2025年6月30日月曜日

「出生地主義」最高裁判断をトランプ氏称賛 司法の歯止めに懸念も(毎日) / 大統領令は今後「一時滞在者や不法滞在者の子供がアメリカで生まれても市民権を与えない」という内容 / アメリカは 1868年の憲法修正第14条以来、「出生地主義」を国の原則としてきました。 出生地主義の制限は、「移民の国」「誰にでもチャンスが与えられる開かれた国」というこのアメリカの理念とアイデンティティを、根本から揺るがすものと言えるでしょう。    

 



 

三原じゅん子大臣が国会を抜け出して「美容整形クリニック」に行っていた! 「国会周辺での待機」指示も、アンチエイジングへ(デイリー新潮)


〈記事末尾にはこうある↓〉 

後編【国会を抜け出して美容整形クリニックで3時間も… 三原じゅん子大臣の行動について24歳年下の夫を直撃すると】では、三原氏と当該クリニックの浅からぬ“関係”、そして私設秘書で24歳年下の夫・中根雄也氏に直撃した際のやりとりについて詳しく報じる。




香港「社民連」が解散発表 統制が続き、民主派政党は全て消滅へ | 毎日新聞 ; 最大の民主党も近く正式に解散を決める見通しで、民主派政党は全て消滅することになります。

英MI6の次期長官、祖父がナチスとの報道 次期長官は祖父を知らずとMI6(BBC) / ウクライナ出身の赤軍脱走兵がナチス協力者になり、ドイツ軍退却時に奇跡的に妻子と共にイギリスに脱出、その時の赤ん坊は長じて医師に、孫はMI6の歴史上初の女性長官

 

参政党の神谷 ; 秋田美人が色白なのは白系ロシア人の血が入っているから。DNAで分かると言ってる。

 

大杉栄とその時代年表(541) 1904(明治37)年10月27日~11月 第2次10月期旅順口総攻撃作戦中止  松樹山砲台、二龍山砲台、東鶏冠山北砲台の攻略ならず(戦果はP砲台占領のみ) 日本側死傷3,830(内戦死1,092)。ロシア死傷4,453(内戦死616)・不明79

 


大杉栄とその時代年表(540) 1904(明治37)年10月16日~26日 第2次10月期旅順口総攻撃 28センチ砲による激しい砲撃。ロシア軍砲台の崩壊、火薬庫の爆発などの被害が出る より続く

1904(明治37)年

10月27日

東鶏冠山北保塁坑道、日本上、ロシア下、ロシア側坑道爆破

10月27日

旅順総攻撃の右翼軍、歪頭山を占領

10月27日

ニューヨークで地下鉄開通。初日、15万人が利用。市役所前~145丁目

10月27日

ロシア艦隊がドイツから石炭供給を受けていることにイギリスが抗議。

ロシア・ドイツが対イギリス同盟関係締結の交渉を行う。ロシアが同盟国のフランスに助言を求め、交渉失敗(~11月23日)。

10月28日

清国、武昌の軍隊が科学補習所・東文講習所を捜索。

10月28日

第2軍、貔子窩を占領

10月30日

午前7時、総砲撃。

午後1時、総突撃。

同7分、第9師団第6旅団第35連隊第2大隊第5中隊(篠田次郎大尉)、P堡塁占領。松樹山堡塁へは第1師団第3連隊第2大隊第6中隊が突撃。外濠は7.5mあり埋めきれず、銃砲火の下で突撃不可能に。二龍山堡塁へは第9師団第19連隊第1大隊が向うが、外濠に架橋できず動くこともできず。東鶏冠山北堡塁へは第11師団第22連隊第2大隊第6中隊が突撃。第1~3突撃とも失敗。第44連隊第2大隊は東鶏冠山第2堡塁を目指すが、大隊長香坂仁介少佐ほか死傷者続出。東鶏冠山第1堡塁・砲台へは第12連隊が向うが、ロシア軍銃火により阻止。砲台に向った同第1大隊(児玉象一郎少佐)第1・3中隊はほぼ全滅。

午後3時10分、ロシア軍約400がP堡塁奪還出撃。

午後10時30分頃、ロシア軍約300がP堡塁を夜襲。盤龍山東堡塁にいた第6旅団長一戸少将が第7連隊第6中隊を率いP堡塁救援に突進(戦死64・負傷303)。

10月30日

大阪市安部製糸会社製糸工300人、会社解散後、清算人への不満からストライキ。

10月31日

午前8時、第3軍司令官乃木大将、第2次10月期旅順口総攻撃作戦中止決意。

松樹山砲台、二龍山砲台、東鶏冠山北砲台を攻略することができず、戦果はP砲台占領のみ。

日本側死傷3,830(内戦死1,092)。ロシア死傷4,453(内戦死616)・不明79。

10月31日

石川啄木(19)、処女詩集『あこがれ』刊行のため再上京、東京着。本郷区向ケ岡弥生町三村井方に止宿。

11月8日、神田区駿河台袋町8番地養精館に移る。

28日、牛込区砂土原町3目22番地井田芳太郎方に転居。

啄木は、盛岡中学の先輩で、この年9月仙台第二高等学校から東大文科大学言語学科に入った金田一京助を下宿の本郷区菊坂町82番地の赤心館に訪ねた。金田一京助は花明(かめい)という号を持って「明星」の同人であり、二人はしばしば与謝野家で逢うこともあり、親密に交際した。

啄木の父一禎(いってい)は渋民村の宝徳寺の住職であったが、啄木に仕送りしてやる力はなく、啄木は詩集を出版し、売文で生活する覚悟であった。

啄木の小学校時代の級友、小田島真平の長兄嘉平衛が、神田鍛冶町の大学館という出版屋に勤めていたので、上京に当って啄木は小田島真平から兄の嘉平衛宛ての紹介状をもらって行った。

啄木が小田島嘉平衛を訪ねて相談すると、小田島は、よほどの大家でないと詩集は売れないものだと言い、啄木の詩集を大学館から出版する望みのないことを説明した。

啄木は、金田一京助や同じく郷里の先輩の野村長一(おさかず)たちから金を借りてどうにか日を過していた。しかし、与謝野家の新詩社の会に出るときの彼は、仙台平の袴をはいて坐り、胸を張り、腕を組み、昂然とした態度を取っていた。ただ、彼は、東北弁が目立つのを知っていたので、その会合ではあまり口を利かなかった。

10月31日

「平民新聞」連載幸徳秋水「日記の一節」(明治37年6月~12月)のこの日付の記述。

先頃、ロシア社会民主党より捕虜への差入れとして社会主義文献数百部が送られ松山の収容所に送る。今日、在ニューヨークのロシア社会民主党幹事から同様照会があったが、今回は収容所から拒絶される、

10月31日

大蔵省、第3回国庫債券8,000万円発行。

10月31日

露ロジェストヴェンスキー中将、北海事件証人、士官4人出頭のため本国送還。

11月

上海、光復会結成(蔡元培・秋瑾・陶成章・徐錫麟ら、暗殺団母体)。

11月

黄興ら、長沙で挙兵を図って失敗。

11月

与謝野晶子「ひらきぶみ」(「明星」)。桂月の批判へ反論。

11月

吉野作造「大に黄禍論の起これかし」(「新人」)。日本が「満韓の主人」にあることの正当性。

11月

小杉未醒『陣中詩篇』

1月、「戦時画報」特派員として朝鮮半島に渡り従軍、9月に帰国。近事画報社に勤務しながら、従軍中に画帳に書きためていた詩を整理し、26編を選んで刊行。従軍し、戦場を見た人間によるリアルタイムの反戦詩。未醒の意図は「反戦」ではなかったかも知れないが、収録作品は赤十字病院を訪ねた折に作った作品や兵士らの望郷の念を読み込んだものが多い。

この詩集には自作挿絵が豊富に載せられているが、扉に掲げられた「戦後」というタイトルの絵は、戦死した兵士の死骸を喰らう狼もしくは野犬を描いたものだった。机上のィデオロギーではなく、冷徹な写実による「表現」を、この画家は持っていた。"

11月

平民新聞発行1周年記念平民絵葉書発行。

11月

平民社婦人講演会。菅谷いわ子(木下尚江妹)・寺本みち子・松岡文子(松岡荒村悟未亡人)の講演。聴衆青山学院生徒神川松子・吉崎吉子、のち入社。

11月

安部磯雄、「資本論」翻訳に専念するとして平民社から遠ざかる。

38年夏、早稲田大学野球部を率い渡米。

11月

正宗白鳥「寂寞」(「新小説」)

11月

坪内逍遙「新曲浦島」(「早稲田大学出版」) 

11月

綱島梁川「真理と人生」(「中央公論」)

11月

(漱石)

「十一月、精神状態の最も悪い時、絵具を買って来て水彩画を描く。下手で何を描いているのかよく分らない。(鏡)

十一月、帝国文学会(『帝国文学』発行所)の脚本懸質券集(締切明治三十八年二月二十八日(火))審査委貝となる。委員は、関根正直・上田万年・藤岡作太郎・大塚保治・芳英一・藤代禎輔(素人)らである。」(荒正人、前掲書)

11月

ハンガリー首相ティサ、議会と対決し、反対派を力で抑圧したため国内の危機高まる(~12月)。

11月

マックス・ウェーバー、「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の『精神』」第1章を『アルヒーフ』第20巻に発表。


