1904(明治37)年
8月17日
この日、鴎外、張家園子に於て『黄禍』を詠う。
「勝たば黄禍/負けば野蛮/白人ばらの/えせ批判/褒(ほ)むとも誰か/よろこばん/謗(そし)るを誰か/うれふべき/(中略)/見よや黄禍/見よや野蛮/誰かささへん/そのあらび/驕者(けうしや)に酔へる/白人は/蝗(いなむし)襲う/たなつもの」
鴎外は、転戦中のこの年9月、従四位に叙せられ、11月に勲三等、瑞宝章を授けられる。
8月17日
夜、大杉栄(19)、東海道遊説の途中名古屋に立ち寄った西川光二郎を迎えて開かれた一旗亭での晩さん会に参加。他に、中京新報の中原指月、大阪朝日支局の小山松濤・結城菊吉、扶桑新聞の石巻良太、同士の小塚空谷ら。
18日、西川光二郎が午前10時半ころまで矢木宅で同志と語り、それから名古屋市内の空也養老院、清流女子学校長三浦泰一郎らを訪問し、夜は同志と懇談する。
この日、佐々木喜善宅に大杉栄(19)からの手紙(8月15日付)が届く。
19日、午後7時、南伏見町の音羽座で開かれた平民後援会。大杉栄(19)の尽力。西川光二郎、小塚空谷、中根栄、石巻良夫が登壇。参加者800名。10時散会。
8月17日
オーストリア初の労働党内閣崩壊。
8月18日
荒畑寒村(17)、横浜の海岸教会牧師館で横浜平民結社(7月25日結成)の茶話会を開く。
8月18日
境利彦の妻ミチ子、病没。
〈8月中旬~秋の日露戦の概況〉
①8月中旬、旅順港一帯に対する第3軍の総攻撃(「第1回旅順総攻撃」)が始まる。日本軍約5万人、ロシアの旅順守備部隊約4万人。日本軍は1万人以上の死傷者を出し、激しい砲撃によって多数の砲弾を消費したが、旅順要塞を陥落させることはできなかった。
②同じ頃、遼東半島中部の遼陽における「遼陽会戦」でも、日本軍約13万人の、ロシア軍約22万人が激突。
旅順攻撃に戦力の一部を割いた日本軍は、数に勝るロシア軍に対して苦戦を余儀なくされ、2万人もの死傷者を出す。一方のロシア軍も同じく約2万人の被害を出し奉天へ撤退した。 日本軍は、ロシア軍拠点の遼陽を占領できたが、ロシア軍主力部隊は逃してしまった。
こうして、翌年1月まで、日本陸軍は遼東方面と旅順方面の2か所に兵力を分散して戦う「二正面作戦」の態勢を強いられ、消耗を重ねながらロシア軍と一進一退の攻防を続けてゆく。。
この頃、ロシア帝国内では、自国の軍隊の相次ぐ敗北を告げるニュースによって、国民が動揺し始めていた。7月には、国民を弾圧していたプレーヴェ内務大臣が革命グループによって爆殺されるなど、憲法の制定や言論、信仰、集会の自由などを訴える動きが強まってくる。このような状況下で、ツァーリ政府はヴィッテを再び登用して、日本との間の講和交渉に臨むことを決める。
日本国内では、連戦連勝の報道によって国民の戦争熱が高まる一方で、戦場の苦しい実情は、情報統制がしかれたこともあり一般市民にはなかなか伝わっていなかった。激しい戦闘で多くの犠牲が出ると、勝利と戦死者の増大という矛盾に対して、国民の世論は軍部にさらなる勝利を求めて過熱してくる。
一方では、国民の声に応えて戦争に勝つために兵を募り兵器を増産しなければならず、特にアメリカやイギリスに向けた国債発行額はますます膨らんでゆく。
このように、秋頃以降の日本とロシアはそれぞれ、戦争を終えるべき理由と、戦争を続けるべき理由という、相反する2つの論理を抱えるに至った。
〈第1回旅順総攻撃の背景及び経緯概略〉
遼東半島西端にある港湾都市旅順は、この一帯を清国から「租借」していたロシアの要塞。旅順港にいるロシア艦隊(第1太平洋艦隊)は、満州で戦う日本陸軍にとって本国との連絡線である海上交通を脅かす存在。
日本海軍は、明治37年(1904年)2月から5月にかけての一連の海戦を経ても、要塞に守られている同艦隊を撃滅できなかった。そこで、陸軍が旅順を占領して第1太平洋艦隊の根拠地を奪う、という方針が実行に移される。
この旅順攻略を担当するのは、乃木希典将軍率いる日本第3軍。6月に遼東半島に上陸した第3軍は、その後1ヶ月以上かけてロシア軍の旅順要塞を取り囲み、攻撃準備を整える。 しかし、第3軍は、旅順攻略後に北進して別のロシア軍と戦うため「作戦上なるべく速かに旅順を攻略する如く計画するを要す」制約と、日本海軍の要請(新手のロシア艦隊がヨーロッパから出航する前に旅順の艦隊を撃破しなければならない)にも配慮しなければならなかった。
