2025年6月24日火曜日

大杉栄とその時代年表(535) 1904(明治37)年9月6日~18日 橘周太少佐を称賛する記事 「彼の軍神と称へらるゝ廣瀬海軍中佐は、其の最後の勇壮なりしが為のみにあらで、其の平素に在つて敬仰すべき事の多かりしを以て人の欣慕を受くること探し、この橘少佐も亦其の平生の性行洵に嘆美すべきもの多く、恰も陸軍に於ける鹿瀬中佐ならんと思考せらる」(教育総監部参謀柚原完蔵少佐)

 

橘周太

大杉栄とその時代年表(534) 1904(明治37)年9月1日~5日 遼陽占領 日本死傷23,533(戦死5,557)旅順口第1回攻撃の1,5倍、日清戦争の全死傷者の1,7倍、陸軍史上空前の死傷者。 ロシア死傷17,912(戦死3,611)。 より続く

1904(明治37)年

9月6日

総司令官大山巌に勅語下る

9月6日

大杉栄(19)、この日から、平民社(麹町区有楽町3丁目)で『平民社』の帯封などの事務を手伝う。

9月7日

英・チベット、ラサ条約締結。ダライ・ラマは外国の介入禁止合意。露のチベット進出阻止。英は交易地獲得。清国政府は未承認。

9月8日

(露暦8/26)露、ヴィリノ県知事スヴャトボルク・ミルスキー公爵、内務大臣任命。自由主義政策「ミルスキーの春」。

9月9日

遼陽会戦で首山堡のロシア軍陣地での攻防戦を指揮して戦死した橘周太少佐(中佐に進級)を称賛する新聞記事が一斉に出る。

橘の人となりを紹介するのは、彼と特に親しかったという教育総監部参謀柚原完蔵少佐。

「彼の軍神と称へらるゝ廣瀬海軍中佐は、其の最後の勇壮なりしが為のみにあらで、其の平素に在つて敬仰すべき事の多かりしを以て人の欣慕(きんぼ)を受くること探し、この橘少佐も亦其の平生の性行洵(まこと)に嘆美すべきもの多く、恰も陸軍に於ける鹿瀬中佐ならんと思考せらる」と、柏原はいう。

廣瀬と同じように、平生模範的な軍人であった点が着目されている。

そして、「平素より常に身体を戦時的に作り居らざる可らずと謂ひ、其の主義を堅持履践し居た」例が紹介される。

冬でも沐浴は冷水で行なった。食事や衣服は質素を旨としたが、軍服だけは「常に美事なるもの」を着ていた。早起きをして「書生を対手に撃剣の稽古」をし、隊附きの際でも起床ラッパが鳴る頃には稽古場にいた。名古屋の中隊に勤務していた時には、2里(8km)を歩いて往復した、など、「軍人は常に戦場に在るの心懸ならざるべからずてふ主義を貫行する十年一日の如くなりし」様子が語られる。

また、精神においても、橘は模範的な軍人であった。東宮武官を5年間勤めたが、毎朝必ず「家人と共に尊影を遥拝し勅諭を捧読」し、隊で部下に休暇を与えるのは、常に皇室の祭祀に関する日を用い、いかなる祭祀日なのかを説いた。郷里から来た書生は、真っ先に丸の内に連れて行き、宮城を遥拝させ、一人息子は、5歳で「勅諭勅語の要領を覚え」た。このように皇室に対する深い尊崇ぶりが紹介されている。

これらは、柚原からみても「驚くの外なし」というほどの徹底ぶりであった。

橘は自分に対してだけではなく、部下に対しても「厳正にして所謂信賞必罰を旨として一歩も仮借する所」がなかった。しかし、「実は其厳正なる裡(うち)に熱き情を包めりし人にして、決して武骨一片の人」ではなかった。

名古屋地方幼年学校校長だった時には、生徒たちが常に家に遊びに来て、日曜日には座敷があふれかえるほどであった。彼はこれを喜んで、「懇切に教訓戒諭を加ふるが故に、皆其慈に懐(なつ)きて恰も父母を見るが如く」だったという。陸軍戸山学校在職中も、時には演習が終了しての帰途に、生徒たちが橘の家に寄り「食を乞ふことなどもあり、其状恰も生家に於けるが如し」であった。

廣瀬と同じように、部下とは親子のような関係であったことが強調されている。

この他に、筆まめな橘が著述した「各個教練」や「夜間戦闘演習」などが、軍隊教育に貢献したことも指摘されている(『東朝』9月9、10日)。


9月10日

韓国、大蔵省主税局目賀田種太郎、財政顧問着任。

9月11日

煙台の石炭坑を占領

9月11日

『平民新聞』第44号発行

芳岳(下中弥三郎)「悪魔萬歳!」


見よ国内の津々浦々

釣るす球灯、樹つる旌旗(せいき)

