2025年6月25日水曜日

大杉栄とその時代年表(536) 1904(明治37)年9月19日~25日 第2次旅順総攻撃(9月期)終結。 死傷4,849(内死者924)。4目標中3つを占領。 203高地撤退。死者274、傷者947。

 

満洲軍総参謀長 児玉源太郎

大杉栄とその時代年表(535) 1904(明治37)年9月6日~18日 橘周太少佐を称賛する記事 「彼の軍神と称へらるゝ廣瀬海軍中佐は、其の最後の勇壮なりしが為のみにあらで、其の平素に在つて敬仰すべき事の多かりしを以て人の欣慕を受くること探し、この橘少佐も亦其の平生の性行洵に嘆美すべきもの多く、恰も陸軍に於ける鹿瀬中佐ならんと思考せらる」(教育総監部参謀柚原完蔵少佐) より続く

1904(明治37)年

9月19日

第2次旅順総攻撃(9月期)開始

攻撃目標4つ。龍眼北方保塁は第9師団第18旅団(平佐良蔵少将)、水師営第1保塁南山坡山203高地は第1師団(松村中将)。各保塁の近くまで交通壕を掘り突撃陣地を構築。

午後5時10分、水師営第1保塁に対して第1師団第2旅団(中村覚少将)第3連隊(牛島本蕃大佐)が突撃。敵塁前には落とし穴的に水をたたえた外濠(高さ2・幅5m)が構築され、飛び降りた兵士は機銃に背射され、退却。

午後5時30分、第1連隊第1大隊の突撃隊が南山坡山に突撃。突撃縦隊2組が最下段のロシア軍散兵壕に突入するも、ロシア軍の攻撃のため動けなくなる。屋根を鉄板にした掩蓋陣地のため手榴弾で破壊できず。

午後6時20分、203高地に対して後備第1旅団(友安治延少将)が突撃。ロシア軍の銃火に阻止され身を潜める状況。

その頃、龍眼北方保塁に対し第9師団第18旅団第36連隊(福谷幹雄中佐)が突撃。第2大隊が塁の一角に突入するも十字砲火の下で立ち往生。

午後7時50分、日没。

戦線は進展せず。

9月19日

ベルギー国王レオポルド2世の私有地「コンゴ自由国」、労働状態の調査及び残虐行為の申し立ての調査のため国際調査委員会設置。英からの圧力。

9月20日

午前3時、龍眼北方保塁に対して新たに投入された第19連隊第1大隊第2中隊が南側散兵壕を占領。

午前4時、第9師団第18旅団長平佐少将は突撃続行は無理と判断し現在地確保を命令、掩体構築を急ぐ。

午前5時、龍眼北方保塁のロシア軍が退却、保塁の弾薬に放火。

5時30分、第19・36連隊が突入し龍眼北方保塁は陥落。他保塁のロシア軍も後退し、午前9時~11時50分、水師営保塁群陥落

午後4時45分~5時30分、南山坡山占領

一方の203高地

午前5時、203高地に対して後備第1旅団第16(新妻英馬中佐)・15(代理戸枝百十彦少佐)連隊が突入。約300が第2線散兵壕西南角に突入。しかし、ロシア軍の銃火激しく、前進不能・増援派遣不能のまま夜を迎える。

午後9時、第15連隊が2波の突撃を敢行するが、逆襲され退却。


9月20日

田山花袋、半年ぶりに帰国の途につく。

8月15日、遼陽会戦の少し前、花袋は海城の箭楼子で発熟して倒れた。森鴎外が彼を宿舎に見舞い、軍医部に来て寝ていたらどうだ、と言ってくれたので、花袋は言われるままにそこへ行って寝ていた。熱がなかなか引かなく、チフスになる怖れがあった。鴎外がやって来て、「まだとれないかね、熟が」と言って花袋をいたわった。花袋はやがて病癒え、遼陽会戦後の9月20日、半年ぶりで帰国の途につく。

9月20日

(漱石)

「九月四日(日)、野間真綱宛葉書に、「トラホームは長い病気です然し死ぬ事はない薬なんかはあてにならない只急劇に醫して仕舞へばよろし慢性になると終(ママ)涯かゝるあぶない」と書き、「阿矢仕醫學博士」と署名する。

九月二十日(火)、東京帝国大学文科大学で午前十時から十二時まで King Lear を講義する。午後一時から三時まで「英文学概説」(英文科必須課目)を講義する。(二課目とも今年度最初の講義である)

九月二十二日(木)、東京帝国大学文科大学で午前十時から十二時まで、「英文学概説」を講義する。

この日と二十四日(土)に橋口貢宛に自筆水彩画絵葉書を送る。

九月二十六日(月)、東京帝国大学文科大学で、午前十時から十二時まで King Lear を講義する。(金子健二『人間漱石』)」(荒正人、前掲書)

9月20日

米、オハイオ州、ライト兄弟「フライヤー2世号」で1Km超える飛行成功

旋回飛行に成功し出発地点に着陸(旋回飛行の最初の記録)