そこで日本軍の攻撃は8月19日、兵力不足・準備不足・敵の状況が不明なまま開始され、大きな損害を出して撃退された。
第3軍は、本来ならば旅順攻略後、北方でロシア軍と戦う満州軍の主力部隊と合流する計画になっていたが、この攻撃失敗より、日本陸軍は北の遼陽・奉天付近と南の旅順要塞とのそれぞれでロシア軍と対峙する二正面作戦を強いられることになる。
8月19日
第1回旅順口総攻撃
第1師団は右翼に後備歩兵第1旅団、中央に歩兵第1旅団、左翼に歩兵第2旅団を配置。
第1日目。
午前6時、盤龍山東堡塁を砲撃。双方で砲撃戦。
午前7時、第1師団(松村務本中将)後備歩兵第1旅団(友安治延少将)後備歩兵第15連隊(代理横山軍治少佐)が大頂子山北の122、136高地へ前進。
8時、同後備歩兵第1連隊(余語正信少佐)が大頂子山の169高地に前進。第2大隊(殿井隆興少佐)が高地西北の第1散兵壕を奪取し、第1大隊・予備隊も来着。但し169高地への突撃は頓挫(殿井少佐負傷)。
午前10時、後備歩兵第15連隊第1・2大隊が大頂子山北の122高地へ進出。
午前11時頃、日本軍の砲弾が東鶏冠山第2堡塁の火薬庫に命中。
午前11時35分、後備歩兵第15連隊第1大隊は122高地から136高地に前進。約1/3が死傷(大隊長代理戸波留郎大尉負傷)。第1師団の戦線は膠着。
午後7時、第9師団(大島久直中将)第18旅団(平佐少将)第36連隊(三原重雄大佐)が龍眼北方堡塁に前進。砲撃を受け死傷者続出、立ち往生。第36連隊第3大隊は大隊長清水少佐以下殆どが死傷、第2大隊は2/3を失う。第1大隊(予備、田中貫一少佐)は第3大隊に合流できず。
午後8時25分、第1師団歩兵第2連隊第1大隊(五十君弘太郎少佐)を大頂子山に増派するが、失敗(五十君少佐は負傷)。
20日午前5時30分、第9師団第18旅団第36連隊三原大佐は、数度にわたる塁壁爆破失敗のあと退却命令を受領するが、連隊は動けず。
第1回旅順総攻撃の日本軍死傷者1万5,860人。
8月19日
韓国閣議、条約事前協議は反対強く、これと切離して顧問制について李夏栄外部大臣・朴定陽度支相が覚書に調印。
20日、2大臣調印覚書に駐韓林公使が調印。
8月20日
韓国で一進会設立。
8月20日
第1回旅順口総攻撃第2日目。
午前6時50分、第1師団歩兵第2旅団(左翼)第2連隊が107・93高地を占領。第3連隊は水師営南方を攻めるが死傷者続出(第1大隊長鞍掛起英少佐・第3大隊岡野敏彰少佐、負傷)。
午前9時30分、後備歩兵第1旅団の大頂子山攻撃再開。後備歩兵第15連隊・歩兵第2連隊第1大隊が北から、後備歩兵第1連隊が西側の169高地を攻撃。
午後0時20分、後備歩兵第15連隊・歩兵第2連隊第1大隊が大頂上子山を占領。
午後4時、第3軍乃木大将は、予定通り21日午前4時の攻撃を下命(参謀副長大庭中佐は1日延期を進言、参謀長伊地知少将の予定通りの攻撃献言を乃木大将が容れる)。
21日午前4時、第11師団(土屋光春中将)第44連隊(石原廬大佐)第2大隊(本郷少佐)は東鶏冠山北堡塁下から突撃。本郷少佐(戦死)ら死傷者続出。第1大隊(吉永狂義少佐)は東鶏冠山第2堡塁を攻撃。
4時20分、ロシア兵は第2砲台へ退却。但し、第1大隊も吉永少佐、代わった大久保猪之助大尉も戦死し生存者は僅少となる。
5時、第9師団第7連隊(大内大佐)第1大隊(佐久間金吾少佐)、続いて第3大隊(広中俊実少佐)が盤龍山東堡塁に突撃。両少佐はじめ大半が死傷。
5時50分、第2大隊(吉田為次郎少佐)が盤龍山独立堡塁に突撃。吉田少佐は戦死し残兵僅かとなる。最後に大内連隊長直率の突撃で大内大佐ら将校ほぼ全員死傷。第3大隊長広中中佐が残兵100余を地隙内に糾合。
6時10分、第6旅団(一戸少将)が第7連隊後方600mに進出。第35連隊(折下勝造中佐)第1大隊(中西俊豪少佐)が第7連隊第1・3大隊残兵のいる地点まで到達。
6時30分、第11師団司令部(大孤山麓)の砲弾落下、参謀堀田祐之助大尉戦死。
午前8時、第44連隊第1大隊が占領した東鶏冠山第2堡塁に対して、ロシア兵1個中隊が奪還攻撃。大隊長代理鈴木信之介大尉は退却決意。第9師団第6旅団第35連隊第3大隊は第1大隊と同じルートを選び壊滅状態となる。
つづく

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