1904(明治37)年
8月23日
原抱一庵(39)、没。
明治36年2月頃、リットンの「ユージン・アラム」を翻案した小説「聖人乎盗賊乎」を「東京朝日新聞」に連載し、10年近い不遇と貧窮と放恣の連続の生活の中に希望を見出した。この作品は、多くの人々に愛読され、旧知の黒岩涙香、徳富蘇峰、矢野龍渓、森鴎外等、第一流の評論家や文壇の大家たちの序文に飾られて単行本となり、売れ行きもよかった。その上この作品は福井茂兵衛一派によって、本郷座で脚色上演された。「朝日新聞」は原を客員として迎え入れた。原は、長い間夢想していた流行作家らしい地位を得た。
この年(明治37年)夏、原は、本郷警察の筋向うの井戸に、昼間身投げした。すぐ人に気づかれて、警察へ担ぎ込まれた。「朝日新聞」に関係のある者だということが分り、「朝日」に引き渡された。「朝日」はすぐ原を解職したが、社費で原を巣鴨の病院に入れ、8月23日に没するまでその世話をした。
原の投身事件は新聞に出なかったので、旧知の内田魯庵も、原の友人の画家の安藤仲太郎も、原の没を知らずにいた。
内田魯庵はこの年37歳。明治31年3月、最初の小説「くれの廿八日」を「新著月刊」に発表して以来、評論と小説との両方にわたって仕事をしていた。明治24年9月、丸善に図書顧問として入社し、社の機関雑誌「学鐙」に毎月随筆や、書物についての感想を書いた。
この年からそれまでの不知庵の外に魯庵という筆名を使い、主要な作品はこの筆名で書くようになった。しかしその外に、彼は「学鐙」に書く文章には、善六、善吉、柏木衛門、駿河呼然、砂邱子、無名庵、郊外生、その他様々の筆名を使った。丸善から定収を得る外に、小説や評論を書いて原稿料を得たので、その長い著作生活の中ではじめて安定した生活を営むことができるようになった。
原抱一庵が、本郷で井戸に投身自殺を企てた明治37年夏、彼は7月13日から9月5日まで、家族と女中を連れて沼津に避暑生活を送っていて、原の消息は全く知らなかった。
8月24日
旅順口。午前2時、後続隊が到着し第44連隊1800は狭い鞍部に集ることになる。
午前2時40分、第3陣の第7連隊集成隊が盤龍山東堡塁を出撃、砲弾のもとに前進不能となる。
午前4時、後備歩兵第9連隊集成隊が盤龍山西堡塁から南進(盤龍山第1・2砲台、虎頭山が目標)。虎頭山頂は一旦ロシア兵を追払うが逆襲により全滅。盤龍山第1・2砲台に向う兵たちは身動きとれない状況に陥る。結局、第44連隊・第7連隊集成隊は後退。望台攻撃作戦は頓挫。
午後1時25分、第11師団長山中少将は攻撃中止を決意、命令を出し、第3軍司令部・第9師団に連絡。
午後4時、乃木大将、攻撃中止を命令。
日本死傷15,860/50,765。ロシア死傷1,500/33,700。
〈砲弾の補給に苦しむ日本軍〉
砲弾は、「三十七年五月第二軍南山の戦闘に於ける砲兵弾薬の消費は三万五千余発に上り」そのせいで開戦時の備蓄が食いつぶされるおそれが出てきた。しかも6月になると、砲弾を製造するはずだった工場は、旅順要塞を攻撃するための「所要兵器」(大型の大砲用の弾薬と各種車両)を「新造若は改造」するせいで「其作業力の大半を奪はれたり」という状況になり、「野戦砲弾」生産の業務までは手が廻らない事態となる。
その後も相次ぐ戦いで弾薬を消耗しつづける日本軍は、「八月二十一日旅順要塞第一回の総攻撃失敗の結果第三軍は其の携行弾薬の約四分の三を消費し而して未だ明かならざる」という苦境に陥り、とうとうドイツのクルップ社・イギリスのアームストロング社といった外国の兵器会社に対し砲弾を注文して弾薬不足を補う事になった。
8月24日
ロシア露、バルチック艦隊の太平洋派遣決定。
8月26日
遼陽会戦;弓張岑夜襲
満州軍主力の第1・2・4軍、遼陽に進撃。
午前0時、第1軍(黒木為楨大将)第2師団第3旅団(左翼、松永正敏少将)と第15旅団、弓張岑に向けて進撃。
午前4時30分過ぎ、第3旅団第29連隊第1・2・3大隊、目標線に進出。第4連隊は第1・2・3大隊ともに苦戦。第4連隊長吉田貞中佐戦死。第2大隊副官三浦真中尉らの「決死隊」30の奮闘で第3大隊は窮地を脱出。第3大隊と右翼の第15旅団第16大隊とが連結。弓張岑夜襲は成功。
第2師団の前面のロシア軍は後退するが、第2師団の消耗激しく追撃できず。第29連隊第1大隊は石溝南方ロシア軍を攻撃、苦戦。日本側死傷2,336。ロシア側死傷2,603。
第12師団はロシア第10軍団左翼を攻撃。第23旅団第24連隊は簡単に遊撃溝岑を占領。第46連隊(第1・2・3大隊)は苦戦。第12旅団では、第47連隊が目標線に進出するが、第14連隊は足踏み状態。近衛師団(第1・2旅団)の第1旅団主力の近衛第1連隊は大西溝から323高地を目指した途端十字砲火をあび停止。
