大杉栄とその時代年表(540) 1904(明治37)年10月16日~26日 第2次10月期旅順口総攻撃 28センチ砲による激しい砲撃。ロシア軍砲台の崩壊、火薬庫の爆発などの被害が出る より続く
1904(明治37)年
10月27日
東鶏冠山北保塁坑道、日本上、ロシア下、ロシア側坑道爆破
10月27日
旅順総攻撃の右翼軍、歪頭山を占領
10月27日
ニューヨークで地下鉄開通。初日、15万人が利用。市役所前~145丁目
10月27日
ロシア艦隊がドイツから石炭供給を受けていることにイギリスが抗議。
ロシア・ドイツが対イギリス同盟関係締結の交渉を行う。ロシアが同盟国のフランスに助言を求め、交渉失敗(~11月23日)。
10月28日
清国、武昌の軍隊が科学補習所・東文講習所を捜索。
10月28日
第2軍、貔子窩を占領
10月30日
午前7時、総砲撃。
午後1時、総突撃。
同7分、第9師団第6旅団第35連隊第2大隊第5中隊(篠田次郎大尉)、P堡塁占領。松樹山堡塁へは第1師団第3連隊第2大隊第6中隊が突撃。外濠は7.5mあり埋めきれず、銃砲火の下で突撃不可能に。二龍山堡塁へは第9師団第19連隊第1大隊が向うが、外濠に架橋できず動くこともできず。東鶏冠山北堡塁へは第11師団第22連隊第2大隊第6中隊が突撃。第1~3突撃とも失敗。第44連隊第2大隊は東鶏冠山第2堡塁を目指すが、大隊長香坂仁介少佐ほか死傷者続出。東鶏冠山第1堡塁・砲台へは第12連隊が向うが、ロシア軍銃火により阻止。砲台に向った同第1大隊(児玉象一郎少佐)第1・3中隊はほぼ全滅。
午後3時10分、ロシア軍約400がP堡塁奪還出撃。
午後10時30分頃、ロシア軍約300がP堡塁を夜襲。盤龍山東堡塁にいた第6旅団長一戸少将が第7連隊第6中隊を率いP堡塁救援に突進(戦死64・負傷303)。
10月30日
大阪市安部製糸会社製糸工300人、会社解散後、清算人への不満からストライキ。
10月31日
午前8時、第3軍司令官乃木大将、第2次10月期旅順口総攻撃作戦中止決意。
松樹山砲台、二龍山砲台、東鶏冠山北砲台を攻略することができず、戦果はP砲台占領のみ。
日本側死傷3,830(内戦死1,092)。ロシア死傷4,453(内戦死616)・不明79。
10月31日
石川啄木(19)、処女詩集『あこがれ』刊行のため再上京、東京着。本郷区向ケ岡弥生町三村井方に止宿。
11月8日、神田区駿河台袋町8番地養精館に移る。
28日、牛込区砂土原町3目22番地井田芳太郎方に転居。
啄木は、盛岡中学の先輩で、この年9月仙台第二高等学校から東大文科大学言語学科に入った金田一京助を下宿の本郷区菊坂町82番地の赤心館に訪ねた。金田一京助は花明(かめい)という号を持って「明星」の同人であり、二人はしばしば与謝野家で逢うこともあり、親密に交際した。
啄木の父一禎(いってい)は渋民村の宝徳寺の住職であったが、啄木に仕送りしてやる力はなく、啄木は詩集を出版し、売文で生活する覚悟であった。
啄木の小学校時代の級友、小田島真平の長兄嘉平衛が、神田鍛冶町の大学館という出版屋に勤めていたので、上京に当って啄木は小田島真平から兄の嘉平衛宛ての紹介状をもらって行った。
啄木が小田島嘉平衛を訪ねて相談すると、小田島は、よほどの大家でないと詩集は売れないものだと言い、啄木の詩集を大学館から出版する望みのないことを説明した。
啄木は、金田一京助や同じく郷里の先輩の野村長一(おさかず)たちから金を借りてどうにか日を過していた。しかし、与謝野家の新詩社の会に出るときの彼は、仙台平の袴をはいて坐り、胸を張り、腕を組み、昂然とした態度を取っていた。ただ、彼は、東北弁が目立つのを知っていたので、その会合ではあまり口を利かなかった。
10月31日
「平民新聞」連載幸徳秋水「日記の一節」(明治37年6月~12月)のこの日付の記述。
先頃、ロシア社会民主党より捕虜への差入れとして社会主義文献数百部が送られ松山の収容所に送る。今日、在ニューヨークのロシア社会民主党幹事から同様照会があったが、今回は収容所から拒絶される、
10月31日
大蔵省、第3回国庫債券8,000万円発行。
10月31日
露ロジェストヴェンスキー中将、北海事件証人、士官4人出頭のため本国送還。
11月
上海、光復会結成(蔡元培・秋瑾・陶成章・徐錫麟ら、暗殺団母体)。
11月
黄興ら、長沙で挙兵を図って失敗。
11月
与謝野晶子「ひらきぶみ」(「明星」)。桂月の批判へ反論。
11月
吉野作造「大に黄禍論の起これかし」(「新人」)。日本が「満韓の主人」にあることの正当性。
11月
小杉未醒『陣中詩篇』
1月、「戦時画報」特派員として朝鮮半島に渡り従軍、9月に帰国。近事画報社に勤務しながら、従軍中に画帳に書きためていた詩を整理し、26編を選んで刊行。従軍し、戦場を見た人間によるリアルタイムの反戦詩。未醒の意図は「反戦」ではなかったかも知れないが、収録作品は赤十字病院を訪ねた折に作った作品や兵士らの望郷の念を読み込んだものが多い。
この詩集には自作挿絵が豊富に載せられているが、扉に掲げられた「戦後」というタイトルの絵は、戦死した兵士の死骸を喰らう狼もしくは野犬を描いたものだった。机上のィデオロギーではなく、冷徹な写実による「表現」を、この画家は持っていた。"
11月
平民新聞発行1周年記念平民絵葉書発行。
11月
平民社婦人講演会。菅谷いわ子(木下尚江妹)・寺本みち子・松岡文子(松岡荒村悟未亡人)の講演。聴衆青山学院生徒神川松子・吉崎吉子、のち入社。
11月
安部磯雄、「資本論」翻訳に専念するとして平民社から遠ざかる。
38年夏、早稲田大学野球部を率い渡米。
11月
正宗白鳥「寂寞」(「新小説」)
11月
坪内逍遙「新曲浦島」(「早稲田大学出版」)
11月
綱島梁川「真理と人生」(「中央公論」)
11月
(漱石)
「十一月、精神状態の最も悪い時、絵具を買って来て水彩画を描く。下手で何を描いているのかよく分らない。(鏡)
十一月、帝国文学会(『帝国文学』発行所)の脚本懸質券集(締切明治三十八年二月二十八日(火))審査委貝となる。委員は、関根正直・上田万年・藤岡作太郎・大塚保治・芳英一・藤代禎輔(素人)らである。」(荒正人、前掲書)
11月
ハンガリー首相ティサ、議会と対決し、反対派を力で抑圧したため国内の危機高まる(~12月)。
11月
マックス・ウェーバー、「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の『精神』」第1章を『アルヒーフ』第20巻に発表。
つづく

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