2025年6月23日月曜日

大杉栄とその時代年表(534) 1904(明治37)年9月1日~5日 遼陽占領 日本死傷23,533(戦死5,557)旅順口第1回攻撃の1,5倍、日清戦争の全死傷者の1,7倍、陸軍史上空前の死傷者。 ロシア死傷17,912(戦死3,611)。

 

遼陽会戦

大杉栄とその時代年表(533) 1904(明治37)年9月1日 与謝野晶子「君死にたまふことなかれ」(旅順口包囲軍の中に在る弟を歎きて)(「明星」)  大町桂月が、「太陽」(10月号)で「国家観念を藐視にしたる危険なる思想の発現なり」と非難 晶子は「明星」(11月号)に「ひらきぶみ」と題し反論、、、 より続く

1904(明治37)年

9月1日

我が軍が「能く彼の退路を拒し、普軍がセダンを包囲したるが如く、能く遼陽を包囲し得」れば、これを日露の「最後の大決戦」にすることができるという(『東朝』9月1日)

9月1日

この日、2ページの旅順攻防戦付録を出した「大阪朝日」、軍の方針に反したとして、発行人・編輯人が大阪地裁から罰金夫々30円に処せられる。旅順攻防戦は、8月19日の総攻撃から12月8日まで、詳しい記事は禁止される。

9月1日

私立京都法政専門学校、私立京都法政大学と改称認可。立命館大学の前身。

9月2日

ロシア満州軍、遼陽から奉天へ撤退決定。

9月2日

東京市街鉄道、遼陽開戦の祝勝のイルミネーション電車を運転。市民に人気。

9月2日

石川三四郎(28)、小田原海岸の加藤病院に入院。

10日、箱根大平台林泉寺に内山愚堂を訪ね小集会。12日帰京。

9月3

午前11時20分、遼陽停車場付近に大火災(撤退の表象)。各師団、前進開始。第4軍は砲弾不足で苦戦。

午後7時30分、日没とともにロシア軍退却開始

午後9時30分、第10師団第20連隊第3大隊、遼陽小南門に到着。一番乗りは第3大隊に同行した第2大隊所属福井新太郎伍長。

9月3

「此の一大戦(遼陽の戦い)」は「実に我が国に取て振古未曾有」であり、「国家の栄辱安危一に茲に繋(かか)る」ものである。もしも敗北すれば、「我が軍隊の威厳を失墜する」だけではなく、「我が国命を危くするに至る」だろう。だから、この戦いは、「我が史上第一の大戦にして、天下の形勢を一定したる」関ケ原の役に匹敵する意義を持つという(『萬』9月3日)。

9月3

「遼陽占領」が報じられ、日本中が沸き立つ。

東京では「遼陽の大戦に於て我軍が大勝利を博したるより、旅順陥落に待ちあぐみし市民は皆競ふて祝捷の意を表したるが、夜に入りては更に一段の景気を加へ来り、全都は悉く電気、瓦斯、提灯の火にかゞやきて一種の偉観を呈するに至」った。家々には国旗と提灯が掲げられ、イルミネーションに飾られた市電や建物があちこちに登場し、音楽隊が繰り出し、戦捷祝賀会が開かれ、さながら「火の都と化したる夜の東京」だと評されている(『東朝』9月3日)。

横浜では、8月初旬 「旅順陥落を見越て、紅白の布を巻付けた飴棒(あめんぼう)的の旗竿を各要所々々へ押立て」、「軒から軒へと提灯飾を打付け」ていたが、「待てど暮せど陥落の快報に接せぬので、紅白の布の色は褪せ軒木は腐つて落るといふ情ない始末」であった。

そこへ、「遼陽方面大捷の一大快報」がもたらされ、急遽これらが作り直され、「市中は到るところ旗と提灯で鼻を衝くやうな次第」となり、提灯行列などが行なわれた(『東朝』9月4日)。

東京でも「取つておきの旅順の催ほしを繰上げたるもの多く」(同6日)という。

旅順陥落祝賀の準備を、遼陽占領祝捷に差し替えた例が多かった。

9月4

遼陽占領

午前0時、日本軍、ロシア軍の退却を知り前進開始。

日本死傷23,533(戦死5,557)旅順口第1回攻撃の1,5倍、日清戦争の全死傷者の1,7倍、陸軍史上空前の死傷者。

ロシア死傷17,912(戦死3,611)。

〈日露戦争の戦況と日露両国の国内状況〉

8月中旬の第1回旅順総攻撃では、日本の攻撃部隊約5万人とロシアの旅順守備部隊約4万人が闘い、日本軍は1万人以上の死傷者を出し、激しい砲撃によって多数の砲弾を消費したが、旅順要塞を陥落できなかった。 

同じ頃、遼東半島中部での遼陽会戦でも、約13万人の日本軍と約22万人のロシア軍が衝突。旅順攻撃に戦力の一部を割いた日本軍は、数に勝るロシア軍に対して苦戦を余儀なくされ、2万人もの死傷者を出す。

一方のロシア軍も同じく約2万人の被害を受け、北の奉天へと撤退。

日本軍は、ロシア軍の拠点であった遼陽を占領したものの、ロシア軍の主力部隊は逃すかたちとなった。こうして、翌年1月に至るまで、日本陸軍は遼東方面と旅順方面の2か所に兵力を分散して戦う「二正面作戦」の態勢を強いられることとなり、人的・物的に消耗を重ねながらロシア軍と一進一退の攻防を続けてゆく。

その頃、ロシア帝国内では、相次ぐ敗北を告げるニュースによって、国民が動揺し始めていた。7月には、国民に対する弾圧の姿勢をとっていたプレーヴェ内務大臣が革命グループによって爆殺されるなど、憲法の制定や言論、信仰、集会の自由などを訴える動きが強まってくる。このような状況下で、ツァーリ政府はヴィッテを再び登用して、日本との間の講和交渉に臨むことを決める。

日本国内では、連戦連勝の報道によって国民の戦争熱が高まる一方で、戦場の苦しい実情は、情報統制がしかれたこともあり一般市民には伝わっていいなかった。しかし、旅順攻略などの激しい戦闘で多くの犠牲が出ると、勝利と戦死者の増大という矛盾に対して、世論は軍部にさらなる勝利を求めて過熱してくる。また、政府は、戦費をまかなうため、特にアメリカやイギリスの市場に向けた国債の発行額は大きく膨らんでくる。日本はロシアに対して決定的な打撃を与えることのできないままに、加熱する世論と増大する借金を背負いながら戦争を続けなければならなかった


9月4

(漱石)

「九月四日(日)、野間真綱宛葉書に、「トラホームは長い病気です然し死ぬ事はない薬なんかはあてにならない只急劇に醫して仕舞へばよろし慢性になると終(ママ)涯かゝるあぶない」と書き、「阿矢仕醫學博士」と署名する。」(荒正人、前掲書)

9月5

韓国、日韓協約(第1次)公布。

同時に日本政府は英文で「日韓協約に関する日本政府声明」発表。

9月5

日露戦役を記念した「郵便絵葉書」が売り出される

9月5

露最大軍港クロンシュタット港、バルチック艦隊主力第2太平洋艦隊出港(司令官ロジェストヴェンスキー少将)。皇帝ニコライ2世・皇太后激励。旗艦「クニャージ・スヴォーロフ」。

10日、レーヴェリ軍港入港。1ヶ月の訓練。この時点で「アリョール」は工事中(9月30日工員を乗せたままクロンシュタットからレーヴェリに向う。10月5日着)。


つづく

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