9月22日

午前1時10分、ロシア軍が山上より殺到し、第16連隊長新妻中佐・第15連隊長代理戸枝少佐負傷。

午前3時、新手の後備第1連隊第2大隊と第15連隊第1大隊が突撃、失敗。

午前4時、新妻中佐・戸枝少佐負傷のため、後備第15連隊長香月三郎中佐が攻撃指揮官となる。

午前5時~5時20分、2波の突撃。失敗。攻撃中止。

午前10時、香月中佐は、これ以上の攻撃は無理と判断し、必要な命令を下し、後備第1旅団長友安少将に報告。

午後3時、第1師団長松村中将は後備第1旅団長友安少将に203高地攻撃再開命令。友安少将は香月中佐に攻撃準備命令。

午後5時、老馬家南山に到着のロシア軍野砲が203高地斜面を砲撃。日本軍死傷者続出し陣地は混乱。第1師団長松村中将は203高地攻撃を断念し、これを後備第1旅団長友安少将に退却を下命、第3軍司令官乃木大将に報告。

9月22日

満州軍総参謀長児玉大将辞意表明。山県元帥宛。

9月22日

白馬会第9回展に、青木繁「海の幸」出品。

9月22日

(露暦9/8)露、ゼムストヴォ大会ビューロー会議。第3回大会開催決定

9月23日

第2次旅順総攻撃(9月期)終結。

死傷4,849(内死者924)。4目標中3つを占領。

203高地撤退。死者274、傷者947。

9月24日

陸軍少将山本信行、旅順に戦死

9月24日

橘周太中佐の戦死の模様が伝えられる。

(見出し)「壮烈鬼神泣く」

八月三十一日深夜に首山堡の堅塁に攻め上った橘大隊は、敵の反撃にあって前進を阻まれた。「之を見し橘大隊長切歯一番自ら身を挺(ぬきん)でゝ猛進、配下を叱咤指揮し且つ阿修羅王の如く卒先勇躍濠内に飛込み、百錬の日本刀を振翳(ふりか)ざし群がる敵兵と刃々相交(あいまじえ)て瞬刻に三名を斬棄たり。配下の将卒之に感激鼓動され、『大隊長を殺すな』と絶叫しつゝ皆急潮の如く続て濠内に斬入り、遂に敵塁を奪」った。

しかし、敵はこれを奪い返そうと反撃を加えてくる。「豪胆不敵の橘大隊長は弾霰(だんせん)丸雨の底、従容迫らざる嘗て旅順の閉塞に於ける廣瀬中佐に似て、宛然(えんぜん)軍神の如く自ら創痍を包み果ては塁頭に吃立微動だも」しなかった。これを見た内田清一(記事では「内山」、実際には内田)軍曹が「危険です大隊長殿、敵は逆襲するやうです、一時退却せねは全滅です」と声を掛けたところ、彼は「部下の此う倒るゝのを見ると、己も耐へられ無い、併し軍曹考へて見よ、今日は八月三十一日で畏多くも東宮殿下の御誕生日である、此の貴とき日に部下の三分(の)一を殺し、ヤツト敵塁を奪ひながら、再び敵の十字火に葬られて之を見捨るのは、帝国軍人の面目に関するでは無いか、許せ軍曹、辛くとも己と枕を並べて戦死して呉れよ、天皇陛下の為め、帝国陸軍のために」といったという。軍曹はこれを聞いて、「感涙滂沱(ぼうだ)迸(ほとばし)つて襟(えり)に満」ちた。

しかし、この直後に橘は再び敵弾を浴びて昏倒する。内田軍曹は大隊長の体を背負って退却を図るが、さらに銃弾を浴びて橘は瀕死の状態に陥ってしまった。内田は「大隊長殿、創(きず)は浅いです、御気を確乎(たしか)に」と叫ぶが、彼は「己は最早駄目だ、是れ乃ち軍人の本分だが、唯だ多数の部下を殺したのが国家に相済まぬ、又た一度奪ひし敵塁を再び敵に取返へされたのは実に恐縮の儀で、天皇陛下に対し奉り、冥土に在りても申訳が相立たぬ」と語る。軍曹は「感極って耐る能はずワツト男泣きに泣き弾飛丸下の底、猶ほも大隊長を背負ひ双々淋漓(りんり)たる鮮血に塗(まみ)れつゝ倒れ且つ行く、千秋万古軍人の亀鑑たる真相を発揮して惨絶又た壮絶」なありさまだった。

橘大隊長には伊藤金次郎という従卒がいた。橘は彼に、吶喊の声が盛んに起こり銃声が絶えたら、いくさに勝ったのだから馬を連れて来い、もしも、銃声が絶えなければ苦戦して自分が戦死しているだろうから、屍を背負って帰れと命じたという。ところが、砲銃声が猛烈に続くため、「金次郎狂気の如く軽装急遽戦線に向つて駈出せしに」、大隊長を背負った内田軍曹と邂逅する。「一見涙を垂れ飛付きさま大隊長を己が背に移し」後方の陣地に帰るが、この時すでに大隊長の息は絶えていた。(『報知新聞』9月24日)


9月24日

堀合節子、母トキ・妹らと渋民に来り宝徳寺にこの日(24日)まで滞在。

9月25日

韓国、谷山民擾。黄海道谷山郡、京義鉄道軍役夫徴発反対。日本人7人殺害。


つづく



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