つづく 


夏越の大祓 茅の輪くぐり 品濃白旗神社(横浜市戸塚区) 2025-06-30

 


2025年6月29日日曜日

京都は梅雨明け 最高気温35℃予報 鳴海餅本店で水無月(抹茶・黒糖)を 炎天下プチ散歩 佐々木酒造 二条城 神泉苑 三条商店街 2025-06-28

 6月28日(土)はれ

京都はこの日、梅雨明け。

6月の梅雨明けは初めてで、梅雨は、12日間だったか13日間だったか、二番目に短かかったそうだ。

朝から、近くの鳴海餅本店(創業明治8年)に出掛けて、6月の縁起物、水無月(抹茶と黒糖)を買ってきた。




▼京都市内あちこち歩きたいと思っていたが、なにせ最高気温35℃の予報なので、近場をサラッと歩くことにした(結果的にはほぼ2時間の散歩)

▼俳優佐々木蔵之介さんの実家、佐々木酒造

▼二条城西側を歩く


▼京都のヘソ、神泉苑


▼日光除けのアーケードに誘われて三条商店街へ。
千本通り側から堀川通側まで歩く

▼晩ゴハンは、仕出し屋さん「二和佐」さんより鱧の焼き物と仕出し弁当




参政党の神谷 ; 20隻の原子力潜水艦を作って日本防衛に当たらせる。 非核三原則に触れるなら佐渡島を独立させてその近海に配備させるんだって。



 

「出て行け」ベゾス氏結婚式に抗議 伊ベネチア(AFPBB) / ベゾスの豪華な結婚式に対して、地元住民や市民団体が掲げた抗議運動のスローガンは、No Space for Bezos (ベゾスのための場所はない)。 元祖オーバーツーリズムの街ベニスの住民は「この上、富を振りかざして私たちの街をお金持ちの遊び場にするな」と抗議。式場の変更を余儀なくされたほど。 / 専用ジェット機で世界を飛び回る超富裕層 1%は、CO2 の半分を排出。地球温暖化の主要な加害者が、よりにもよってベニス貸し切りで披露宴を上げようなんて都合よすぎ、というわけです。       

 



 

義父の17回忌のため京都へ  法事後の食事は岡崎の「六盛」で 疎水畔のアジサイ 得長寿院跡の碑 2025-06-27

 6月27日(金)はれ

この日、義父の17回忌のため京都へ。

法事後の食事は、岡崎の「六盛」で。

今シーズン初の鱧のおとしを頂いた。他に、鮎の塩焼きやジュンサイなど、美味しく頂いた。

お店が、この地の移転する際の工事で、六勝寺の「瓦留め」跡から出土した瓦が店内に展示してある。この辺りは、六勝寺(「勝」の字を持つ六つの寺の総称)の西端に当たる。

また、お店を出たところ、南側には疎水があるが、その疎水の対岸には、得長寿院跡の碑がある。得長寿院は、平清盛の父忠盛が建立寄進して、その賞により忠盛は内の昇殿を許されることになったお寺で、六勝寺の西側に隣接している。









▼お店の前の疎水とアジサイ

▼お店の対岸にある得長寿院跡の碑


大杉栄とその時代年表(540) 1904(明治37)年10月16日~26日 第2次10月期旅順口総攻撃 28センチ砲による激しい砲撃。ロシア軍砲台の崩壊、火薬庫の爆発などの被害が出る

 

王家甸南西くぼ地にある28センチ榴弾砲の試射

大杉栄とその時代年表(539) 1904(明治37)年10月7日~15日 沙河会戦の損害:ロシア41,346(うち戦死5,084)、日本24,497(4,099) より続く

1904(明治37)年

10月16日

夜、第5師団、ロシア軍の夜襲受ける。万宝山夜襲。奪回。戦死547、負傷2,387、失踪156。

その後、日本軍は後退するロシア軍を追って、沙河の線まで進出するが、弾薬不足によりそれ以上の前進は困難になる。

10月16日

『平民新聞』第49号発行

幸徳秋水「先ず政権を取れ」。普通選挙獲得運動促進。

現在社会の一切の禍根は地主資本家の階級が政治の権力を独占し、法律は彼等の利益を保護するために制定され、行政はその利益を防衛するために実施されているが故であるとし、「社会主義者は一国の政権を彼等少数階級の手より奪ふて、平等にこれを一般国民の間に分配せん」ことを主張する。そしてかくのごとき現状は、現行の選挙法が直接国税十円以上の納税を以て議員選挙権の一資格と規定しているが故であるとし、社会主義者は現行選挙法を改正して納税資格の撤廃を要求する。

もし普通選挙が実施されて一般平民ことごとく選挙権を有したならば、「少数階級を代表する議会は即ち一般平民の議会たらん、少数階級の政府は即ち一般平民の政府たらん。……既に然らば何ぞ少数階級を掃蕩絶滅して、以て光彩ある社会主義制度を実行するの難きを憂へんや。」社会主義実行の第一着手は「七首(*あいくち)に非ず、爆烈弾に非ず、叛乱に非ず、同盟罷工に非ず、ただ一般平民をして議員選挙の権利を得しむるに在り。多数職工の代表者、多数小商人の代表者、多数小作人の代表者をして彼等地主資本家の代表者と、議会壇上に並び立たしむるに在り。……」


10月16日

満州軍総司令官大山巌に勅語

10月17日

韓国、大蔵省主税局長目賀田種太郎、財政顧問着任。貨幣整理(日本の通貨体系への編入)・財政改革に着手。これまで通用していた「葉銭」を回収し第一銀行券を法定通貨とする。第一銀行漢城支店が韓国中央銀行の役割を代行、大韓国の国庫監理・通貨発券業務を行う。

他に、外交顧問ダーハム・スチーブンス(12月27日着任)、協約にない警察顧問丸山重俊(警視庁警視)、宮内府顧問加藤増雄(前駐韓公使)、軍部顧問野津鎮武中佐。

10月17日

(漱石)

「十月十七日(月)、東京帝国大学文科大学で午前十時から十二時まで King Lear を講義する。

十月十八日(火)、東京帝国大学文科大学で、午前十時から十二時まで King Lear を講義する。第四幕第三場のケント伯とリア王の娘コーデリアの侍従との対話を批評する。午後一時から三時まで「英文学概説」を講義する。」

「「此の日、英文科の大教室で盛に日露戦争の成りゆきに就いて議論を闘はしてゐた者があった。勿論是等の譲輪は日本軍の勝利に多大の歓喜を感じた者の大多数が戦争そのものゝ文化的効果をすら理論的に承認しようとするその態度に対して少数の、しかし、なかなかの論鋒の強い一團の非戦論者が堂々と舌戦の陣を張つた事にその原因を持つてゐた。」(金子健二『人間漱石』)」(荒正人、前掲書)

10月18日

満州軍総司令部は前進を中止し、沙河南岸に陣地を築いて防御体勢を固めることを決定。

同月に旅順総攻撃をひかえていた日本軍には、北部戦線に人員の補充と弾薬の補給をおこなう余力はなかった。ロシア軍の動きも止まったため、両軍は沙河をはさんで、翌年明治38年(1905年)の春まで対峙することになる。

沙河会戦において、日本軍の参加兵力は12万800人で、戦死者4,099人・戦傷者1万6,398人の損害をうけた。

一方のロシア軍は、参加兵力22万1,600人で、戦死者5,084人・戦傷者3万394人・行方不明者5,868人の損害を出しています。

日本の同盟国イギリスの新聞タイムズは、ロシア軍の失敗として、日本の第1軍最右翼に位置した本渓湖等を確保できなかったことを挙げている。

10月18日

仏領西アフリカ(ハウト、セネガル、ニジェールを結ぶ)正式発足。首都はダカール。

10月18日

グスタフ・マーラー(44)、ケルンで第5交響曲初演

10月19

大杉栄(19)、平民社を訪れ、この日も含め毎日のように手伝う。

10月19

ロシア・バルチック艦隊(太平洋第2艦隊)、大ベルト海峡入口、デンマーク領ランゲランド島出港。

20日、スカゲン岬投錨。ロジェストヴェンスキー、中将昇進入電。

21日、デンマーク西岸沖北海に出現。

20 ・沙河会戦終了。ロシア側戦死5,084、負傷30,394、失踪5,868。日本側戦死4,099、負傷16,398。

10月20

(漱石)

「十月二十日(木)、東京帝国大学文科大学で午前十時から十二時まで「英文学概説」を講義する。

十月二十二日(土)、寺田寅彦来る。ほかにも先客いる。

十月二十四日(月)、東京帝国大学文科大学で午前十時から十二時まで King Lear を講義する。

橋口貢宛に、森を背景にした裸婦の半身を描いた自筆水彩画絵葉書に発句の批評を書いて送る。

十月二十五日(火)、東京帝国大学文科大学で午前十時から十二時まで King Lear を講義する。午後一時から三時まで「英文学概説」を認識する。

寺田寅彦宛に前日の橋口貢苑と同様自筆水彩画絵葉書を送る。

十月二十七日(木)、東京帝国大学文科大学で午前十時から十二時まで「英文学概説」を講義する。

十月三十日(日)、東京帝国大学文科大学で午前十時から十二時まで King Lear を講義する。」(荒正人、前掲書)