旌旗は犠牲の血の色に赤く

球灯は人魂(ひとだま)の火の如く輝やく


犠牲を送りて涙を隠せし同胞は

今や悪魔の勝利を讃美す

病死には喪服を纏うて弔し

戦死には晴衣を装うて祝す


「帝国萬歳大勝利」

何ぞ悪魔の大勝利と書かざる

「陸海軍の大捷を祝す」

何ぞ人道の滅亡と記さざる

9月11日

大杉栄(19)、平民社に平民社維持金として金1円の寄付をする。

9月12日

韓国、通信施設妨害容疑で3人の朝鮮人公開処刑。

9月14日

韓国、始興民擾。

京幾道始興郡、群集数千、京釜鉄道軍役人夫徴発反対。郡守と日本人2人殺害。

9月15日

遼陽の戦闘詳細が明らかになるにつれて、日本側は苦戦を強いられ、多くのロシア軍部隊の奉天方面への撤退を許したことがはっきりしてきた。期待されたような、日露の決着をつける戦いにはならなかった。

このために、祝捷気分よりも犠牲の大きさが、しだいに実感されるようになる。

「遼陽占領の詳報」を伝える新聞は、「敵に肉薄して銃剣突撃を為し、勇壮猛烈なる白兵戦の後一旦是れを占領したるも、遂ひに之れを守持するを得ず」とか、「敵は石を投じ擲弾を擲うちて我が兵に迫り、戦史上未だ見ざる程の悪戦を為したり、其の戦ひに於て某大隊の如きは健全なるもの将校一人のみ、他は悉く負傷若しくは戦死し」といった言葉で埋められ、「斯る激烈なる戦闘を継続すること旬余に及ぶは、世界戦史上未だ其例を見ず」と結ばれている(『報知』9月15日)。そして、新聞の紙面は、戦死した将兵の経歴や人となりを描いた記事で、連日埋められるようになる。

一方で、「非戦論者のトルストイ」や「命からがら逃延びて予定の如くと負惜(まけおし)みをあやつる敗将」、「勝に誇りて味方の死傷を忘れ一本の線香だも立てず、濫りに祝捷熱に浮かされて夢中に提灯を振舞はす連中」が、「孰(いず)れか狂にあらざる可き」と攻撃されるようになる(『東朝』9月19日)。

9月15日

イタリア、ミラノなどでで革命的サンディカリスト指導の全国的ゼネスト(~20日)。

9月中旬以降

大杉栄(19)、京橋区月島2号地11丁目7番地に転居。月島には登坂高三ら友人たちが住んでいる。

9月16日

清国、夏延義の乱、鎮圧。

9月16日

社会主義大演説会。YMCA。山口、幸徳、堺、西川、木下ら。

9月16日

大本営、参謀総長名で満州軍総司令官に対し、外国通信員の処遇に便宜を図るよう電報を打つ。

外国人特派員の従軍をなかなか認めず、本国に引き揚げたり、ロシア軍に従軍する者が続出、大統領に助ガを頼むアメリカ人記者もいた、という。

従軍後も、①戦地で戦況の公報が示されない、②通信発送の便宜が得られない、③観戦の不自由、④原稿の三重四重の検閲など、不満は絶えない。

9月16日

仏彫刻家リシエ、誕生。

9月16日

アルバート・アインシュタイン、ベルン特許局での試傭が本採用に切り替えられる。

9月18日

週刊『平民新聞』第45号発行

「自由恋愛私見」(旭山生 石川三四郎)

幸徳秋水「日露社会党の握手」

(8月14~20日、第2インター第6回アムステルダム大会。片山・プレハーノフ副議長。片山演説をローザ・ルクセンブルクがドイツ語に、ジャン・ジョレスがフランス語に翻訳)。


「記せよ、読者諸君。この握手や、是れ実に世界の社会党発達の歴史に於て、永く特筆大書せざる可らざる重大の一事実なることを。何となれば是れ単に一個の片山氏とー個のプレハーノフ氏との撞手広あらずして、実に日露両国の社会党団体が、各々その派遣せる代表者を通して公然の握手をなせるものなればなり」

「イタリー社会党の形勢」

(ボローニャ大会、改良派提出の入閣決議案否決)

9月18日

満州軍総軍参謀長児玉源太郎大将、第3軍司令部に現れる。第3軍参謀長伊地知には「何もない」と述べる。


つづく

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