2025年6月28日土曜日

大杉栄とその時代年表(539) 1904(明治37)年10月7日~15日 沙河会戦の損害:ロシア41,346(うち戦死5,084)、日本24,497(4,099)

 

沙河会戦

大杉栄とその時代年表(538) 1904(明治37)年10月1日~6日 「先に政権の独占を憤ふおれる民権自由の叫びに狂せし妾は、今は赤心資本の独占に抗して、不幸なる貧者の救済に傾けるなり。妾が烏滸の譏りを忘れて、敢て半生の経歴を極めて率直に少しく隠す所なく叙せんとするは、強ちに罪滅ぼしの懺悔に代えんとには非ずして、新たに世と己れとに対して、妾のいわゆる戦いを宣言せんがためなり。」(福田英子『妾の半生涯』) より続く

1904(明治37)年

10月7日

正午、満州軍総司令部は、ロシア軍が攻勢に転じたものと判断し、当面兵力を結集し、機を見て攻勢をとる決心をし、13時、命令下令。

①第1軍は大南溝付近から烟台炭坑にわたる間に兵力を集結せよ。

②第2、4軍は、現守備線後方の極めて狭小な地域に兵力を集結せよ。

③後備歩兵第3,13旅団、砲兵第1旅団司令部及び砲兵第1連隊を総司令部の直属とする。

④第8師団は、上陸するに従い、鉄道により遼陽に前進せよ。

 

この日、第1軍司令官は、最右翼の梅沢旅団を上平台子から大岑(だいしん)、土門子岑の線に後退させ、各隊に新陣地を構成させる。

10月8日

韓国、咸鏡道で軍政施行。反日活動家が逃避し「露国党の巣窟」といわれる。

10月8日

夜半、ロシア軍(レンネンカンプ兵団)が第1軍最右翼の本渓湖を攻撃、その一部は太子河左岸に進出。本渓湖と橋頭には日本軍の多量の補給品が集積してあるが、守備兵力は微弱。

ロシア軍の本格的攻勢が始まる。(沙河会戦の始まり)

10月9日

第1軍司令部、本渓湖を守る梅沢旅団に援軍を送る。第12師団主力に本渓湖を、騎兵第2旅団に橋頭の救援を命じる。

10月9日

総参謀長山県元帥より派遣された大本営兵站総監部参謀長大島大佐が満州軍総参謀長児玉大将に北進延期裁可を伝えるが、南進するロシア軍を迎撃するのは追撃ではないとする。

午後8時、総司令官大山元帥は進撃下命。

①第1軍は、第12師団及び梅沢旅団に下右橋子付近の的を攻撃させ、軍主力は第4軍の五里台子進出に伴い前面の敵を攻撃して奉集堡に向かい前進せよ。 

②第4軍は、10日早朝行動開始、前黄花甸・孤家子付近の敵を攻撃せよ。

③第2軍は、第4軍の左翼に連携し、板橋堡・太平庄の線に向かい前進せよ。

ロシア軍の作戦は、日本軍の右翼を圧迫して、その右翼から迂回包囲をするというもの。これにたいして日本軍は、守勢の第1軍最右翼を旋回軸として攻勢に転じ、ロシア軍主力を日本軍右翼の山地方向に圧迫するという作戦をとる。

10月9日

『平民新聞』第48号発行

堺利彦「共産党宣言に就いて」

日本ではまだ訳されていない共産党宣言全文を、『平民新聞』1周年の記念として翻訳し、紙面に掲げようという。

堺によれば、「共産党宣言」と『資本論』は『平民新聞』で何度も紹介していたものの、実際にはまだ誰も読んでいなかった。1周年記念に何をするかという話が出たとき、小島龍太郎が「共産党宣言」の訳出を勧めた。そこで堺たちは1周年に当たるこの年11月13日発行の第53号を記念号とし、発行の当日には同志の小園遊会を催すことを『平民新聞』で予告した。

また、1周年記念として、社会党6偉人、マルクス、エンゲルス、ラサール、べーベル、クロボトキン、トルストイの肖像入り6枚1組の絵はがきの発行も計画され、希望者に頒布された。

10月9日

(漱石)

「十月九日(日)、橋口貢宛自筆水彩画絵葉書に、「昨日の孔雀は結樅に候僕なんかにはこんな思想は出ない」と書く。

十月十日(月)、暴風雨。東京帝国大学文科大学で午前十時から十二時まで King Lear を講義する。ヒースの荒野の場面の評釈をする。

夜、野村伝四来る。柿と林檎馳走する。『ホトトギス』(第八巻第一号十月十日発行)に、橋口五葉「はしぐち」と署名して、俳体詩「富寺」の上段二ページに挿絵が掲載される。」