10月20

ボリビア・チリ、講和条約調印。両国間の太平洋戦争(1879−84)正式終結。ボリビアはチリに領土を割譲、チリの太平洋沿岸地域領有確定。

10月22

北海事件(ドッガーバンク事件)

午前0時50分、北海中央部ドッガーバンク東方沖、バルチック艦隊巡洋艦アヴローラ、味方艦の砲撃により損傷。英漁船1撃沈、大破4。

パリでの国際調査委員会はロシア側に非ありとして賠償金支払いを命じる。英露関係急速悪化。艦隊の行く先常にイギリス巡洋艦の監視をうけ、妨害され、行動の制約を受ける。

10月23

第3軍司令部参謀長会議。満州軍総参謀長児玉大将の二龍山全力攻撃案と参謀次長長岡少将の203高地優先案の検討。両案とも否決され、松樹山堡塁~東鶏冠山砲台迄の東北正面全域にわたる攻撃に決定。

10月23

清国の華興会と哥老会、挙兵を図るが失敗。

10月23

田中正造(谷中村亡国民2千有余人総代5名の名で)、「志士仁人」に宛て「亡国水毒村谷中村築堤工事緊急要請書」提出。

10月23

東京に戻ってきていた佐々木喜善宅に大杉栄(19)から『平民新聞』が届く。佐々木が大杉に葉書を出す。

10月24

満州軍参謀総長児玉大将、第2回旅順口攻撃計画(広正面攻撃)の再考・修正を求める旨第3軍司令部に急電。

10月26

第2次10月期旅順口総攻撃。

総砲撃開始。

28センチ砲による激しい砲撃。これによって、ロシア軍には砲台の崩壊、火薬庫の爆発といった被害が出る。砲撃によって砲台などに打撃を与え、要塞の防衛能力をある程度削いだところで、次の攻撃を開始。

〈28センチ砲による攻撃の成果〉

・松樹山砲台に対し発射弾81発、うち命中弾47発

・二龍山砲台に対し発射弾132発、うち「最も効力ありし」命中弾21発

・東鶏冠山砲台に対し発射弾77発、うち命中弾59発

・同北砲台に対し発射弾85発、うち命中弾41発

・東鶏冠山火砲1門を破壊

・同北砲台火薬庫を爆破

10月26

華興会の黄興、上海へ脱出。

10月26

大杉栄(19)、平民社を訪れ、白柳秀湖とともに編輯を手伝う。

10月26

ロシア・バルチック艦隊、濃霧のため仏領ブレスト港寄港断念。スペイン北西岸ビーゴ港寄港。スペイン、中立違反恐れ石炭補給不許可。翌27日、許可。

28日、北海事件判明、出港延期指示、足止め。

29日、イギリス地中海艦隊巡洋艦がビゴに出現、封鎖姿勢をとる。


つづく

2025年6月28日土曜日

「公認辞退し、党の顧問に」榛葉氏の求め断った理由 山尾志桜里氏インタビュー(上)(産経); 山尾志桜里が「男性に比べ、女性に対する社会の反応の違い」を指摘したが、まさに同じ不倫でも玉木雄一郎は、代表に居続け、山尾は公認取り消し。

大杉栄とその時代年表(539) 1904(明治37)年10月7日~15日 沙河会戦の損害:ロシア41,346(うち戦死5,084)、日本24,497(4,099)

 

沙河会戦

大杉栄とその時代年表(538) 1904(明治37)年10月1日~6日 「先に政権の独占を憤ふおれる民権自由の叫びに狂せし妾は、今は赤心資本の独占に抗して、不幸なる貧者の救済に傾けるなり。妾が烏滸の譏りを忘れて、敢て半生の経歴を極めて率直に少しく隠す所なく叙せんとするは、強ちに罪滅ぼしの懺悔に代えんとには非ずして、新たに世と己れとに対して、妾のいわゆる戦いを宣言せんがためなり。」(福田英子『妾の半生涯』) より続く

1904(明治37)年

10月7日

正午、満州軍総司令部は、ロシア軍が攻勢に転じたものと判断し、当面兵力を結集し、機を見て攻勢をとる決心をし、13時、命令下令。

①第1軍は大南溝付近から烟台炭坑にわたる間に兵力を集結せよ。

②第2、4軍は、現守備線後方の極めて狭小な地域に兵力を集結せよ。

③後備歩兵第3,13旅団、砲兵第1旅団司令部及び砲兵第1連隊を総司令部の直属とする。

④第8師団は、上陸するに従い、鉄道により遼陽に前進せよ。

 

この日、第1軍司令官は、最右翼の梅沢旅団を上平台子から大岑(だいしん)、土門子岑の線に後退させ、各隊に新陣地を構成させる。

10月8日

韓国、咸鏡道で軍政施行。反日活動家が逃避し「露国党の巣窟」といわれる。

10月8日

夜半、ロシア軍(レンネンカンプ兵団)が第1軍最右翼の本渓湖を攻撃、その一部は太子河左岸に進出。本渓湖と橋頭には日本軍の多量の補給品が集積してあるが、守備兵力は微弱。

ロシア軍の本格的攻勢が始まる。(沙河会戦の始まり)

10月9日

第1軍司令部、本渓湖を守る梅沢旅団に援軍を送る。第12師団主力に本渓湖を、騎兵第2旅団に橋頭の救援を命じる。

10月9日

総参謀長山県元帥より派遣された大本営兵站総監部参謀長大島大佐が満州軍総参謀長児玉大将に北進延期裁可を伝えるが、南進するロシア軍を迎撃するのは追撃ではないとする。

午後8時、総司令官大山元帥は進撃下命。

①第1軍は、第12師団及び梅沢旅団に下右橋子付近の的を攻撃させ、軍主力は第4軍の五里台子進出に伴い前面の敵を攻撃して奉集堡に向かい前進せよ。 

②第4軍は、10日早朝行動開始、前黄花甸・孤家子付近の敵を攻撃せよ。

③第2軍は、第4軍の左翼に連携し、板橋堡・太平庄の線に向かい前進せよ。

ロシア軍の作戦は、日本軍の右翼を圧迫して、その右翼から迂回包囲をするというもの。これにたいして日本軍は、守勢の第1軍最右翼を旋回軸として攻勢に転じ、ロシア軍主力を日本軍右翼の山地方向に圧迫するという作戦をとる。

10月9日

『平民新聞』第48号発行

堺利彦「共産党宣言に就いて」

日本ではまだ訳されていない共産党宣言全文を、『平民新聞』1周年の記念として翻訳し、紙面に掲げようという。

堺によれば、「共産党宣言」と『資本論』は『平民新聞』で何度も紹介していたものの、実際にはまだ誰も読んでいなかった。1周年記念に何をするかという話が出たとき、小島龍太郎が「共産党宣言」の訳出を勧めた。そこで堺たちは1周年に当たるこの年11月13日発行の第53号を記念号とし、発行の当日には同志の小園遊会を催すことを『平民新聞』で予告した。

また、1周年記念として、社会党6偉人、マルクス、エンゲルス、ラサール、べーベル、クロボトキン、トルストイの肖像入り6枚1組の絵はがきの発行も計画され、希望者に頒布された。

10月9日

(漱石)

「十月九日(日)、橋口貢宛自筆水彩画絵葉書に、「昨日の孔雀は結樅に候僕なんかにはこんな思想は出ない」と書く。

十月十日(月)、暴風雨。東京帝国大学文科大学で午前十時から十二時まで King Lear を講義する。ヒースの荒野の場面の評釈をする。

夜、野村伝四来る。柿と林檎馳走する。『ホトトギス』(第八巻第一号十月十日発行)に、橋口五葉「はしぐち」と署名して、俳体詩「富寺」の上段二ページに挿絵が掲載される。」

「漱石・高浜虚子・野間真綱へ(奇飄)の「寺三題」と題するものである。橋口清(五葉)は、「奈良みやげ」七葉の絵を二ページに亘って載せている。高浜虚子は、橋口清(五葉)の絵を『ホトトキス』にふさわしいものとみなしたのである。」(荒正人、前掲書)

10月9日

二葉亭四迷、北豊島郡滝野川村田端に転居。

10月10日

第4軍、早朝から攻撃を開始。

12日、紅宝山の前面に達す。

10月11日

各戦線で膠着状態が続く。

10月11日

第12師団第12旅団第14連隊と後備近衛旅団(梅沢道治少将)はシベリア第1・3軍と対戦。

死傷第14連隊780・梅沢支隊391。

ロシア側被害も甚大。シベリア第3軍第6師団の場合、師団長以下将校のほぼ全員死傷。シベリア第3軍団とザバイカル騎兵師団だけで死傷4~5千。シベリア第4軍団第2師団第2旅団第8連隊は日本軍第2師団の攻撃により2/3を喪失、軍団長ザルバエフ中将は退却命令。その右翼の第10軍団第31師団もあおりを受けて後退。同軍団第9師団第2旅団は、日本軍第5師団の砲撃により、第1線の第124連隊は 将校7・下士兵250死傷。

10月11日

榎本健一、誕生。

10月11日

(漱石)

「十月十一(火)、東京帝国大学文科大学で午前十時から十二時まで King Lear を講義する。午後一時から三時まで「英文学概説」を講義する。野間真綱宛の自筆の絵葉書に俳体詩「無題」を書いて送る。

