2025年6月8日日曜日

大杉栄とその時代年表(519) 1904(明治37)年6月12日~20日 「もし文明国が平和的な手段によって国際問題を解決し得なかったならば、彼等にとって大いなる恥辱である。(略)もし武力に訴えることが日露両国にとって恥辱であるならば、ただの傍観者として佇立していることは列国にとって更に大きな恥辱である。今こそ文明国にとって、極東アジアに平和をもたらすために何事かをなすべき時である。故にこの瞬間において、社会主義者は彼等のみが勇敢大胆に軍国主義に抵抗し得るが故に、その責任の特別な重要性を感じなければならぬ。吾人をしてアムステルダムに会同するわれらの同志が、日露戦争に関して適正な決議を通過すべきことを望ましめよ。」(第2インターナショナル大会に対する決議 『平民新聞』第32号)

 

常陸丸殉難記念碑(靖国神社境内)

大杉栄とその時代年表(518) 1904(明治37)年6月6日~12日 「然り、諸君の人道の主義と諸君の利害とは、今や諸君に向つて速かに平和快復の方法を講ぜんことを要求す。……戦争に干渉して以て速かに平和の快復に尽力するは、これ実に諸君の政府が当然なすべきの所にあらずや。而して諸君の政府にしてその連合の力を以てよく日露両国民に慫慂(しようよう)し、紛争葛藤の問題をへーグ仲裁裁判に委托せしむることを得んか、戦争は直ちに休止することを得べきなり。 吾人今や旦夕平和の福音を説くにおいて、……これをして効果あらしむるには一に欧米同志の……諸君がおのおの諸君の政府に迫りて、日露戦争休止のために適当の手段をとらしむるにあり。」(「欧米の同志に次ぐ」『平民新聞』第31号) より続く

1904(明治37)年

6月12日

(露暦5/30)ロシア、ガボン組合第1支部(ナヴァ支部)、プチーロフ工場近くの酒場。

6月12日

ロシア・ウラジオ艦隊、第4回出撃(ゲリラ活動)。

第1艦隊司令長官ベゾブラゾフ中将指揮の巡洋艦3隻。

15日未明、壱岐島北方に着。この海域の防禦は第2艦隊(上村彦之丞中将)が担当。

6月13日

北京公使館区域に関する議定書調印。

6月13日

午前6時、第2軍が得利寺方面を目指し、北上を開始。

6月14日

得利寺の戦い。ロシア軍が旅順との陸路連絡回復めざして反転するが、敗北。

14日、第2軍が得利寺付近に布陣するロシア軍と交戦。決着つかず。

15日、

8時頃、第4師団がロシア軍右翼に回り込む。

正午、騎兵第1旅団がロシア軍左翼に回り込む。

混乱したロシア軍が北方に退却する。

第2軍死傷1,145。ロシア死傷行方不明3,772

旅順を脱出した極東総督アレクセーエフは旅順艦隊臨時司令官ウイトゲフト中将に艦隊の旅順脱出・ウラジオへの回航を要求。ウイトゲフト中将はこの命令に反対。

第2軍は遼東半島を北上し、朝鮮半島から北上した第1軍、新たに編成された第4軍と共に遼陽に向けて進撃し、8月、遼陽において日露両軍が激突することになる。


得利寺の戦いについて、イギリスの6月16日付タイムズ(タイムス)紙は、まず全体の状況について説明した後に、


 「露軍の此運動は其理由を測知すること頗る難し」

 「露国縦隊にして若し薄弱ならんか即ち目的なくして大危険を冒すものならざるべからず」

 「其南下したる理由につきては自ずから尚ほ説明なかるべからざるなり」


と述べ、ロシア軍の南下を疑問視する声があったことが窺える。

中途半端な兵力を一部に割いたことはロシア軍の戦略的な失敗であった。

6月15日

午前9時、ベゾブラゾフ中将指揮ウラジオ艦隊、沖ノ島南方で塩大澳より戻る運搬船「和泉丸」を撃沈(死者7、負傷25、収容105)。

午前10時、遼東半島に向う輸送船「常陸丸」(総員1252)を砲撃。監督官山村中佐戦死。

午後0時25分、「常陸丸」停止。輸送指揮官近衛後備第1連隊長須知中佐戦死。負傷の橋本大尉・長尾中尉自決。残った兵士・船員は海中に逃れる。死者1,063、被救助189。

