2025年6月11日水曜日

大杉栄とその時代年表(522) 1904(明治37)年7月6日~13日 「★然らば即ち、韓国の領土を保全するにはただわが実力を以てするあるのみ。実力の二字をいま一層手緊(きび)しく言へば兵力のみ。 ★故に吾人は韓国の要所に兵営を建築し、わが軍隊をして恒久に韓国に駐屯……せしめんことを望む。 ★されど韓国の領土は単に韓人のためのみに保全するに非ず、又わが国のために保全する也。即ち韓人の欲するにせよ、欲せざるにせよ、韓国の領土は是非とも他国の侵略より保全せざるべからず。 ★故に吾人は韓国経営の第一着手として、まず軍事的経営を勧告す。(『国民新聞』(徳富蘇峰)社説「韓国経営の実力」」

 

徳富蘇峰(明治38年9月・43歳)

大杉栄とその時代年表(521) 1904(明治37)年7月1日~5日 「みいくさにこよひ誰が死ぬさびしみと髪ふく風の行方見まもる」(石上露子(いそのかみつゆこ、筆名ゆふちどり) 『明星』7月号) より続く

1904(明治37)年

7月6日

満州軍総司令官大山巌、同参謀長児玉源太郎、出征。10日、宇品発。14日、大連着。

7月6日

セントルイス、黒人自由党の結成大会。黒人大統領候補ジョージ・テーラー指名。

7月7日

ロシア社会民主党は、5月10日付書翰で、『平民新聞』編集部宛に、国際連帯の立場から、ロシア人捕虜のあいだに、非戦主義のパンフレットを配布してほしいと申し入れて、多くの書籍を送ってきており、平民社はこれに協力して、松山の俘虜収容所にこれらの書籍を送り届けた。

この件について、7月7日付で平民社からジュネーヴのⅤ・ウリヤーノフ(レーニン)あてに出した書翰がある。

「親愛なる同志!

ご依顔転よって、あなた方の雑誌小冊子多数を目下松山市にいるロシアの捕虜に送ったことをお知らせします。彼らは大いに喜んでこれらの文献を読み、他日、献身的な社会主義者となって帰国するであろうと考えます。

あなた自身や、ロシアのすべての同志のためにできることがあればなんでも喜んでします。ロシア社会民主党の速かな成功を祈る。

つねにあなたの兄弟たる『平民新聞』編集者」

7月8日

『国民新聞』(徳富蘇峰)社説「韓国経営の実行」

★日露開戦以来すでに五ヵ月を経過し、日韓議定書調印後すでに四ヵ月を経過す、然りと雖もこの間における韓国経営は…‥‥実質的に殆んど一の見るべきものあるなく、日韓議定書の精神の如き未だ一として具体的に実現せられたるものなし。

★御料荒蕪地開墾の要求の如き……韓廷内には異論沸騰して容易に之を承諾するの気色なし。……その理由は……わが国の意志の未だ充分に徹底せざることは大なる原因の一ならずんば非ず。

★故に今日の急務はわが実力を以て韓廷に蒞(のぞ)み、以てわが意志を徹底せしめ、簡明直截にわがなさんと欲する所を行なふにあり。

★それ韓国に対するの途、豈他あらんや、ただ韓国が一にわが国の保護の下にあることを知らしめ……我れに対して被保護者の実を挙げしむるのみ。(「韓国経営の実行」)


この頃、元東京裁判所検事正・前大蔵省官房長長森藤吉郎の「御料荒蕪地開墾案」(日本政府は韓国政府に提出し拒絶される)。小栗富次郎は塩専売権、二宮熊次郎は煙草専売権、神鞭知常は仁川埋立事業、対露硬同志会系は水田買収など、投機師・政治浪人が権益を狙う。雨宮敬二郎・浜口吉右衛門ら100余は満韓起業同志会、長谷川芳太郎・大竹貫一らは日韓農事会社を設立。

7月8日

京都の岡崎公園開園。明治28年の内国勧業博の跡地。5万余坪。

7月8日

大杉栄(19)、神田鍛冶町の今金で開かれた平民社の社会主義大演説会に参加。その後、夏季休暇のため、午後9時半に新橋から列車で名古屋に向かう。途中、大磯辺りで檄文と広告を40~50枚配る。

9日、名古屋市飴屋町(現、中区橘一丁目)の伯父大杉一昌宅に着く。在名中の夕方、大須観音堂で『平民新聞』の宣伝ビラをまき、偶然出会った鈴木楯夫が手伝う。"

7月9日

第2軍、蓋平を占領(蓋平の戦い)

