1903(明治36)年
7月11日
日本、清国に対露強硬を勧告。
7月11日
京都平安紡績の職工、積立保信金・未払給料を要求して暴動。~24日。
7月11日
甲府の草薙社製糸女工900人、監督の排斥と賃下げ反対を掲げてストライキ(妥結)。
7月12日
伊藤元老、枢密院議長就任上奏。
13日、枢密院議長就任就任。
14日、政友会総裁更迭(伊藤博文から西園寺公望へ)。
15日、西園寺は政友会在京議員総会で総裁就任演説。
①「私は私の力の有らん限りの勇を奮い、私の有らん限りの智恵を尽して之を本会に捧げ」る、
②いわゆる「策略」などということは時代遅れであり、かつ私はそういうことのできる人間ではない、と抱負を述べる。
この時、旧自由党系実力者星亨(前逓信大臣)は1901年6月暗殺されており、政友会総裁を支える最高幹部は、原敬(前逓信大臣、陸奥宗光の腹心)と西園寺のフランス留学時代の友人松田正久(前蔵相、旧自由党系)の2人の常務委員で、なかでも原敬が実権を掌握。原は、伊藤系官僚として政友会に入党したが、凡帳面さと官僚として鍛えた予算作成などの実務能力を生かし、旧自由党系等の党人派の求める鉄道建設要求などを支持し、伊藤総裁との媒介役を果たすことで、党の実権を掌握。
7月16日
ベルリン、国際通貨会議開催。
7月17日
竹山道雄、誕生。
7月18日
川上音二郎(39)・貞奴(31)、横浜・喜楽座での一座公演で「ヴェニスの商人」「サッフォー」を上演
7月19日
仏、モーリス・ギャラン、第1回ツール・ド・フランス自転車レースで優勝。
7月20日
「東亜木材会社」と韓国西北辺界鬱陵島森林監理趙性協間で土地租借契約。駐韓ロシア公使パウロフは、これを龍岩里租借協約にする企図。日本(公使林権助)の反対(機会均等の公理違反)で実現せず。
7月21日
外相小村寿太郎、駐露公使栗野慎一郎に対露交渉開始訓電。
7月21日
足尾銅山に鉱毒除外命令。
7月21日
英議会、統一党政府のウィンダム法(アイルランド土地買収法)可決。アイルランドの地主権益買収し小作農が自らの耕作地を所有。償還期間は68年6ヵ月。
7月23日
日本初のオペラ上演。グルック「オルフェオとエウリディーチェ」。柴田環。
7月26日
頭山満、近衞篤麿、神鞭知常ら、「対外硬同志会」結成。
8月9日、「対露同志会」と改称。
7月28日
小村寿太郎外相、栗野慎一郎駐露公使に、ロシアに日露交渉開始を提議するよう訓令。
「日露戦争開幕ノ合図音」(「一たび談判を開始せんとせば、戦争は最初に於て決心し置かねばならなかった」桂の述懐)。
31日ロシア外相ラムスドルフに口上書手交。
8月5日ニコライ2世の允可を得たため交渉に応じる旨、回答。
7月30日
ロシア社会民主労働党第2回大会開催(~8月23日、ブリュッセル、ロンドン)。党綱領と規約を採択。規約第1条や「イスクラ」編集部構成をめぐりレーニン・プレハーノフ(後、メンシェヴィキに移る)主導のボルシェヴィキ(「多数派」、急進主義)とマルトフ(後、プレハーノフが加わる)らのメンシェヴィキ(「少数派」、中道主義)に分裂。トロツキーはメンシェヴィキに与する。
大会期日が迫り、トロツキーらはジュネーブに移る。大会準備の主問題は規約(特に「イスクラ」とロシア国内の中央委員会との関係)。レーニンは、国外の「イスクラ」編集部が党を指導するというもの。
トロツキーはシベリア同盟から代議員に推され出席。ブリュッセルでは大会代議員全員に尾行がつき、警察からの召喚状がでる。出頭した者は24時間以内の出国申し渡し。トロツキーは出頭せずロンドンに向かう。
大会が進むにつれ、「イスクラ」主要幹部間の対立露呈(「硬派」(レーニン)と「軟派」(マルトフ)との分化)。「イスクラ」主要メンバで話し合うことになり、トロツキーが議長に選ばれる。
結局、溝は埋まらず大会は分裂。トロツキーはレーニンと袂を分かつ。古参派アクセリロートとザスーリッチを「イスクラ」編集部から排除するレーニン提案の厳格さをトロツキーは受入れられず。1904年9月トロツキー、メンシェヴィキからも離脱。
つづく
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