2025年3月31日月曜日

大杉栄とその時代年表(451) 1903(明治36)年7月11日~30日 小村寿太郎外相、栗野慎一郎駐露公使にロシアに日露交渉開始を提議するよう訓令。 「日露戦争開幕ノ合図音」(桂の述懐「一たび談判を開始せんとせば、戦争は最初に於て決心し置かねばならなかった」)。

 

栗野慎一郎

大杉栄とその時代年表(450) 1903(明治36)年7月1日~10日 「さう言はれて改めてみるせゐか、どうもやることなすことが只事でありません。何が癪に障るのか女中を迫ひ出してしまひます。私にはいよいよつらく当ります。女中は居ず、その上私は病気でふらふらしてゐるのですが、こちらもさうさう面当てがましく振る舞はれるのではたまりませんし、またそのいらいらしてゐるのを見るのが実にたまりません。しきりに里へ帰れといふことを面と向かって申しますので、私も考へました。こんなことが続いて、一層頭をいらいらさせてしまつても悪いし、万一子供にどんな危害がふりかからないものでもない。或は私が一時子供たちを連れて身を引いてゐたら、その間それだけ眼の前から邪魔者がなくなるわけで、かへつて気が鎮まるかも知れない。一先づ身を引いて様子をみよう。さう考へまして父に相談しまして、ともかく病気に逆らはないやうにして、一時子供を連れてどいてみることにいたしました。さうして七月に一旦里の父母の許へかへりました。」(『漱石の思ひ出』一九「別居」 より続く

1903(明治36)年

7月11日

日本、清国に対露強硬を勧告。

7月11日

京都平安紡績の職工、積立保信金・未払給料を要求して暴動。~24日。

7月11日

甲府の草薙社製糸女工900人、監督の排斥と賃下げ反対を掲げてストライキ(妥結)。

7月12

伊藤元老、枢密院議長就任上奏

13日、枢密院議長就任就任。

14日、政友会総裁更迭(伊藤博文から西園寺公望へ)。

15日、西園寺は政友会在京議員総会で総裁就任演説。

①「私は私の力の有らん限りの勇を奮い、私の有らん限りの智恵を尽して之を本会に捧げ」る、

②いわゆる「策略」などということは時代遅れであり、かつ私はそういうことのできる人間ではない、と抱負を述べる。

この時、旧自由党系実力者星亨(前逓信大臣)は1901年6月暗殺されており、政友会総裁を支える最高幹部は、原敬(前逓信大臣、陸奥宗光の腹心)と西園寺のフランス留学時代の友人松田正久(前蔵相、旧自由党系)の2人の常務委員で、なかでも原敬が実権を掌握。原は、伊藤系官僚として政友会に入党したが、凡帳面さと官僚として鍛えた予算作成などの実務能力を生かし、旧自由党系等の党人派の求める鉄道建設要求などを支持し、伊藤総裁との媒介役を果たすことで、党の実権を掌握。

7月16日

ベルリン、国際通貨会議開催。

7月17日

竹山道雄、誕生。

7月18日

川上音二郎(39)・貞奴(31)、横浜・喜楽座での一座公演で「ヴェニスの商人」「サッフォー」を上演

7月19日

仏、モーリス・ギャラン、第1回ツール・ド・フランス自転車レースで優勝。

7月20日

「東亜木材会社」と韓国西北辺界鬱陵島森林監理趙性協間で土地租借契約。駐韓ロシア公使パウロフは、これを龍岩里租借協約にする企図。日本(公使林権助)の反対(機会均等の公理違反)で実現せず。

7月21日

外相小村寿太郎、駐露公使栗野慎一郎に対露交渉開始訓電。

7月21日

足尾銅山に鉱毒除外命令。

7月21日

英議会、統一党政府のウィンダム法(アイルランド土地買収法)可決。アイルランドの地主権益買収し小作農が自らの耕作地を所有。償還期間は68年6ヵ月。

7月23日

日本初のオペラ上演。グルック「オルフェオとエウリディーチェ」。柴田環。

7月26

頭山満、近衞篤麿、神鞭知常ら、「対外硬同志会」結成

8月9日、「対露同志会」と改称。

7月28日

小村寿太郎外相、栗野慎一郎駐露公使に、ロシアに日露交渉開始を提議するよう訓令。

「日露戦争開幕ノ合図音」(「一たび談判を開始せんとせば、戦争は最初に於て決心し置かねばならなかった」桂の述懐)。

31日ロシア外相ラムスドルフに口上書手交。

8月5日ニコライ2世の允可を得たため交渉に応じる旨、回答。

7月30日

ロシア社会民主労働党第2回大会開催(~8月23日、ブリュッセル、ロンドン)。党綱領と規約を採択。規約第1条や「イスクラ」編集部構成をめぐりレーニン・プレハーノフ(後、メンシェヴィキに移る)主導のボルシェヴィキ(「多数派」、急進主義)とマルトフ(後、プレハーノフが加わる)らのメンシェヴィキ(「少数派」、中道主義)に分裂。トロツキーはメンシェヴィキに与する。

大会期日が迫り、トロツキーらはジュネーブに移る。大会準備の主問題は規約(特に「イスクラ」とロシア国内の中央委員会との関係)。レーニンは、国外の「イスクラ」編集部が党を指導するというもの。

トロツキーはシベリア同盟から代議員に推され出席。ブリュッセルでは大会代議員全員に尾行がつき、警察からの召喚状がでる。出頭した者は24時間以内の出国申し渡し。トロツキーは出頭せずロンドンに向かう。

大会が進むにつれ、「イスクラ」主要幹部間の対立露呈(「硬派」(レーニン)と「軟派」(マルトフ)との分化)。「イスクラ」主要メンバで話し合うことになり、トロツキーが議長に選ばれる。

結局、溝は埋まらず大会は分裂。トロツキーはレーニンと袂を分かつ。古参派アクセリロートとザスーリッチを「イスクラ」編集部から排除するレーニン提案の厳格さをトロツキーは受入れられず。1904年9月トロツキー、メンシェヴィキからも離脱。


つづく

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