2025年6月29日日曜日

大杉栄とその時代年表(540) 1904(明治37)年10月16日~26日 第2次10月期旅順口総攻撃 28センチ砲による激しい砲撃。ロシア軍砲台の崩壊、火薬庫の爆発などの被害が出る

 

王家甸南西くぼ地にある28センチ榴弾砲の試射

大杉栄とその時代年表(539) 1904(明治37)年10月7日~15日 沙河会戦の損害:ロシア41,346(うち戦死5,084)、日本24,497(4,099) より続く

1904(明治37)年

10月16日

夜、第5師団、ロシア軍の夜襲受ける。万宝山夜襲。奪回。戦死547、負傷2,387、失踪156。

その後、日本軍は後退するロシア軍を追って、沙河の線まで進出するが、弾薬不足によりそれ以上の前進は困難になる。

10月16日

『平民新聞』第49号発行

幸徳秋水「先ず政権を取れ」。普通選挙獲得運動促進。

現在社会の一切の禍根は地主資本家の階級が政治の権力を独占し、法律は彼等の利益を保護するために制定され、行政はその利益を防衛するために実施されているが故であるとし、「社会主義者は一国の政権を彼等少数階級の手より奪ふて、平等にこれを一般国民の間に分配せん」ことを主張する。そしてかくのごとき現状は、現行の選挙法が直接国税十円以上の納税を以て議員選挙権の一資格と規定しているが故であるとし、社会主義者は現行選挙法を改正して納税資格の撤廃を要求する。

もし普通選挙が実施されて一般平民ことごとく選挙権を有したならば、「少数階級を代表する議会は即ち一般平民の議会たらん、少数階級の政府は即ち一般平民の政府たらん。……既に然らば何ぞ少数階級を掃蕩絶滅して、以て光彩ある社会主義制度を実行するの難きを憂へんや。」社会主義実行の第一着手は「七首(*あいくち)に非ず、爆烈弾に非ず、叛乱に非ず、同盟罷工に非ず、ただ一般平民をして議員選挙の権利を得しむるに在り。多数職工の代表者、多数小商人の代表者、多数小作人の代表者をして彼等地主資本家の代表者と、議会壇上に並び立たしむるに在り。……」


10月16日

満州軍総司令官大山巌に勅語

10月17日

韓国、大蔵省主税局長目賀田種太郎、財政顧問着任。貨幣整理(日本の通貨体系への編入)・財政改革に着手。これまで通用していた「葉銭」を回収し第一銀行券を法定通貨とする。第一銀行漢城支店が韓国中央銀行の役割を代行、大韓国の国庫監理・通貨発券業務を行う。

他に、外交顧問ダーハム・スチーブンス(12月27日着任)、協約にない警察顧問丸山重俊(警視庁警視)、宮内府顧問加藤増雄(前駐韓公使)、軍部顧問野津鎮武中佐。

10月17日

(漱石)

「十月十七日(月)、東京帝国大学文科大学で午前十時から十二時まで King Lear を講義する。

十月十八日(火)、東京帝国大学文科大学で、午前十時から十二時まで King Lear を講義する。第四幕第三場のケント伯とリア王の娘コーデリアの侍従との対話を批評する。午後一時から三時まで「英文学概説」を講義する。」

「「此の日、英文科の大教室で盛に日露戦争の成りゆきに就いて議論を闘はしてゐた者があった。勿論是等の譲輪は日本軍の勝利に多大の歓喜を感じた者の大多数が戦争そのものゝ文化的効果をすら理論的に承認しようとするその態度に対して少数の、しかし、なかなかの論鋒の強い一團の非戦論者が堂々と舌戦の陣を張つた事にその原因を持つてゐた。」(金子健二『人間漱石』)」(荒正人、前掲書)

10月18日

満州軍総司令部は前進を中止し、沙河南岸に陣地を築いて防御体勢を固めることを決定。

同月に旅順総攻撃をひかえていた日本軍には、北部戦線に人員の補充と弾薬の補給をおこなう余力はなかった。ロシア軍の動きも止まったため、両軍は沙河をはさんで、翌年明治38年(1905年)の春まで対峙することになる。