十月十三日(木)、東京帝国大学文科大学で午前十時から十二時まで「英文学概説」を講義する。『春秋左氏傳』や『史記』にも触れる。」(荒正人、前掲書)

10月11日

バルチック艦隊、レーヴェリ軍港発。

10月12日

午前1時40分、第4軍第10師団(川村景明中将)第8旅団(代理第40連隊長鎌田宣正大佐)第40・10連隊、三塊石山を夜襲(旅団長代理鎌田大佐は捻挫のため久野中佐が代理、その久野中佐は銃弾をうけ負傷)。

午前2時、第40連隊(代理第1大隊長山縣万吉少佐)は三塊石山の敵前300mに達するが、ここで頓挫。

午前4時、第10連隊が三塊石山南麓に到着。同時に支援の第20旅団(丸井少将)第39・20連隊が三塊石部落東側に到着。同士討ちを避けるためラッパを鳴らし、ロシア軍の射撃を浴びる。

午前4時20分、第40連隊第2大隊(船橋芳蔵少佐)第5・6中隊が三塊石山南側鞍部を確保。

午前4時30分、支援の後備第10旅団(門司和太郎大佐)後備歩兵第20連隊(竹下平作中佐)が東麓に到着。

午前5時、加勢を得た第10・40連隊が奮進して西南部岩山を占領。

午前6時、第20旅団第39・20連隊が三塊石村に乱入。ロシア軍の抵抗で第20旅団長丸井少将負傷、第39連隊長安村大佐戦死。

午前7時、第20・39連隊の一部が北川岩山の頂上に立ち、東北斜面のロシア軍を追払う。

午前8時、三塊石部落に放火すると、ロシア兵は退却。部落の大半を占領。

正午、占領。

三塊石山夜襲の損害戦死312、負傷1,178。夜半迄には全軍が北に退却。

沙河会戦の損害:ロシア41,346(うち戦死5,084)、日本24,497(4,099)

10月12日

第3回国庫債券8,000万円発行規定公布。利率5分。

10月12日

バルチック艦隊、ロシア最後の泊地リバウ軍港入港。

10月13日

日本軍が攻勢に転じる。

15日、日本軍第4軍が沙河河畔の丘陵である万宝山を占領

第1軍と第4軍正面の敵ロシア軍は退却を始めたが、第2軍正面のロシア軍はなお激しく反撃。

10月15日

北海道鉄道、熱郛-小沢間開通。これで函館−小樽間全通。

10月15日

バルチック艦隊(ロシア海軍軍令部長心得兼侍従将官ロジェストヴェンスキー少将)、4集団に分かれバルト海リバウ軍港発

10月中旬

(漱石)

「十月中旬か下旬(推定)、高浜虚子来る。松尾芭蕉の『猿蓑』を例に上げて「俳体詩」について語り、二人で「尼」の三分の一を一気に作る。(残りは後に高浜虚子宛に送る)(高浜虚子「平凡化された漱石」『改造』六月号 昭和二年六月一日発行)」

「「これは連句の方は意味の轉化を目的とするものであるが、十七字十四字長短二句の連続でありながら、意味の一貫したものを試みて見ようといふのが主眼であって、私もそれを漱石氏に話したところが、氏は無造作に承諾した。さうして忽ち『尼』の一篇が出来上った。」(高浜虚子『漱石氏と私』)」(荒正人、前掲書)


つづく

2025年6月27日金曜日

次期NY市長は社会主義者か ウォール街動揺(WSJ) / 「ネルソン・マンデラの言葉を借りれば、「成し遂げるまではいつも不可能に思える」のです。 友よ、終わった。そして、それを成し遂げたのはあなたたちだ。NY市長の民主党候補に指名されたことを光栄に思います」 / ウガンダ生まれのインド系イスラム教徒。 父親はコロンビア大学のポストコロニアリズム教授マフムード・マムダニ。 母親は映画『サラーム・ボンベイ!』『モンスーン・ウェディング』の監督ミーラ・ナーイル。 ウガンダ、南アフリカを経て、7歳で NYに移住したマムダニ氏は移民一世。初期のオバマや AOC に劣らない彗星のようなカリスマ性を感じさせます。           

大杉栄とその時代年表(538) 1904(明治37)年10月1日~6日 「先に政権の独占を憤ふおれる民権自由の叫びに狂せし妾は、今は赤心資本の独占に抗して、不幸なる貧者の救済に傾けるなり。妾が烏滸の譏りを忘れて、敢て半生の経歴を極めて率直に少しく隠す所なく叙せんとするは、強ちに罪滅ぼしの懺悔に代えんとには非ずして、新たに世と己れとに対して、妾のいわゆる戦いを宣言せんがためなり。」(福田英子『妾の半生涯』)

 

福田英子

大杉栄とその時代年表(537) 1904(明治37)年9月26日~30日 「これまで日本を最もよく知ってゐる外国人でも日本の底力はよく分ってゐない。攻撃に反抗する力よりも攻撃に耐へ忍ぶ力が遥かに勝つてゐるかも知れない」(ラフカディオ・ハーン「日本からの手紙」(「アトランティック・マンスリイ))」) より続く

1904(明治37)年

10月

福田英子、自叙伝『妾の半生涯』8、9歳頃から明治34(1901)年女子工芸学校・日本女子恒産会設立まで。

大井の結婚申し込みを承諾したことを「妾が終生の誤り」とする。「先に政権の独占を憤ふれる民権自由の叫びに狂せし妾は、今は赤心資本の独占に抗して、不幸なる貧者の救済に傾けるなり。」

この年中に再版、翌年には5版を重ねる。

福田英子、自叙伝『妾の半生涯』(青空文庫)

10月

大町桂月「雑評論」(「太陽」)。晶子批判、乱臣国賊呼ばわり。

「戦争を非とするもの、夙(つと)に社会主義を唱ふものゝ連中ありしが、今又之を韻文に言ひあらはしたるものあり」と、非戦、社会主義者との関連で晶子をとらえ、前掲第三連に大きな傍点までつけて引用し、「さすがに放縦にして思ひ切つた事言ふ人も、筆大にしぶりたり。されど、草葬の一女子、(義勇公に奉ずべし)とのたまへる教育勅語、さては宣戦詔勅を非議す。大胆なるわざ也」と評す。

さらに桂月は、晶子詩第二連「堺の街のあきびとの/旧家をほこるあるじにて/親の名を継ぐ君なれば/君死にたまふことなかれ/旅順の城はほろぶとも/ほろびずとても何事か/君知るべきやあきびとの/家のおきてに無かりけり」を引用し、「家が大事也、妻が大事也、国は亡びてもよし、商人は戦ふべき義務なしと云ふは、余りに大胆すぐる言葉也。」と解釈するのである。

また「明星」が裸体画で発売禁止になったことがあるが、裸体画よりも世の中を害するのは、晶子のこのような思想だと決めつけている。

10月

村井弦斎、小説『Hana』を英語で自費出版。

弦斎が日本語で執筆し、川井運吉が翻訳。浮世絵の伝統を引く精緻な木版刷の挿絵を多用した豪華な造りの本。出版の動機は、日本人の美徳を紹介し、国際世論を日本に有利に導くことを意図するものだという。

英国の有力紙「タイムズ」や権威ある雑誌「アシニアム」にも論評が掲載される。

10月

大橋光吉(大橋佐平の三女幸子と結婚)、日本葉書会を設立し、月刊『ハガキ文学』を創刊。

1906年、絵はがきの製造販売および美術書の出版を目的とした精美堂を創業。

10月

加藤高明、『東京日日新聞』買収。

10月

荒畑寒村(17)、満州軍倉庫庫手に採用され宇品~大連に赴く。荒畑の生活を心配して海岸教会長老林氏が満州軍倉庫本部陸軍主計日疋信亮に頼み込む。感冒のため帰国。12月30日解雇。

10月

ベトナムのファン・ボイ・チャウ(潘佩珠)ら、維新会結成。

10月1日

英軍、チベットから撤退。

10月1日

田添鉄二『経済進化論』発表。発禁となる。

10月1日

総参謀長山県元帥、奏上。児玉大将の辞表却下。北進延期裁可。

10月1日

政府の戦争予算に対し、教育費削減反対同盟成立。

10月1日

(漱石)

「十月一日(土)、橋口貢から、『ホトトギス』挿絵の原画送って来る。

十月三日(月)、東京帝国大学文科大学で、午前十時から十二時まで King Lear を講義する。

十月四日(火)、東京帝国大学文科大学で午前十時から十二時まで King Lear を講義する。午後一時から三時まで「英文学概説」を講義する。」(荒正人、前掲書)

10月1日

ロシア、ピアニスト、ホロヴィッツ、誕生。キエフ。

10月2日

『平民新聞』第47号発行

小田頼造・山口義三「伝道行商のために京を発するに臨みて」


「予等は……社会主義の書類を載せたる車をひきつつ旧東海道にそひて西行し、沿道大小の村落都会に於て伝道行商せんと欲す。予等は予め兼行の日数を限定せず、成るべく綿密に此主義の福音を各地に宣伝すべく、沿道の地方を去る数里の僻地と雖ももし諸君の予等を助けらるるあらば、予等は成るべく諸君を訪問して其地に伝道行商せん。此間実に多くの困難と艱苦に遭遇すべし、されど予等はこれに堪ふるの勇気を養ふと共に、諸君が予等の微力を憫(あわれ)み予等を助けて今回の行を成就せしめらるることを信ぜんと欲す。予等は貧弱なる寒生なり、従って自活の費を主義書類販売より得たる利益に求めざる可らず、諸君よ、予等が此の事実を諒とされて談話、講演、演説に将文(はたまた)書類販売に大小斡旋の労を採られよ、是れ予等の切望して止まざる所也。」