午後1時前、「佐渡丸」(総員1258)が2発の魚雷を受ける。

午後3時「常陸丸」沈没。「佐渡丸」は沈没を免れ漂流し、16日午前11頃から救助される。

戦死414、溺死259、捕虜32、被救助553.3隻の輸送船被害:死者1,743、捕虜121。

新聞は輸送指揮官で常陸丸船上にあった近衛後備歩兵第1連隊長・須知源次郎中佐の自刃と上村艦隊の出撃空振りを書き立てたため、国民は上村に対して不満を爆発させ、留守宅に投石があったり、切腹を要求する投書が舞い込んだりした。

「佐渡丸」には東清鉄道の軌間改築を担当する提理部員962人のうち865人が乗船。この攻撃によって、提理部員148人が死亡した。人員を補充して7月1日、再挙。

6月15日

和歌山県の高野山、女人禁制解除。

6月15日

(漱石)

「六月十五日(水)、「英文学概説」の試験をする。九時から始る。十二時までに二人しか答案出さぬ。午後二時まで答案を書いている者もいる。監督役に当る。」

「「夏目先生の『文學概説』の第三學期の試験があつた。學年末の試験なのである。問題は六つであったが、その中の二つだけが先生の講義の内容に関係のあるものであつたが、しかし、教へられたものを其儘に書いてはならない、批評を書くのだとの條件づきであつた。他の四題は一寸掴みどころのないものばかりで、いづれも批評的立場から書くことを要求されたものであつた。時間は無制限だとの事であつたから、皆慾張つて出来るだけ長い答案を書き出した。」(金子健二『人間漱石』)」(荒正人、前掲書)

6月15日

英・ブラジル、仲裁協定調印。英領ギアナ(現ガイアナ)の国境問題を解決。

6月16日

午前9時頃、ウラジオ艦隊、英国船「アラントン」を捕獲、ウラジオに向わせる。

午後2時頃、隠岐島沖で「第9運鉱丸」を停船させ「和泉丸」の捕虜23人を移乗させて去る。

19日午後8時ウラジオストク帰港。また、ウラジオ艦隊所属水雷艇3隻は、北海道・秋田県沿い日本海沿岸で小型船舶を拿捕・撃沈などする。

6月16日

(漱石)

「六月十六日(木)、野村伝四宛葉書に、散歩に出て、同学舎(本郷区台町三十六番地)の前を通り、野村伝四が試験準備をしていることを思う。ハンケチ一ダースとビスケット一箱を貰い(誰から貰ったか不明)、そのハンケチで汗を拭き、ビスケットを噛っている、(六月二十二日(水)には、一粒もない)また、転居したいから、良い家はないかと書く。(署名は、「千駄木の佳人某先生」)

六月十八日(土)付、野村伝四宛葉書(赤インキ書二十二日付も同様)に、「ビスケツトをかぢりて試験の答案を検査するにビスケツトはずんずん方付くけれども答案の方は一向進まない、物徂徠云ふ炒豆を喫して古人を罵るは天下の快事なりと余云ふビスケツトをかぢつて學生を罵るは天下の不愉快なりと傳兄以て如何となす

僕は一文なしの癖に近頃しきりに住宅の図案を考へて居る夫故に出物を讀んで居つても茶座敷や築山が眼に映じて書物がわからん、」(署名は「某先生より」)と書き、住宅の設計をしているとか、夏休みの前に新しい借家を見付け、夏中勉強したいと洩らす。」(荒正人、前掲書)

