2024年6月15日土曜日

大杉栄とその時代年表(162) 1895(明治28)年9月1日~20日 馬場孤蝶、彦根中学へ赴任 漱石、俳句に熱を入れる 一葉、随筆「そぞろごと」(『読売新聞』) 第1回救世軍集会 子規の松山での吟行始まる 一葉「にごりえ」(『文藝倶楽部』) 熱狂的称賛を受ける     

 


大杉栄とその時代年表(161) 1895(明治28)年8月27日~31日 子規と漱石の松山での52日間の共同生活(2) 台湾中部の彰化が陥落 一葉「たけくらべ」(『文学界』 5ヶ月ぶり) より続く

1895(明治28)年

9月

参謀本部、極東ロシア軍撃破のため、現有7師団を更に7師団増加、兵員を平時15万戦時60万とするべきと強調。海軍は「6・6艦隊」を主張。1万5千トン級戦艦4隻を建造し、建造中の富士級2隻と合わせて6隻とし、更に1万トン級装甲巡洋艦6隻を追加。露独仏を仮想敵とし、当時スエズ運河通行可能は1万2千トン以下で、これ以上はケープタウン経由となり、戦時の大艦増派は不可能であるため。

9月

高野岩三郎、東京帝国大学大学院に籍をおき金井延教授の指導で「労働問題を中心とする工業経済学」専攻、日本中学で西洋史・日本史・ドイツ語などを教え自活

9月

与謝野晶子(17)の歌1首、「文芸倶楽部」の「詞筵」欄に掲載。

9月

平田禿木が第一高等学校を中退し、東京師範学校英語専修科に入学

9月

ウィーン市会議員選挙。反ユダヤ・反マジャール・ハプスブルク支持・カトリック支持のカール・ルエーガー率いるキリスト教社会党92議席。他政党合計でも46。

10月29日、ルエーガー、ウィーン市長に選出。保守的宮廷人・官僚、ユダヤ人支配の財閥、貴族・富裕階層はルエーガーを忌避し、フランツ・ヨーゼフはルエーガーの市長就任を承認せず。1897年4月16日、5度目の選挙も同じ結果となり、これを承認。

9月1日

三浦梧楼駐朝公使、着任。柴四郎・月成光が同行。

9月1日

田中正造「田中正造昔話」(読売新聞連載、58回)、11/24.迄

9月1日

馬場孤蝶、彦根中学へ赴任するために東京を離れる。戸川秋骨、島崎藤村、星野夕影が箱根まで見送る。

9月5日

一葉に宛てて孤蝶より手紙。この頃から、中島歌子が神奈川の酒匂に保養に出かけたため、一葉は留守居として萩の舎に泊まることが多くなる。

9月6日

『海南新聞』に、漱石「鐘つけば銀杏ちるなり建長寺」他1句掲載される(新聞に掲げられた最初の句)。その後も続けて発表。碧梧桐宛9月7日付子規手紙に、「夏目も近來運座中の一人に相成候」とある。

秋頃 この頃から、漱石、俳句に熱を入れ、次第に俳壇に出る。松山の俳句会松風会に参加。新聞・雑誌などに俳句の選もする。

9月6日

一葉、兄虎之助に2円の援助を要請する。この頃から、毎月原稿料が入るようになっていたが、それだけでは家計を支えきれなかった。この2円は、先月末に奥田栄に支払うべき利子だった。

9月8日

一葉、大橋乙羽の依頼で、「女学雑誌」に執筆中の「十三夜」を博文館向けに変更する。

9月9日

ゴーギャン(47)、タヒチ、パペーテ到着。プナアウイアに土地を借り、家を建てさせる。 

9月16日

大山巌長女信子、三島弥太郎と正式離婚

9月16日

一葉、『読売新聞』9月16日付月曜付録に随筆「そぞろごと」(「雨の夜」「月の夜」2編)を発表。

9月17日

一葉、「女学雑誌」社の依頼を受けて書き始めた「十三夜」が成稿、事情が変わり博文館の大橋乙羽に預けられる。5日に来た孤蝶への手紙に対し、遅ればせを謝す返事を出す。

9月20日

イギリス人ライト大佐その他が、救世軍の日本伝道のため東京に来て、9月20日東京青年館(神田美土代町)で第1回救世軍集会を行う。

9月20日

子規の松山での第一回吟行。午後、極堂とともに帰郷後初めての吟行。玉川町ー石手川堤ー石手寺ー道後公園南濠に沿って日没後帰宅(当日の吟行句45句)

南無大師石手の寺よ稲の花

見あぐれば塔の高さよ秋の空

身の上や御鬮(みくじ)を引けば秋の風


9月20日

一葉、『文藝倶楽部』第9編に「にごりえ」掲載。直後から評論界に反響を呼び、熱狂的称賛を各方面から受ける。一葉は、無名の存在から文壇で注目を集める女性作家と認められるに至る。翌月、各誌が賞讃する。