7月9日

(漱石)

「七月九日(土)、杉田作郎宛手紙に俳句、「野田翁八十壽二句」を送る。」(荒正人、前掲書)

7月10日

第4軍司令官野津大将、輸送船『讃岐丸』で宇品港を出発。

同日、大山元帥一行の乗船『安芸丸』も出港。14日、大山元帥は大連に到着。

7月10日

『平民新聞』第35号発行

英文欄「寛容論」

「陸軍輸送船常陸丸がロシア艦隊に撃沈された時、上村中将に対する多くの非難が聞かれた。敵艦隊の朝鮮海峡進出を探知しなかったのは、上村艦隊の失策と想像されたのである。この責任が上村中将に帰せらるべきか或は参謀本部に帰せらるべきか、吾人は公正な判断を下す位置にないが、しかし若干の新聞紙は恰も中将がこの失敗に対して非難せらるべき、唯一の人物ででもあるかのように民衆を教唆している。若干の無思慮な人間が中将の家族の住宅に投石したといわれ、中将の子供は学友の悪意ある態度のために退学のやむなきに至ったとさえ報道されたのである。

かくのごときは不寛容な行為の、もっとも恥ずべき一例である。吾人は不幸な家族に対して、粗暴な行為に出ずる少年、または無知な民衆を非難すまい。だが、吾人は若干の新聞紙が他人の失策に関して示した不寛容の精神を憎む。九州鉄道(の線路)に石が積まれた時、それはロシアのスパイの所業だと想像された。長崎の一商人はスパイの一味といわれて無残な迫害をうけたが、彼が主としてロシア人と取引していたという以外、彼に反する何事も立証されなかったのである。これら一切の不幸な事件は、新聞紙のとった不寛容の態度に帰せられるであろう。

しかし不寛容な行為の例証は、新聞紙だけに限られたわけでなく、政府もまたこの点では同罪である。吾人は実にしばしば、開戦以来政府が神経質となり疑い深くなったといったが、宗教家、社会主義者、および政府に従順ならざる者は疑わしい目で見られている。数週前、ギリシャ教会の一日本人宣教師はロシア兵の捕虜に宗教的慰安を与えるため、彼等が抑留されている(四国の)松山に、教会と信者の支弁した費用で派遣された。然るに政府の偏狭なる、ロシア人信徒の懺悔を政府官吏の立会の下で、僧侶の前に行なうべきことを固執した。これ豈、ギリシャおよびローマ教会のもっとも重要な宗儀たる懺悔を全然禁止するのと同じではないか。吾人は信ずる、もしわが国民と政府とにして世界最文明国の一たらんと希うならば、もっと寛大でなければならぬと。」

7月11日

連合艦隊司令長官東郷平八郎大将、陸軍の旅順攻撃を伊東軍令部長に依頼。

7月11日

北海道炭鉱鉄道輪西~室蘭間が開通。

7月12日

『国民新聞』(徳富蘇峰)社説「韓国経営の実力」

★吾人は韓国の領土保全のために両回(日清、日露)の戦争に従事したり、而して其一回は今なほ戦争中なり。

★吾人は韓人の好意に依頼して彼国の額土を保全する能はず。

★然らば即ち、韓国の領土を保全するにはただわが実力を以てするあるのみ。実力の二字をいま一層手緊(きび)しく言へば兵力のみ。

★故に吾人は韓国の要所に兵営を建築し、わが軍隊をして恒久に韓国に駐屯……せしめんことを望む。

★されど韓国の領土は単に韓人のためのみに保全するに非ず、又わが国のために保全する也。即ち韓人の欲するにせよ、欲せざるにせよ、韓国の領土は是非とも他国の侵略より保全せざるべからず。

★故に吾人は韓国経営の第一着手として、まず軍事的経営を勧告す。(「韓国経営と実力」)

7月12日

大杉栄(19)、伯父宅に在宅中に伯父大杉楯夫が亡くなる。

7月12日

伊東軍令部長、参謀総長に面会。陸海軍高級幕僚会議、陸軍による旅順攻撃決定。

7月12日

英独、英仏協商に似た5ヵ年条約調印。対立の解消を目指す。

7月13日

清国の天地会、懐遠を占領。

7月13日

婦人矯風会大会。神田青年会館。東郷昌武、平岩宜保、島田三郎、木下尚江「男女幸福比較論」(壇上から「平民新聞」を聴衆に示す)。菅野すが、大阪代表として参加。

18日、菅野、有楽町の平民社に堺利彦を訪問。以降、菅野は寄付金を出したり、大阪で読者会を組織したりする。


つづく


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