沙河会戦において、日本軍の参加兵力は12万800人で、戦死者4,099人・戦傷者1万6,398人の損害をうけた。

一方のロシア軍は、参加兵力22万1,600人で、戦死者5,084人・戦傷者3万394人・行方不明者5,868人の損害を出しています。

日本の同盟国イギリスの新聞タイムズは、ロシア軍の失敗として、日本の第1軍最右翼に位置した本渓湖等を確保できなかったことを挙げている。

10月18日

仏領西アフリカ(ハウト、セネガル、ニジェールを結ぶ)正式発足。首都はダカール。

10月18日

グスタフ・マーラー(44)、ケルンで第5交響曲初演

10月19

大杉栄(19)、平民社を訪れ、この日も含め毎日のように手伝う。

10月19

ロシア・バルチック艦隊(太平洋第2艦隊)、大ベルト海峡入口、デンマーク領ランゲランド島出港。

20日、スカゲン岬投錨。ロジェストヴェンスキー、中将昇進入電。

21日、デンマーク西岸沖北海に出現。

20 ・沙河会戦終了。ロシア側戦死5,084、負傷30,394、失踪5,868。日本側戦死4,099、負傷16,398。

10月20

(漱石)

「十月二十日(木)、東京帝国大学文科大学で午前十時から十二時まで「英文学概説」を講義する。

十月二十二日(土)、寺田寅彦来る。ほかにも先客いる。

十月二十四日(月)、東京帝国大学文科大学で午前十時から十二時まで King Lear を講義する。

橋口貢宛に、森を背景にした裸婦の半身を描いた自筆水彩画絵葉書に発句の批評を書いて送る。

十月二十五日(火)、東京帝国大学文科大学で午前十時から十二時まで King Lear を講義する。午後一時から三時まで「英文学概説」を認識する。

寺田寅彦宛に前日の橋口貢苑と同様自筆水彩画絵葉書を送る。

十月二十七日(木)、東京帝国大学文科大学で午前十時から十二時まで「英文学概説」を講義する。

十月三十日(日)、東京帝国大学文科大学で午前十時から十二時まで King Lear を講義する。」(荒正人、前掲書)

10月20

ボリビア・チリ、講和条約調印。両国間の太平洋戦争(1879−84)正式終結。ボリビアはチリに領土を割譲、チリの太平洋沿岸地域領有確定。

10月22

北海事件(ドッガーバンク事件)

午前0時50分、北海中央部ドッガーバンク東方沖、バルチック艦隊巡洋艦アヴローラ、味方艦の砲撃により損傷。英漁船1撃沈、大破4。

パリでの国際調査委員会はロシア側に非ありとして賠償金支払いを命じる。英露関係急速悪化。艦隊の行く先常にイギリス巡洋艦の監視をうけ、妨害され、行動の制約を受ける。

10月23

第3軍司令部参謀長会議。満州軍総参謀長児玉大将の二龍山全力攻撃案と参謀次長長岡少将の203高地優先案の検討。両案とも否決され、松樹山堡塁~東鶏冠山砲台迄の東北正面全域にわたる攻撃に決定。

10月23

清国の華興会と哥老会、挙兵を図るが失敗。

10月23

田中正造(谷中村亡国民2千有余人総代5名の名で)、「志士仁人」に宛て「亡国水毒村谷中村築堤工事緊急要請書」提出。

10月23

東京に戻ってきていた佐々木喜善宅に大杉栄(19)から『平民新聞』が届く。佐々木が大杉に葉書を出す。

10月24

満州軍参謀総長児玉大将、第2回旅順口攻撃計画(広正面攻撃)の再考・修正を求める旨第3軍司令部に急電。

10月26

第2次10月期旅順口総攻撃。

総砲撃開始。

28センチ砲による激しい砲撃。これによって、ロシア軍には砲台の崩壊、火薬庫の爆発といった被害が出る。砲撃によって砲台などに打撃を与え、要塞の防衛能力をある程度削いだところで、次の攻撃を開始。

〈28センチ砲による攻撃の成果〉

・松樹山砲台に対し発射弾81発、うち命中弾47発

・二龍山砲台に対し発射弾132発、うち「最も効力ありし」命中弾21発

・東鶏冠山砲台に対し発射弾77発、うち命中弾59発

・同北砲台に対し発射弾85発、うち命中弾41発

・東鶏冠山火砲1門を破壊

・同北砲台火薬庫を爆破

10月26

華興会の黄興、上海へ脱出。

10月26

大杉栄(19)、平民社を訪れ、白柳秀湖とともに編輯を手伝う。

10月26

ロシア・バルチック艦隊、濃霧のため仏領ブレスト港寄港断念。スペイン北西岸ビーゴ港寄港。スペイン、中立違反恐れ石炭補給不許可。翌27日、許可。

28日、北海事件判明、出港延期指示、足止め。

29日、イギリス地中海艦隊巡洋艦がビゴに出現、封鎖姿勢をとる。


つづく

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