「にごりえ」のモチーフとも云える、階級差別への怒りと抗議。

この冬に書かれたと推測される断片。


「かれも人也、馬車にて大路に豪奢をきそふ人あり。これも人也、夕ぐれの門にゆきゝを招きて情をうるの身あり。かれを貴也といふ、しるべからず。これを賤(いや)しといふ、しるべからず。天地は私なし、万物おのおの所に随ひておひ立ぬべきを、何物ぞはかなき階級を作りて貴賎といふ。娼婦に誠あり、貴公子にしてこれをたばからむは罪ならずや、良家の夫人にしてつまを偽る人少なからぬに、これをばうき世のならひとゆるして、一人娼婦斗(ばかり)せめをうくるは何ゆゑのあやまりならん。あはれこれをも甘じてうくれば、うき世に賤しきものゝそしりをうくるもむべなるかな」(「感想・聞書8」)


発禁の書を出した反逆者の祖父。気位たかく世俗に交わろうとしなかった職人の父。その血を受けたお力は、鋳型にはまることを嫌い、男に「持たれるは嫌なり」という自我をもつ女。貧困ゆえに身を落としたものの、世間から「自鬼」と後ろ指をさされることに苦しみ、好きな男の家庭を破滅に追いやった責任に胸を痛める。

樋口一葉『にごりえ』(青空文庫)

樋口一葉小説第十五作品「にごりえ」のあらすじ

小石川あたりの田圃を埋め立てた新開地の銘酒屋街を舞台にして、お力という美しいが何やら内面に志を秘めているらしい私娼の鬱屈した生と無残な死が描かれる。

お力の内面をくみ取ってくれるのは結城朝之助という高等遊民だが、彼にしても彼女の内面に巣くった暗い情動を全的には理解できない。

むしろお力のために家財財産を失い、妻子すら追い出してしまった源七の方がある意味では彼女のかかえこんだものを共有していたのかも知れない。

盆供養の終わったある夜、源七とお力は死に果てる。

無理とも合意とも噂はしきりだが、全てはそうした噂の中に消えていったのである。


『青年文』の田岡嶺雲と『毎日新聞』の内田魯庵をはじめとして各誌が「にごりえ」を称賛


田岡嶺雲、創刊早々の『青年文』(1巻3号)の「一葉女史」で、「大つごもり」「たけくらべ」を高く評価。田岡嶺雲は、帝国大学文科大学(現・東京大学文学部)の漢文科選科を卒業後、この年明治28年2月、山県五十雄とともに雑誌『青年文』を創刊し、社会主義的な理想を高くかかげた評論活動を展開。

田岡嶺雲の文学上の主張。

「十九世紀の所謂文明開化なる者は富者に厚きの文明也、自由の名の下に貴賎の階級を打破せりと雖も、貧富の隔絶はこれによりて益々太甚しきを加へたり。」

「今の文明は中流以上の徒を悪徳に陥(おとしい)るると共に、下流社会のものを擠(おと)して悲惨の谷に落す。」

「作家たるもの満腔の同情を彼等悲惨の運命の上に注ぎ、渾身の熱血を其腕下の筆に瀉(そそ)ぎて、彼等憫むべきの生涯を描き、彼等無告の民の為めに痛哭し、大息し、彼らに代りて何ぞ奮て天下に愬(うつた)ふるを為さざる。」(「下流の細民と文士」(「青年文」明治28・9))


「吾人は敢て此の篇を以て些(いささか)の瑕疵なしといはず、然れども作者がお力に向つて無量の同情をそそぎ、其の醜陋卑猥に包まれたる一点憐むべきの心情を、彼に代はつて発露し来りたるに向つて十二分の賞讃を作者に呈するを躊躇せず。」

「吾人は後進中に在って男作者には天外を推し、女流に在っては此作者を推す。二人は実に今日文壇の麒麟児なる哉。」(「一葉女史の『にごりえ』」(『明治評論』明治28・12))

小杉天外は、政治の裏面を暴き、その醜悪、俗物性を批判した。


内田魯庵

「『にごりえ』の作者は此売淫婦に対して無量の同情を運ぶを惜しまざりし一事にて、既に既に少からぬ感歎を受くるに足るべし。」(「一葉女史のにごりえ」『国民之友』明治28・10)


泉鏡花は、この前年に「貧民倶楽部」で下層細民への関心と権力に対する抵抗を示し、「夜行巡査」「外科室」で田岡嶺雲の絶賛を受けた。その後、脱営兵を描いた「琵琶伝」や戦地で国際的博愛を貫く日赤職長を描く「海城発電」など反戦的作品により、川上眉山「大村少尉」とともに、日清戦争後の日本文学に、基本的な性格を与える役割を果たす。


一葉の文学史上の位置づけは、文体と作品世界の古典的性格から、紅葉・露伴とともに擬古典派とされたり、『文学界』の影響から浪漫派とされたりする。しかし、文学潮流のうえでは、観念小説、深刻小説、悲惨小説といわれた川上眉山、泉鏡花、広津柳狼、小杉天外らの戦後文学の流れに位置するといえる

つづく

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