午前10時30分頃、第2師団予備の第30連隊第1・3大隊が第2師団正面のロシア軍を駆逐。ロシア軍は近衛第1連隊第3大隊に対して逆襲、援軍は撃退され、支援砲撃も不能となる。
午後1時、近衛第1旅団長浅田少将は衛第1連隊第3大隊に退却下命。
垣山北方の第46連隊第3大隊(黒田龍成少佐)、突進し、午後3時20分、垣山を占領、直ちに紅砂岑の砲兵陣地を攻撃。砲兵は退却。続いて朴溝・紅砂岑のロシア軍も退却(第12師団正面)。第2師団第29連隊第3大隊が639高地の達するが、ロシア兵は退却済み。この夜、ロシア軍は遼陽へ総退却始まる。
8月26日
平民社演説会。石川三四郎、幸徳秋水、千葉県東金町。聴衆230余
8月26日
旅順陥落を知らせる「東京二六新聞」の号外(ニセ号外)
一昨夜九時半頃数名の号外売は、鈴の音もいさましげに、本所浅草の各町を駆けまはり、皺枯声をふり立てて、「サア只今発行の二六新聞号外、いよいよ旅順陥落大勝利」と叫ぶにぞ、何がさて待構へたる人々、ソレ旅順の陥落だと、我を先にと飛んで出で、号外屋、号外屋と呼立つれば、其せはしき名状すべからず、一枚五銭乃至は四銭といふ法外の値を吹つ掛けても、買手はびくともせず、片ツ端より買行けば、号外売はいよいよ景気づきて走り去る。其あとにて何れも号外を打見れば、二六社の刷出したるものには相違なきも、文句は至極簡単にて、「旅順陥落す。速かに国旗を立てよ。詳細は第二号外にて報ず」とあるのみ、旅順が陥落せば、国旗を出す位は愚な事、祝捷費の多くをさへ投出すべき此場合に、さりとは簡単過たる号外かな、訝かしとて、よくよく見れば、日付は二十五日とあり。
扨ては一杯喰はされしかと、一人が謂へば二人同じ(中略)此号外もいよいよ贋かと腹立しさに、二六社へ電話で問合せしところ、同社にては号外を出せし事なしとの答へ (中略)同署(注:取り締まりに当たった本所署)も詮方なく他方面より取調べしが、前記号外は全く二六社にて印刷せしものに相違なく、すは陥落といふ時に、他社に先んじて出さんものと、兼てより刷り溜めなしおきたるを、何者が窃取して日付を加へしものと判然せり。
(『東朝』明治37年8月28日付)
8月27日
ロシア満州軍主力、遼陽へ総退却。砲兵の退却が優先され、午前7時30分頃には陣地撤収。
第1軍は疲労のため、深追いは行わず。第2(奥)・4(野津)軍は、夕暮れには追撃命令が第1線に届くが、夜間でかつ泥濘のため捗らず。28日も両軍団の追撃進まず。
8月27日
関西鉄道会社、紀和鉄道会社を合併。
8月27日
(漱石)
「八月二十七日(土)、橋口頁宛手紙に、数日前、高浜虚子に逢ったら、『ホトトギス』(第八巻第一号十月十日発行)から「同紙の上部三分一許の處へ廻り燈籠の様な影法師の行列を入れたい僕にかいてくれといぶから僕は駄目だからといって君の駱馳(ママ)を見せたら君に遭ふ機会があつたら頼んで見て呉れといふ君の駱馳に感服したものと見える、一つかいてやりませんか」と書き送る。
八月二十八日(日)、夜、寺田寅彦来る。橋口貢から、自分よりも末弟の橋口清(五葉)を推薦してくる。返事に、橋口清でも、高浜虚子は大いに喜ぶだろうと伝える。」(荒正人、前掲書)
8月28日
西川光二郎(28)、東海道遊説で静岡県からの帰途、山北に至り1泊。
翌日夜、小田原で社会主義演説会。前日、加藤病院小田原分院に来ていた堺利彦も合流。早川に泊まり、30日、石橋山古戦場などを見たあと山北に戻り、夜、演説会。31日帰京。
8月29日
午前5時40分、ロシア満州軍クロポトキン大将、追撃する日本軍を迎撃するための「満州軍第2号命令」下命。
8月29日
日本インド間通商に関する条約調印。1905.3.16 公布。
8月29日
横浜電鉄でストライキ。
8月29日
セントルイス万国博覧会の余興、第3回五輪大会陸上競技入場式行われる。
8月29日
第1次旅順総攻撃について、イギリス8月29日付タイムズ(タイムス)紙が報道した記事の翻訳。
タイムズ(タイムス)紙はまず戦況全般を紹介し、旅順を拠点とするロシア艦隊の状況や「千八百九十四年の先例」(日清戦争において日本軍が清国の旅順要塞を攻略した事例)を取り上げながら、日本軍の攻撃が順調であるという「此説は攻撃の成功を誇張したるものなるに似たり」として日本兵の苦戦を匂わせている。
つづく

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