「漱石・高浜虚子・野間真綱へ(奇飄)の「寺三題」と題するものである。橋口清(五葉)は、「奈良みやげ」七葉の絵を二ページに亘って載せている。高浜虚子は、橋口清(五葉)の絵を『ホトトキス』にふさわしいものとみなしたのである。」(荒正人、前掲書)

10月9日

二葉亭四迷、北豊島郡滝野川村田端に転居。

10月10日

第4軍、早朝から攻撃を開始。

12日、紅宝山の前面に達す。

10月11日

各戦線で膠着状態が続く。

10月11日

第12師団第12旅団第14連隊と後備近衛旅団(梅沢道治少将)はシベリア第1・3軍と対戦。

死傷第14連隊780・梅沢支隊391。

ロシア側被害も甚大。シベリア第3軍第6師団の場合、師団長以下将校のほぼ全員死傷。シベリア第3軍団とザバイカル騎兵師団だけで死傷4~5千。シベリア第4軍団第2師団第2旅団第8連隊は日本軍第2師団の攻撃により2/3を喪失、軍団長ザルバエフ中将は退却命令。その右翼の第10軍団第31師団もあおりを受けて後退。同軍団第9師団第2旅団は、日本軍第5師団の砲撃により、第1線の第124連隊は 将校7・下士兵250死傷。

10月11日

榎本健一、誕生。

10月11日

(漱石)

「十月十一(火)、東京帝国大学文科大学で午前十時から十二時まで King Lear を講義する。午後一時から三時まで「英文学概説」を講義する。野間真綱宛の自筆の絵葉書に俳体詩「無題」を書いて送る。

十月十三日(木)、東京帝国大学文科大学で午前十時から十二時まで「英文学概説」を講義する。『春秋左氏傳』や『史記』にも触れる。」(荒正人、前掲書)

10月11日

バルチック艦隊、レーヴェリ軍港発。

10月12日

午前1時40分、第4軍第10師団(川村景明中将)第8旅団(代理第40連隊長鎌田宣正大佐)第40・10連隊、三塊石山を夜襲(旅団長代理鎌田大佐は捻挫のため久野中佐が代理、その久野中佐は銃弾をうけ負傷)。

午前2時、第40連隊(代理第1大隊長山縣万吉少佐)は三塊石山の敵前300mに達するが、ここで頓挫。

午前4時、第10連隊が三塊石山南麓に到着。同時に支援の第20旅団(丸井少将)第39・20連隊が三塊石部落東側に到着。同士討ちを避けるためラッパを鳴らし、ロシア軍の射撃を浴びる。

午前4時20分、第40連隊第2大隊(船橋芳蔵少佐)第5・6中隊が三塊石山南側鞍部を確保。

午前4時30分、支援の後備第10旅団(門司和太郎大佐)後備歩兵第20連隊(竹下平作中佐)が東麓に到着。

午前5時、加勢を得た第10・40連隊が奮進して西南部岩山を占領。

午前6時、第20旅団第39・20連隊が三塊石村に乱入。ロシア軍の抵抗で第20旅団長丸井少将負傷、第39連隊長安村大佐戦死。

午前7時、第20・39連隊の一部が北川岩山の頂上に立ち、東北斜面のロシア軍を追払う。

午前8時、三塊石部落に放火すると、ロシア兵は退却。部落の大半を占領。

正午、占領。

三塊石山夜襲の損害戦死312、負傷1,178。夜半迄には全軍が北に退却。

沙河会戦の損害:ロシア41,346(うち戦死5,084)、日本24,497(4,099)

10月12日

第3回国庫債券8,000万円発行規定公布。利率5分。

10月12日

バルチック艦隊、ロシア最後の泊地リバウ軍港入港。

10月13日

日本軍が攻勢に転じる。

15日、日本軍第4軍が沙河河畔の丘陵である万宝山を占領

第1軍と第4軍正面の敵ロシア軍は退却を始めたが、第2軍正面のロシア軍はなお激しく反撃。

10月15日

北海道鉄道、熱郛-小沢間開通。これで函館−小樽間全通。

10月15日

バルチック艦隊(ロシア海軍軍令部長心得兼侍従将官ロジェストヴェンスキー少将)、4集団に分かれバルト海リバウ軍港発

10月中旬

(漱石)

「十月中旬か下旬(推定)、高浜虚子来る。松尾芭蕉の『猿蓑』を例に上げて「俳体詩」について語り、二人で「尼」の三分の一を一気に作る。(残りは後に高浜虚子宛に送る)(高浜虚子「平凡化された漱石」『改造』六月号 昭和二年六月一日発行)」

「「これは連句の方は意味の轉化を目的とするものであるが、十七字十四字長短二句の連続でありながら、意味の一貫したものを試みて見ようといふのが主眼であって、私もそれを漱石氏に話したところが、氏は無造作に承諾した。さうして忽ち『尼』の一篇が出来上った。」(高浜虚子『漱石氏と私』)」(荒正人、前掲書)


つづく

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