10月2日

佐々木喜善が大杉栄(19,白蒲君)に手紙を出す。この頃、大杉は「白蒲」という号を用いていた。

10月2日

ドイツ領南西アフリカ(現ナミビア)、ヘレロ人、オバンボ人、ナマ人の対ドイツ抵抗。ヘレロ族の首長が独に宣戦布告(独人入植者に土地を奪われたため1月に蜂起)。ドイツ軍最高司令官トロータ将軍、無差別殺戮指示。反乱は1907年にようやく鎮圧。

10月2日

(露暦9/19)ロシア、ガボン組合第1回総会。海員1,200人。

10月2日

オーストリア・ロシア、相互中立声明。

10月3日

東京日比谷で国民後援大会。

10月3日

フランス・スペイン協定締結。モロッコ統一と独立を公式承認。分割統治の秘密条項。地中海沿岸部はスペインの影響下に。

10月3日

トーマス・マン、カタリーナ・プリングスハイム(愛称カーチャ)婚約。翌年1月結婚。


〈この年後半の日露戦の概況〉

①10月、奉天付近の約22万人のロシア軍が攻撃に転じて南下し、遼陽付近を守る約12万人の日本軍と沙河で衝突して「沙河会戦」が起こるが、退けられる。

②旅順では日本軍が「第2次旅順総攻撃(10月度)」を開始。前回の強襲攻撃とは異なり、旅順要塞の拠点を少しずつ攻略する方針をとった日本軍は、約4千人の死傷者を出しながらも要塞の包囲網を狭める。

③ 11月、日本軍は「第3次旅順総攻撃」を行い、またもや多くの兵士の命を犠牲にしながら、旅順要塞を攻略するために必要な地点を押さえることに成功。

④翌明治38年(1905年)1月2日、ついに旅順要塞は開城、半年に及んだ旅順攻防戦は日本軍の勝利に終わる。


10月4日

ロシア軍主力が日本軍への反撃のため、奉天から南下を開始。

(クロパトキンは新たに第2軍司令官に任命されたグリッペンベルグが着任する前に戦果を得ようとした)

日本の満州軍総司令部では、遼陽北側の現陣地でロシア軍を迎え撃つか、現陣地から打って出るか意見が分かれる。

10月4日

ロシア満州軍東部兵団前進。翌日、西部兵団も前進。

10月4日

遭難したアメリカ船ベンジャミン・シオール号の船員、台湾で殺害。

12月17日 米公使抗議。

10月5日

28センチ砲12門追加

10月5日

小田野声(頼造)・山口孤剣(義三)、東京~下関、徒歩で社会主義伝道行商。翌明治38年1月25日、下関着。

社会主義協会員65人獲得、演説会・講話会18回、書類販売1,097冊。

小田は、その後、九州一円の伝道行商敢行(明治39年、伊藤證信の無我愛に共鳴、社会主義を捨てる)。

10月6日

第8師団、大連湾に上陸開始

10月6日

南方熊楠、足かけ3年の熊野植物調査を完了、勝浦を出発、途中採集をしながら田辺へ歩く。田辺定住生活始まる。

10月6日

ロシア、レーヴェリ軍港、皇帝・皇太子・皇太后、バルチック艦隊、巡視・激励。


つづく

2025年6月26日木曜日

米大手銀が共和党に歩み寄り、トランプ氏の標的回避へ(WSJ) / 関係者によれば、シティグループは21歳未満に銃器を販売する企業との取引を制限する方針を掲げていたが、これを撤回することを説明するため、今月に入りテキサス州のアボット知事と会談している。

障害者の解雇最多9千人(共同) / 「厚生労働省は25日、2024年度に勤め先から解雇された障害者が過去最多の9312人に上ったと発表した。前年度の約4倍となった。」 ← 中味を知りたい

大杉栄とその時代年表(537) 1904(明治37)年9月26日~30日 「これまで日本を最もよく知ってゐる外国人でも日本の底力はよく分ってゐない。攻撃に反抗する力よりも攻撃に耐へ忍ぶ力が遥かに勝つてゐるかも知れない」(ラフカディオ・ハーン「日本からの手紙」(「アトランティック・マンスリイ))」)

 

ラフカディオ・ハーンと妻セツ

大杉栄とその時代年表(536) 1904(明治37)年9月19日~25日 第2次旅順総攻撃(9月期)終結。 死傷4,849(内死者924)。4目標中3つを占領。 203高地撤退。死者274、傷者947。 より続く

1904(明治37)年

9月26日

ラフカディオ・ハーン(54)、狭心症のため没

前年(明治36年)春、ラフカディオ・ハーンは東京帝国大学の講座を失う(後任に夏目漱石が入る。明治36年4月)。欧米の新聞雑誌は、日本の最大の紹介者ハーンを遇する方法を日本政府は知らないと言って非難した。アメリカのコーネル大学からは1学期5,000円の報酬で講義の依頼があり、スタンフォード大学からも申込みがあった。しかし、この年、ハーンは気管を痛め少し喀血したので、旅行は見合せた。そのかわり、彼は講義の材料を書物(『日本』)にまとめることにした。それは謂わば日本の精神史と言うべきもので、家族制度、祖先崇拝など日本の固有の伝統を紹介して、仏教、儒教の伝来からキリスト教渡来の事情を述べ、更に日本の将来を論じたものであった。

この年(明治37年)春頃、『日本』の原稿がほぼ完成した頃、早稲田大学がハーンを教師として招聘しようとした。早稲田大学の講師をしていた内ケ崎作三郎は、明治31年9月~34年7月、東京帝大でハーンの講義を聴いた学生であった。ハーンが東大をやめたのち、彼が日本人の中で最も信頼していた東大法科の教授梅謙次郎博士が、彼を早稲田大学に招くようにと、学長の高田早苗に薦めていた。高田は坪内逍遥に相談してハーンを招くことに決め、内ケ崎作三郎を使いにやった。

内ケ崎作三郎は、東京帝大学生の時から、ハーンが客を好まぬことを伝え聞いていたので、私宅を訪ねた事がなかった。この時初めて内ケ崎が訪ねたハーンの西大久保の家は、古い家を買って妻の節子の案で建て増した純日本風の邸宅で、前々年の明治35年以来住んでいたもの。ハーンは彼の顔を見覚えていなかった。彼は、和服を着て座蒲団の上に正坐し、長煙管で煙草を吸いながら、懐から片目の近眼鏡を取り出して、一二度内ケ崎の顔を眺めた。

話は順調にはかどり、ハーンは早稲田大学に出講することになった。1週4時間、報酬は年2,000円であった。東京帝大では、1週12時間で、月俸450円であったから、早稲田大学の方がよい待遇であった。ハーンは早稲田大学が気に入った。

ハーンには節子との間に子供が4人あった。明治26年生れの一雄、30年生れの巌、32年生れの清、前年(36年)に生れた長女すず子であった。未のすず子が生れたとき、彼は54歳。初めての女の子を喜びながらも、自分は年をとっていてこの子の行末を見てやることが出来ないだろうと欺いて、「なんぼ私の胸痛い」と妻に言った。

彼が早稲田大学へ通い出した頃は日露戦争が始まっていたが、日本の勝利が伝えられる毎に彼は我がことのように喜んだ

彼は戦時の日本人の態度を説明した「日本からの手紙」という長いエッセイを「アトランティック・マンスリイ」に発表、その中で「これまで日本を最もよく知ってゐる外国人でも日本の底力はよく分ってゐない。攻撃に反抗する力よりも攻撃に耐へ忍ぶ力が遥かに勝つてゐるかも知れない」と述べた。

この年9月19日午後3時頃、彼は突然狭心症の発作を起したが、迎えにやった医師が到着する前に狭心症の痛みは消えた。しかし、26日、再度の発作を起こし息絶えた。

彼はアメリカにいた頃、新聞記者のかたわら、1882年に「クレオパトラの一夜、その他」を出版。以後、小説、紀行等で8冊の本を出していた。日本に来てからは、「知られざる日本の面影」(明治27年)、「東の国より」(明治28年)、「仏土の落穂」(明治30年)、「異国情趣と回顧」(明治31年)、「影」(明治32年)、「日本雑録」(明治34年)、「日本お伽噺」、「骨董」(明治35年)、「怪談」、「日本」(明治37年)等がある。

彼の父、アイルランド系軍医チャールズ・ブッシュ・ハーンは、ギリシャ在任中、ローザ・テッシマという女性と結婚して、ラフカデオを産んだが、数年後に離別した。ハーンの記憶にある母の面影は、髪が黒く小柄で、東洋の女性そっくりであった。彼が青年時代から東洋に強い関心を抱いていたのは、この母の記憶が原因であった。彼はその母の面影を小泉節子に見出した。彼は、母が父に棄てられたことを心の疵としていて、家庭を持ってからは、妻と子供を大切にし、抱え車夫を雇う時にも、妻を大切にする男であることを第一の資格とした。

