1904(明治37)年
7月
韓国、「大韓毎日申報」発刊。社長イギリス人トーマス・べセル(ロンドン・デーリー・ニューズ社特派員)。主筆朴殷植(1898(明治31)年5月創刊「皇城新聞」主筆)・申采浩(歴史学者)。反日キャンペーン、国民啓発の論陣。
明治41(1808)年6月、イギリス総領事は上海で領事裁判、べセルの禁固3週間判決。
7月
小村外相、戦後処理方針進言。満・韓・沿海州の利権拡張、韓国保護国化。
7月
『新人』(海老名弾正)7月号社説「朝鮮民族の運命を観じて日韓合同を奨説す」
「世界の大勢に鑑み、隣邦の盛衰を思ひ、民族本来の特質を考へ」て韓国は日本と合同するかロシアと合同するか、二つに一つを選ばなければならぬ運命にある。またそうしなければ、朝鮮はいつまでも禍根となって東洋平和に害がある。世に属国ほど憐れむべきものはない。属国たらんよりほむしろ滅亡するに如かず、また保護国となるのも決して名誉のことでないのは、保護国とは畢竟体裁のいい属国にほかならないからである。
よって、韓国には合同の途を「奨説」する。そして「韓人の合同すべき民族が日本たることは火を見るよりも明らかなり」という所以は、ロシアと合同することは実は併合されることであって、ロシアという国は決して異民族を対等に扱うものではないからである。ユダヤ人の虐待を見ても、ポーランドの圧制に徴しても、スラブ民族の他民族に対する政策は明らかで、ロシアとの合同は名ばかりで実は併呑であり隷属にはかならない。
「日本民族より見れば、韓国民と合同することは或はその光栄とする所に非ざるペし。故に日本人の未だ発せざるに先だち、東洋平和の大義に基づきこの合同を日本人に迫らば、日本人もこれを辞するの言葉なからん。」
(朝鮮との合同は日本にとってはむしろ有難迷惑だが、ぜひ頼むというならば已むを得ないから合同してやろう、だからお前達の方から合同して下さいと頼めと、韓国の朝野に忠告している)
7月
(漱石)
「七月頃(推定)(日不詳)、橋口貢の弟橋口清(五葉 東京美術学校三年生)と交渉始る。」
「橋口清(五葉)宛の最初の自筆水彩画に、「繪はがきを難有/あの色が非常に気に入つたが全體あれは何の繪ですか一寸見當がつかない/是は久し振でかいたら無暗にきたなくなつた夜だが晝だか分らないから(春日影)とかいた」(七月〔?〕(小宮豊隆推定)」(荒正人、前掲書)
「七月、この頃、来学年度の講義に悩む。「来年の談義を一人苦しがり」と詠む。
七月(推定)、中根倫来て、第六高等学校に入学したから、学資を出して欲しいとのことである。直ちに承諾する。(中根倫談・森田草平筆録)
七月(日不詳)、高浜虚子が「連句を変化さした一新詩體」を提案し、「俳體詩」と呼ぶこととする。「送別」を書いて高浜虚子宛に送る。
七月(日不詳)、坂本四方太(四方太)を訪ねる。サイホンラムネを飲む。坂本四方太、桃を食べる。お互いに愚癖こぼし、別れる。(推定)
「俳體詩いまだ出来ぬにや」と高浜虚子宛に俳体詩「無題」送る。
七月(小宮豊隆推定)(日不詳)、高浜虚子の許で、俳体詩「無題」。高浜虚子とともに詠む。」(荒正人、前掲書)
7月
ガルシン、二葉亭四迷訳「四日間」(「新小説」)7
7月
「明星」7月号
石上露子(いそのかみつゆこ、筆名ゆふちどり)
「みいくさにこよひ誰が死ぬさびしみと髪ふく風の行方見まもる」と詠む。
平出修は「最近の短歌」(「明星」8月号)でこれを絶賛。"
7月
大塚甲山「今はの写しゑ」など詩4編『新小説』(「写しゑ」は写真のこと)
「あはれやのこる妻と子は、
モスクワあたりの夕間暮(ゆうまぐれ)、
人の失せしも知らずして、
恙(つつが)なかれと祈るらん。
世界の人のやすらぎを、
みだすはげにや筒の声、-
為すまじきものはいくさなり、
為すまじきものはいくさ也。」
だが、この詩には、戦闘の光景を叙して、
「勇み勇める日の本の、
ますら猛男の累々と、
たふるる友を踏み越えて、
躍り入るなり敵の陣。」
などといった言葉も見られ、反戦思想を込めて作った筈の甲山の詩は、皮肉にも「提灯行列的軍歌」と揶揄されたりした。
そもそも反戦を唱えるのに、日本人の問題ではなくて、敵国であるロシア側の厭戦的事情をもって表現しようという辺り、すでに腰が退けていた。
大塚甲山;
青森出身。はじめ正岡子規に影響されて俳句を作っていたが、明治30年頃から新体詩に手を染めた。37年2月、「平民新聞」の非戦論を読んで驚愕し、5月に社会主義協会に加盟。
