通りすぎ、後宮へと突進した。そのあとのできごとについてはこれまで明確な記述が一度としてなされたことがない。」
「一〇月八日の午前三時、彼らは王子の乗る輿を護衛しつつ竜山を出た。出発の際、仲間から信望のあつい岡本[柳之助] 氏(朝廷顧問)が全員を集め、王宮に入り次第「狐」(=閔妃)を「臨機に応じて」処分せねばならないと宣告した。」
「事件そのものは一時間ほどのできごとだった。皇太子は自分の母親が剣を持った日本人に追いかけられて廊下を駆け逃げるのを見た。また、暗殺団は王妃の住まいに殺到した。王女は上の階に数人の官女といるところを見つかり、髪をつかまれて切りつけられ、なぐられたあと階下へ突き落とされた。王妃が服を着て逃げだそうとしていたところをみると、宮内大臣李耕植〈イギヨンシク〉が危急を知らせたものらしい。暗殺団が部屋に入ると、宮内大臣は両手を広げてうしろにいる王妃をかばい守ろうとしたが、それは相手にだれが王妃かを教える結果となってしまった。両手を切り落とされさらに傷を負いながらも、彼は身を引きずるようにベランダから国王のもとへ行き、そこで失血死した。
暗殺団から逃げだした王妃は追いつかれてよろめき、絶命したかのように倒れた。が、ある報告書は、そこでやや回復し、溺愛する皇太子の安否を尋ねたところへ日本人が飛びかかり、繰り返し胸に剣を突き刺したとしている。」
つづく
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