ハーンの葬式は、西大久保へ移る前に住んでいた牛込区富久町の高台の家の隣にあった自証院という天台宗の寺で仏式で営まれた。この寺は通称を瘤寺と言って、ヘルンが富久町に住んでいた頃、樹木の多いこの寺は大変彼の気に入っていた。墓は、ハーンが好んで散歩した雑司ヶ谷の共同墓地に決められた。


9月26日

林董駐英公使、近いうちに韓国の外交関係引受の措置を執るべき事を英外相に申し入れ。外相諒解。

9月27日

(漱石)

「九月二十七日(火)、東京帝国大学文科大学で午前十時から十二時まで King Lear を講義する。午後一時から三時まで「英文学概説」を講義する。

九月二十八日(水)、「夏目先生のお宅へは近頃頻りに御機嫌伺ひに出掛ける三年生もあるやうだが私はとてもそんな気にはなれない。」(金子健二『人間漱石』)

九月二十九日(木)、東京帝国大学文科大学で午前十時から十二時まで「英文学概説」を講義する。

野間真綱宛葉書に、「先達の君の發句は中々面白いうまいものだちと再興してやり給へ虚子に見せたらほめた」と書き、俳体詩「富寺」を添える。夜、深江種明来て落第したと云う。

九月三十日(金)、寺田寅彦来る。大変なことができたと云って来たのに話さず帰宅する。午後、その苦情を自筆水彩画絵葉書に書いて出す。」(荒正人、前掲書)

9月28日

28 ・奉天、ロシア満州軍司令官クロパトキン大将、南進決意。

9月28日

津田梅子・大山捨松、社団法人女子英学塾理事となる。

9月28日

徴兵令改正。後備兵役5年を10年に延長。

9月28日

啄木(18)、上京に先立って北海道行。~10月19日。詩集刊行資金調達のため小樽の次姉トラ宅(夫山本千三郎は小樽中央駅駅長)等を訪問。トラが病床にあり、果たせず。

9月28日午後、渋民村発、青森県尻内に着。

29日、尻内~野辺地(下車)~青森に着。

30日、函館に着、谷地勘九郎宅に宿泊。

10月1日午後、海路小樽に向う。

2日、小樽着。北海道鉄道小樽中央駅駅長の義兄山本千三郎(姉トラの夫)宅に滞在。病気の姉の看病のかたわら、学校や小樽新聞社を見学。

10月19日、帰宅。

「生は去月末旬より三週間許り北海の秋色に旅して二三品漸く帰村した。渡島・後志(しりべし)・胆振(いぶり)の山また海、我をして送迎に遑なからしめたる蝦夷が島根の詩趣は我これを携へて、都門兄に逢ふの日の土産とせん。」(金田一京助助宛10月23日書簡)

9月29日

この日の遼陽軍司令部饗宴の席上において、鴎外は「ひくほまれ」という詩を朗読。


「勝つ我を 勝ち足らはずと

外国(とつくに)の 人は罵(の)るとふ

引く敵(あた)を いしくも引くと

外国の 人は誉むとふ

・・・

をのこわれ 豈(あに)引かめやも

罵らえつつ 勝たんとぞ思ふ

勝ち足らふまで」


鴎外が戦おうとしているのは、ロシア軍ばかりではなく、偏見を持って黄色人種の小国を眺めている欧米のジャーナリスト、黄禍論を唱える帝国主義列強の市民たちこそが、鴎外が「勝ち足らふまで」勝ちたいと思う対象であった。

9月30日

世界最大陸砲28センチ砲6門、旅順口砲撃開始

第1次総攻撃では、突撃を繰り返すという戦法によって第3軍は大きな被害を出したが、203高地を始めとする要所を攻略できなかった。今回の攻撃では、28センチ砲が新たに配備されることになった。

28センチ砲は、直径28センチの砲口から榴弾(炸裂する砲弾)を打ち出す大砲で、本来は海岸などに固定して海上の艦船を攻撃するためのものであったが、これを日本から船と鉄道を用いて戦地まで運んできて工事によって固定し、陸上の施設や部隊に対して砲撃を行うというもの。第3軍には、大砲による砲撃を主任務とする海軍部隊である「陸戦重砲隊」が参加しており、この28センチ砲による砲撃も、この部隊が陸軍の砲兵部隊と共に担っていた。

9月30日

~10月5日(露暦9/17~22)

仏、パリ、ロシア反政府・革命派会議。フィンランド積極抵抗党ジリアクスが明石元二郎大佐の資金で動く。エス・エルのチェルノーフ、アゼフら出席。明石大佐は2月よりストックホルムでロシア国内の情報収集・諜報工作に従事。


つづく

2025年6月25日水曜日

トランプ政権、DOGE主導の連邦職員解雇をひそかに撤回 再雇用に奔走(CNN)

 

玉木国民民主、ますます女性に嫌われることに、、、 ⇒ 国民・玉木代表「女性にはうちの政策は難しくて理解できない」と発言。「女性蔑視」と波紋広がる(ハフポスト) / (動画あり) / 玉木代表(英語で)「よく言われるのですが、私たちの言っていることがひじょうに複雑で、理解するのがひじょうに難しいのだそうです。私たちの政策は男性だけでなく女性にとっても良いものの筈なのですが、彼女らにとっては理解するのが非常に難しいようです」  


 《全文》

まかさ…と思って聞いてみたら、本当に言っていて驚きました。

明らかは女性蔑視発言では?こんなこと許していいはずがない。

“なぜ女性の支持率が低いのか”という質問に対する #国民民主 ・玉木代表の回答(2025/06/24日本外国特派員協会での記者会見)

「Yes, as you mentioned, from the very beginning, the establishment of our party, on September 1990, since then, unfortunately, we have not yet get the popularity rate from women. And many people say that what we are saying it’s very complicated and it’s very difficult to understand. But last year general election, 1,03 million increasing to 1.78 million. It’s easy to understand. So, I think our policy is good not only for men but also for women. But I think it’s very difficult to understand for them.」

はい、ご指摘のとおり、私たちの党の設立当初、1990年9月から、残念ながら女性からの支持率を十分に得られていません。そして多くの人が、私たちの言っていることは複雑で分かりづらいと指摘しています。

しかし、昨年の総選挙では、(所得税の課税最低限を…?)103万円から178万円に増やすと(主張しました)。これは分かりやすいです。(分かりやすくなったと言うことです…という意味か)。ですから、我々の政策は男性だけでなく女性にとっても良いものだと思っています。ただ、彼女たちにとって理解しにくいのだと思います。

56分辺りから


PRESS CONFERENCE : Yuichiro Tamaki, Leader of Democratic Party for the P... https://t.co/l6zpolRb8A @YouTubeより



 

都議選で無所属・佐藤沙織里氏35歳がまさかの初当選 都民ファ、自民候補破った「メガネ」効果(AERA);「佐藤氏は...23年には「政治家女子48党」をへて「NHK党」から千代田区議選に出馬...NHK党を出た後、政治団体「さ党」代表を名乗り、「減税」や「不法移民ゼロ」を掲げ、SNSや...」 / 都議選千代田区選挙区を制した「ユーチューバー」佐藤沙織里とは何者か?(newsweekjapan);「そうした勢い(モメンタム)に乗った上で、「日本が中国の6つ目の星になってほしくないし、アメリカの51番目の星にもなってほしくない」という「ナショナリズム」を今回の都議選では正面から出してきた」     



 

大杉栄とその時代年表(536) 1904(明治37)年9月19日~25日 第2次旅順総攻撃(9月期)終結。 死傷4,849(内死者924)。4目標中3つを占領。 203高地撤退。死者274、傷者947。

 

満洲軍総参謀長 児玉源太郎

大杉栄とその時代年表(535) 1904(明治37)年9月6日~18日 橘周太少佐を称賛する記事 「彼の軍神と称へらるゝ廣瀬海軍中佐は、其の最後の勇壮なりしが為のみにあらで、其の平素に在つて敬仰すべき事の多かりしを以て人の欣慕を受くること探し、この橘少佐も亦其の平生の性行洵に嘆美すべきもの多く、恰も陸軍に於ける鹿瀬中佐ならんと思考せらる」(教育総監部参謀柚原完蔵少佐) より続く

1904(明治37)年

9月19日

第2次旅順総攻撃(9月期)開始

攻撃目標4つ。龍眼北方保塁は第9師団第18旅団(平佐良蔵少将)、水師営第1保塁南山坡山203高地は第1師団(松村中将)。各保塁の近くまで交通壕を掘り突撃陣地を構築。

午後5時10分、水師営第1保塁に対して第1師団第2旅団(中村覚少将)第3連隊(牛島本蕃大佐)が突撃。敵塁前には落とし穴的に水をたたえた外濠(高さ2・幅5m)が構築され、飛び降りた兵士は機銃に背射され、退却。

午後5時30分、第1連隊第1大隊の突撃隊が南山坡山に突撃。突撃縦隊2組が最下段のロシア軍散兵壕に突入するも、ロシア軍の攻撃のため動けなくなる。屋根を鉄板にした掩蓋陣地のため手榴弾で破壊できず。