この月、坪内逍遥の周旋によって、「新小説」に4編の詩を発表。「今はの写しゑ」は4月30日の鴨緑江での砲撃戦を詠ったもの。この戦闘で、日本軍1万8千は鴨緑江を渡って進軍。九連城要塞に立てこもるロシア軍は、日本軍の猛攻の前に敗走。
この時、ロシア語を解する井上健吉少尉が、重傷を負って自軍から打ち捨てられていたロシア軍将校を介抱し、自分の水筒に残っていた乏しい水を飲ませてやった。将校は感謝し、身につけていた家族の写真を井上に託し、まもなく息を引き取った。
この逸話は、戦争雑誌や新聞がしきりに「美談」として取り上げていたものだったが、それを甲山は反戦詩に仕立てた(直接的には「国民新聞」明治37年5月15日付に掲載された特派員梅田某の従軍記事「激戦余話」に依っているといわれる)。
7月
有島武郎、フランクフォールトのクウェーカー派精神病院で看護夫となる。
9月、ハーバード大学入学。
7月初旬
「七月初旬(日不詳)、東京帝国大学文科大学構内山上御殿で行われた成績会議に出席する。厨川辰夫を優等生に推薦し、通過する。」(荒正人、前掲書)
7月1日
タバコ専売法、公布。「大和」「スター」など。煙草専売法施行により、村井兄弟商会京都工場、専売局煙草製造所となる。
7月1日
第3回近代五輪、ミズーリ州セントルイスで開催。~8月29日。
7月1日
ケンタッキー州、白人・黒人双方の就学を認める教育機関に罰金1000ドルを科す法案可決.
7月2日
朝鮮駐剳軍司令官「軍律」、制定。軍用電線・軍用鉄道に危害を加える者、その者を隠匿するものは死刑。
9日、電信・鉄道以外の軍用営造物・武器弾薬の破壊者にも適用。
明治37(1904)年7月~39(1906)年10月、軍律処分:死刑35、監禁・拘留46、追放2、笞刑100、過料74。
7月2日
鉄幹・晶子に次男秀(しげる)誕生。命名薄田泣菫。
7月2日
(漱石)
「七月二日(土)、夜、寺田寅彦来て、新体詩の批評などする。野間真綱来る。島津家の家庭教師を退めたいので誰か代理を探して欲しいと依頼される。
七月三日(日)、湯浅廉孫来る、島津家の家庭教師の件を伝えると代行したいと云う。野間真綱にすぐ依頼の件を伝え、以前から注文されていた自筆水彩絵葉書を同封して送る。」(荒正人、前掲書)
7月2日
フィリピン、国内歳入法制定。
7月3日
『平民新聞』第34号発行
「世界之新聞」欄は、数日前の『萬朝報』がドイツ社会党首領べーベルの演説中に、「もしわが国がロシアと戦うような事があれば、わが社会民主党は喜んで戦線に立つであろう。なぜなら、ロシアの専制政治こそわが社会民主党が撲滅しようと努力しているものだからである」といった一節を取上げて、いかにも社会主義者の主戦論なるかのごとく報じたのを反駁。
フランス社会党ジョーレス・ドイツ社会党べーベルともに、それぞれの政府が暗にロシアを援けて極東の戦争に介入し、火中に粟を拾わんとするの危険を攻撃しているのである。べーベルの言のごときは畢竟これ、ロシアおよびドイツ政府の好戦的政策を非難痛罵せる激語に過ぎない、これを以て社会主義者の主戦論となすがごときは笑うべき短見であると論じた。そしてオランダ社会党の名士ニューエンヒュースが日露戦争について、「この戦争における最大害悪はロシアの勝利である。ロシアの勝利は全世界に保守反動的気風を漲(みなぎ)らすに至るであろう、吾人はぜひともロシアの権力を亡ぼさなければならぬ。故に吾人は、日本がこの戦争を起した動機の賤(いや)しくして全く商業的利害にもとづくことを知ってはいるが、日本もしこの戦勝を得たならば彼は知らず識らずの間に、人道のために功徳を樹つることとなり、害悪もまた多少の善をもたらすであろう」といった言を引用して、彼等はただその結果から推してしばらくは日本の勝利を望むに過ぎないと記した。
7月4日
4月26日設立の天津電車電灯公司、ベルギーが請け負う。
7月5日
東清鉄道の軌間改築の提理部員、大連着。
先に「佐渡丸」で輸送途上、ウラジオ艦隊に襲撃され部員148名没。15日迄に、青泥窪~南関嶺18kmと南関嶺から旅順への4.8kmが改築完了。以降、作戦軍の後を追って改修進む。
7月1日、人員を補充して再挙、佐渡丸の姉妹船丹波丸で門司を出航。
2日夕刻、朝鮮半島の海岸で坐礁した薩摩丸を発見、乗船の後備歩兵第29連隊の救助にあたったが、濃霧と強風のためはかばかしくなく、翌朝、救助を後続船に依頼し大連にむかう。
4日午後、張家屯の泊地に停船。
5日、軍艦筑紫に誘導されて大連湾に入る。
つづく

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