午後6時20分、203高地に対して後備第1旅団(友安治延少将)が突撃。ロシア軍の銃火に阻止され身を潜める状況。

その頃、龍眼北方保塁に対し第9師団第18旅団第36連隊(福谷幹雄中佐)が突撃。第2大隊が塁の一角に突入するも十字砲火の下で立ち往生。

午後7時50分、日没。

戦線は進展せず。

9月19日

ベルギー国王レオポルド2世の私有地「コンゴ自由国」、労働状態の調査及び残虐行為の申し立ての調査のため国際調査委員会設置。英からの圧力。

9月20日

午前3時、龍眼北方保塁に対して新たに投入された第19連隊第1大隊第2中隊が南側散兵壕を占領。

午前4時、第9師団第18旅団長平佐少将は突撃続行は無理と判断し現在地確保を命令、掩体構築を急ぐ。

午前5時、龍眼北方保塁のロシア軍が退却、保塁の弾薬に放火。

5時30分、第19・36連隊が突入し龍眼北方保塁は陥落。他保塁のロシア軍も後退し、午前9時~11時50分、水師営保塁群陥落

午後4時45分~5時30分、南山坡山占領

一方の203高地

午前5時、203高地に対して後備第1旅団第16(新妻英馬中佐)・15(代理戸枝百十彦少佐)連隊が突入。約300が第2線散兵壕西南角に突入。しかし、ロシア軍の銃火激しく、前進不能・増援派遣不能のまま夜を迎える。

午後9時、第15連隊が2波の突撃を敢行するが、逆襲され退却。


9月20日

田山花袋、半年ぶりに帰国の途につく。

8月15日、遼陽会戦の少し前、花袋は海城の箭楼子で発熟して倒れた。森鴎外が彼を宿舎に見舞い、軍医部に来て寝ていたらどうだ、と言ってくれたので、花袋は言われるままにそこへ行って寝ていた。熱がなかなか引かなく、チフスになる怖れがあった。鴎外がやって来て、「まだとれないかね、熟が」と言って花袋をいたわった。花袋はやがて病癒え、遼陽会戦後の9月20日、半年ぶりで帰国の途につく。

9月20日

(漱石)

「九月四日(日)、野間真綱宛葉書に、「トラホームは長い病気です然し死ぬ事はない薬なんかはあてにならない只急劇に醫して仕舞へばよろし慢性になると終(ママ)涯かゝるあぶない」と書き、「阿矢仕醫學博士」と署名する。

九月二十日(火)、東京帝国大学文科大学で午前十時から十二時まで King Lear を講義する。午後一時から三時まで「英文学概説」(英文科必須課目)を講義する。(二課目とも今年度最初の講義である)

九月二十二日(木)、東京帝国大学文科大学で午前十時から十二時まで、「英文学概説」を講義する。

この日と二十四日(土)に橋口貢宛に自筆水彩画絵葉書を送る。

九月二十六日(月)、東京帝国大学文科大学で、午前十時から十二時まで King Lear を講義する。(金子健二『人間漱石』)」(荒正人、前掲書)

9月20日

米、オハイオ州、ライト兄弟「フライヤー2世号」で1Km超える飛行成功

旋回飛行に成功し出発地点に着陸(旋回飛行の最初の記録)

9月22日

午前1時10分、ロシア軍が山上より殺到し、第16連隊長新妻中佐・第15連隊長代理戸枝少佐負傷。

午前3時、新手の後備第1連隊第2大隊と第15連隊第1大隊が突撃、失敗。

午前4時、新妻中佐・戸枝少佐負傷のため、後備第15連隊長香月三郎中佐が攻撃指揮官となる。

午前5時~5時20分、2波の突撃。失敗。攻撃中止。

午前10時、香月中佐は、これ以上の攻撃は無理と判断し、必要な命令を下し、後備第1旅団長友安少将に報告。

午後3時、第1師団長松村中将は後備第1旅団長友安少将に203高地攻撃再開命令。友安少将は香月中佐に攻撃準備命令。

午後5時、老馬家南山に到着のロシア軍野砲が203高地斜面を砲撃。日本軍死傷者続出し陣地は混乱。第1師団長松村中将は203高地攻撃を断念し、これを後備第1旅団長友安少将に退却を下命、第3軍司令官乃木大将に報告。

9月22日

満州軍総参謀長児玉大将辞意表明。山県元帥宛。

9月22日

白馬会第9回展に、青木繁「海の幸」出品。

9月22日

(露暦9/8)露、ゼムストヴォ大会ビューロー会議。第3回大会開催決定

9月23日

第2次旅順総攻撃(9月期)終結。

死傷4,849(内死者924)。4目標中3つを占領。

203高地撤退。死者274、傷者947。

9月24日

陸軍少将山本信行、旅順に戦死

9月24日

橘周太中佐の戦死の模様が伝えられる。

(見出し)「壮烈鬼神泣く」

八月三十一日深夜に首山堡の堅塁に攻め上った橘大隊は、敵の反撃にあって前進を阻まれた。「之を見し橘大隊長切歯一番自ら身を挺(ぬきん)でゝ猛進、配下を叱咤指揮し且つ阿修羅王の如く卒先勇躍濠内に飛込み、百錬の日本刀を振翳(ふりか)ざし群がる敵兵と刃々相交(あいまじえ)て瞬刻に三名を斬棄たり。配下の将卒之に感激鼓動され、『大隊長を殺すな』と絶叫しつゝ皆急潮の如く続て濠内に斬入り、遂に敵塁を奪」った。

しかし、敵はこれを奪い返そうと反撃を加えてくる。「豪胆不敵の橘大隊長は弾霰(だんせん)丸雨の底、従容迫らざる嘗て旅順の閉塞に於ける廣瀬中佐に似て、宛然(えんぜん)軍神の如く自ら創痍を包み果ては塁頭に吃立微動だも」しなかった。これを見た内田清一(記事では「内山」、実際には内田)軍曹が「危険です大隊長殿、敵は逆襲するやうです、一時退却せねは全滅です」と声を掛けたところ、彼は「部下の此う倒るゝのを見ると、己も耐へられ無い、併し軍曹考へて見よ、今日は八月三十一日で畏多くも東宮殿下の御誕生日である、此の貴とき日に部下の三分(の)一を殺し、ヤツト敵塁を奪ひながら、再び敵の十字火に葬られて之を見捨るのは、帝国軍人の面目に関するでは無いか、許せ軍曹、辛くとも己と枕を並べて戦死して呉れよ、天皇陛下の為め、帝国陸軍のために」といったという。軍曹はこれを聞いて、「感涙滂沱(ぼうだ)迸(ほとばし)つて襟(えり)に満」ちた。

しかし、この直後に橘は再び敵弾を浴びて昏倒する。内田軍曹は大隊長の体を背負って退却を図るが、さらに銃弾を浴びて橘は瀕死の状態に陥ってしまった。内田は「大隊長殿、創(きず)は浅いです、御気を確乎(たしか)に」と叫ぶが、彼は「己は最早駄目だ、是れ乃ち軍人の本分だが、唯だ多数の部下を殺したのが国家に相済まぬ、又た一度奪ひし敵塁を再び敵に取返へされたのは実に恐縮の儀で、天皇陛下に対し奉り、冥土に在りても申訳が相立たぬ」と語る。軍曹は「感極って耐る能はずワツト男泣きに泣き弾飛丸下の底、猶ほも大隊長を背負ひ双々淋漓(りんり)たる鮮血に塗(まみ)れつゝ倒れ且つ行く、千秋万古軍人の亀鑑たる真相を発揮して惨絶又た壮絶」なありさまだった。

橘大隊長には伊藤金次郎という従卒がいた。橘は彼に、吶喊の声が盛んに起こり銃声が絶えたら、いくさに勝ったのだから馬を連れて来い、もしも、銃声が絶えなければ苦戦して自分が戦死しているだろうから、屍を背負って帰れと命じたという。ところが、砲銃声が猛烈に続くため、「金次郎狂気の如く軽装急遽戦線に向つて駈出せしに」、大隊長を背負った内田軍曹と邂逅する。「一見涙を垂れ飛付きさま大隊長を己が背に移し」後方の陣地に帰るが、この時すでに大隊長の息は絶えていた。(『報知新聞』9月24日)


9月24日

堀合節子、母トキ・妹らと渋民に来り宝徳寺にこの日(24日)まで滞在。

9月25日

韓国、谷山民擾。黄海道谷山郡、京義鉄道軍役夫徴発反対。日本人7人殺害。


つづく



2025年6月24日火曜日

2割が外国籍の群馬県大泉町の町長・村山俊明 票にならなくても外国籍の住民のために奔走する理由(AERA.)/ 町長がベトナム人住民を町長室に招き「いま日本国内のあちこちで、罪を犯したベトナム人が逮捕されるニュースが相次いでいます。その影響でみんながいじめられたり、差別されたりしていることはないか? なにか困ったことがあれば町が協力するから、なんでも言ってくれ」

 

覚えておこう ⇒ 西田昌司が何を言ったか / 神谷宗幣(参政党)が何を言ったか / 参政党の神谷代表「本質的に間違っていない」 自民・西田氏の「ひめゆりの塔」巡る発言(産経)



 

都議選、政党支持率で好調の参政党 「組織は公明や共産に近い」結党時から知る渡瀬氏(産経) ; 渡瀬氏は「支部は地元民との対話など地道に活動をしている。参院選では比例代表に加え、東京選挙区(改選数6、補欠選1)といった大きな選挙区で議席を獲得する可能性はある」と話した

 

大杉栄とその時代年表(535) 1904(明治37)年9月6日~18日 橘周太少佐を称賛する記事 「彼の軍神と称へらるゝ廣瀬海軍中佐は、其の最後の勇壮なりしが為のみにあらで、其の平素に在つて敬仰すべき事の多かりしを以て人の欣慕を受くること探し、この橘少佐も亦其の平生の性行洵に嘆美すべきもの多く、恰も陸軍に於ける鹿瀬中佐ならんと思考せらる」(教育総監部参謀柚原完蔵少佐)

 

橘周太

大杉栄とその時代年表(534) 1904(明治37)年9月1日~5日 遼陽占領 日本死傷23,533(戦死5,557)旅順口第1回攻撃の1,5倍、日清戦争の全死傷者の1,7倍、陸軍史上空前の死傷者。 ロシア死傷17,912(戦死3,611)。 より続く

1904(明治37)年

9月6日

総司令官大山巌に勅語下る

9月6日

大杉栄(19)、この日から、平民社(麹町区有楽町3丁目)で『平民社』の帯封などの事務を手伝う。

9月7日

英・チベット、ラサ条約締結。ダライ・ラマは外国の介入禁止合意。露のチベット進出阻止。英は交易地獲得。清国政府は未承認。

9月8日

(露暦8/26)露、ヴィリノ県知事スヴャトボルク・ミルスキー公爵、内務大臣任命。自由主義政策「ミルスキーの春」。

9月9日

遼陽会戦で首山堡のロシア軍陣地での攻防戦を指揮して戦死した橘周太少佐(中佐に進級)を称賛する新聞記事が一斉に出る。

橘の人となりを紹介するのは、彼と特に親しかったという教育総監部参謀柚原完蔵少佐。

「彼の軍神と称へらるゝ廣瀬海軍中佐は、其の最後の勇壮なりしが為のみにあらで、其の平素に在つて敬仰すべき事の多かりしを以て人の欣慕(きんぼ)を受くること探し、この橘少佐も亦其の平生の性行洵(まこと)に嘆美すべきもの多く、恰も陸軍に於ける鹿瀬中佐ならんと思考せらる」と、柏原はいう。

廣瀬と同じように、平生模範的な軍人であった点が着目されている。

そして、「平素より常に身体を戦時的に作り居らざる可らずと謂ひ、其の主義を堅持履践し居た」例が紹介される。

冬でも沐浴は冷水で行なった。食事や衣服は質素を旨としたが、軍服だけは「常に美事なるもの」を着ていた。早起きをして「書生を対手に撃剣の稽古」をし、隊附きの際でも起床ラッパが鳴る頃には稽古場にいた。名古屋の中隊に勤務していた時には、2里(8km)を歩いて往復した、など、「軍人は常に戦場に在るの心懸ならざるべからずてふ主義を貫行する十年一日の如くなりし」様子が語られる。

また、精神においても、橘は模範的な軍人であった。東宮武官を5年間勤めたが、毎朝必ず「家人と共に尊影を遥拝し勅諭を捧読」し、隊で部下に休暇を与えるのは、常に皇室の祭祀に関する日を用い、いかなる祭祀日なのかを説いた。郷里から来た書生は、真っ先に丸の内に連れて行き、宮城を遥拝させ、一人息子は、5歳で「勅諭勅語の要領を覚え」た。このように皇室に対する深い尊崇ぶりが紹介されている。

これらは、柚原からみても「驚くの外なし」というほどの徹底ぶりであった。

橘は自分に対してだけではなく、部下に対しても「厳正にして所謂信賞必罰を旨として一歩も仮借する所」がなかった。しかし、「実は其厳正なる裡(うち)に熱き情を包めりし人にして、決して武骨一片の人」ではなかった。

名古屋地方幼年学校校長だった時には、生徒たちが常に家に遊びに来て、日曜日には座敷があふれかえるほどであった。彼はこれを喜んで、「懇切に教訓戒諭を加ふるが故に、皆其慈に懐(なつ)きて恰も父母を見るが如く」だったという。陸軍戸山学校在職中も、時には演習が終了しての帰途に、生徒たちが橘の家に寄り「食を乞ふことなどもあり、其状恰も生家に於けるが如し」であった。

廣瀬と同じように、部下とは親子のような関係であったことが強調されている。

この他に、筆まめな橘が著述した「各個教練」や「夜間戦闘演習」などが、軍隊教育に貢献したことも指摘されている(『東朝』9月9、10日)。


9月10日

韓国、大蔵省主税局目賀田種太郎、財政顧問着任。

9月11日

煙台の石炭坑を占領

9月11日

『平民新聞』第44号発行

芳岳(下中弥三郎)「悪魔萬歳!」


見よ国内の津々浦々

釣るす球灯、樹つる旌旗(せいき)

旌旗は犠牲の血の色に赤く

球灯は人魂(ひとだま)の火の如く輝やく


犠牲を送りて涙を隠せし同胞は

今や悪魔の勝利を讃美す

病死には喪服を纏うて弔し

戦死には晴衣を装うて祝す


「帝国萬歳大勝利」

何ぞ悪魔の大勝利と書かざる

「陸海軍の大捷を祝す」

何ぞ人道の滅亡と記さざる

9月11日

大杉栄(19)、平民社に平民社維持金として金1円の寄付をする。

9月12日

韓国、通信施設妨害容疑で3人の朝鮮人公開処刑。

9月14日

韓国、始興民擾。

京幾道始興郡、群集数千、京釜鉄道軍役人夫徴発反対。郡守と日本人2人殺害。

9月15日

遼陽の戦闘詳細が明らかになるにつれて、日本側は苦戦を強いられ、多くのロシア軍部隊の奉天方面への撤退を許したことがはっきりしてきた。期待されたような、日露の決着をつける戦いにはならなかった。

このために、祝捷気分よりも犠牲の大きさが、しだいに実感されるようになる。

「遼陽占領の詳報」を伝える新聞は、「敵に肉薄して銃剣突撃を為し、勇壮猛烈なる白兵戦の後一旦是れを占領したるも、遂ひに之れを守持するを得ず」とか、「敵は石を投じ擲弾を擲うちて我が兵に迫り、戦史上未だ見ざる程の悪戦を為したり、其の戦ひに於て某大隊の如きは健全なるもの将校一人のみ、他は悉く負傷若しくは戦死し」といった言葉で埋められ、「斯る激烈なる戦闘を継続すること旬余に及ぶは、世界戦史上未だ其例を見ず」と結ばれている(『報知』9月15日)。そして、新聞の紙面は、戦死した将兵の経歴や人となりを描いた記事で、連日埋められるようになる。

一方で、「非戦論者のトルストイ」や「命からがら逃延びて予定の如くと負惜(まけおし)みをあやつる敗将」、「勝に誇りて味方の死傷を忘れ一本の線香だも立てず、濫りに祝捷熱に浮かされて夢中に提灯を振舞はす連中」が、「孰(いず)れか狂にあらざる可き」と攻撃されるようになる(『東朝』9月19日)。

9月15日

イタリア、ミラノなどでで革命的サンディカリスト指導の全国的ゼネスト(~20日)。

9月中旬以降

大杉栄(19)、京橋区月島2号地11丁目7番地に転居。月島には登坂高三ら友人たちが住んでいる。

9月16日

清国、夏延義の乱、鎮圧。

9月16日

社会主義大演説会。YMCA。山口、幸徳、堺、西川、木下ら。

9月16日

大本営、参謀総長名で満州軍総司令官に対し、外国通信員の処遇に便宜を図るよう電報を打つ。

外国人特派員の従軍をなかなか認めず、本国に引き揚げたり、ロシア軍に従軍する者が続出、大統領に助ガを頼むアメリカ人記者もいた、という。

従軍後も、①戦地で戦況の公報が示されない、②通信発送の便宜が得られない、③観戦の不自由、④原稿の三重四重の検閲など、不満は絶えない。

9月16日

仏彫刻家リシエ、誕生。

9月16日

アルバート・アインシュタイン、ベルン特許局での試傭が本採用に切り替えられる。

9月18日

週刊『平民新聞』第45号発行

「自由恋愛私見」(旭山生 石川三四郎)

幸徳秋水「日露社会党の握手」

(8月14~20日、第2インター第6回アムステルダム大会。片山・プレハーノフ副議長。片山演説をローザ・ルクセンブルクがドイツ語に、ジャン・ジョレスがフランス語に翻訳)。


「記せよ、読者諸君。この握手や、是れ実に世界の社会党発達の歴史に於て、永く特筆大書せざる可らざる重大の一事実なることを。何となれば是れ単に一個の片山氏とー個のプレハーノフ氏との撞手広あらずして、実に日露両国の社会党団体が、各々その派遣せる代表者を通して公然の握手をなせるものなればなり」

「イタリー社会党の形勢」

(ボローニャ大会、改良派提出の入閣決議案否決)

9月18日

満州軍総軍参謀長児玉源太郎大将、第3軍司令部に現れる。第3軍参謀長伊地知には「何もない」と述べる。


つづく