6月17日

大阪の第百三十銀行(松本重太郎)、突然休業・支払停止。西日本の経済が混乱。元老井上馨・桂首相・曽禰蔵相・松尾日銀総裁・坂谷大蔵次官・安田善次郎ら対応協議。

7月6日、政府、日本銀行より百三十銀行に600万円融資(2分、5年間据置き、10年返済)。7月11日業務再開。

6月19日

『平民新聞』第32号発行。

英文欄で第2インターナショナル(8月14~20日)大会に対する決議、発表。

「来る八月、アムステルダムに開かれる万国社会党大会に訴えるために、日本社会主義者は次のごとき決議を通過した。

『日露戦争は両国の資本主義政府によって行なはれ、その結果、日露の労働階級に甚大な苦難をもたらすが故に、日本社会主義協会は来る八月アムステルダムに開催される万国社会党大会の会員が、彼等の各政府を督励して日露戦争を能ふ限り速かに、停止せしむる手段を講じさせる決議を通過せんことを要請する。』

右の決議をなすに当り、吾人は欧米の同志諸君が彼等の各政府をして戦争に介入するために、ある直接的手段に訴えることを意味するものではない。しかし吾人は彼等がその筆と舌を以て、間接的に彼等の影響力を用い得ることを信ずる。"

もしアムステルダム大会が、この戦争を進歩と人道に反する大罪悪と糾弾する決議を通過するならば、世界の面前に社会主義者の態度を明白ならしむるのみでなく、戦争の終結に資するところ至大である。旅順口および鴨緑江における海陸の交戦は、すでに吾人に多大の蛮行を示したが、つい最近、遼東半島で戦われた戦闘はその残酷にかけて他を圧倒した。ロシア軍の死者が幾何かは不明であるが、わが軍の死傷者は四千五百を下らない。もし日本兵にして爾(しか)く剽悍無鉄砲でなかったならば、ロシア軍の要塞は少なくとも二ヵ月間は維持されたに違いない。要塞が十六時間の戦闘によって日本兵の占領する所となったのを見れば、その戦闘がいかに惨澹たるものであったか容易に想像し得られる。だが、これは更に大なる交戦の序曲に過ぎず、世界史上いまだ曽て知られなかったような恐るべき血闘は、多分両軍が奉天あるいはその附近で会戦する時に演ぜられるであろう。人道は何処にありや、文明は何処にありや。

もし文明国が平和的な手段によって国際問題を解決し得なかったならば、彼等にとって大いなる恥辱である。国際的紛争の解決のためにへーグの仲裁法廷に出ることは、列国にとって理想的でさえも無いのである。英仏は最近、仲裁法廷の援助を請うことなく彼等の植民地に関する紛争を解決した。これはランスダウンおよびデルカッセの秀抜なる政治的経綸、また英仏文明の高度を立証する。だが、もし武力に訴えることが日露両国にとって恥辱であるならば、ただの傍観者として佇立していることは列国にとって更に大きな恥辱である。今こそ文明国にとって、極東アジアに平和をもたらすために何事かをなすべき時である。故にこの瞬間において、社会主義者は彼等のみが勇敢大胆に軍国主義に抵抗し得るが故に、その責任の特別な重要性を感じなければならぬ。吾人をしてアムステルダムに会同するわれらの同志が、日露戦争に関して適正な決議を通過すべきことを望ましめよ。


6月20日

天皇、満州軍総司令部編成裁可。天皇直属総司令官参謀総長大山巌元帥、総参謀長児玉源太郎、参謀総長山県有朋。

6月20日

堺利彦、出獄

26日、堺利彦出獄祝園遊会。角筈十二社池畔梅林亭。出席150余。

午前5時に出獄。早朝だったが、平民社や社会主義協会の人々が20人ほど出迎え。しかし、妻の美知子は病気のため、出迎えに加わることができず、2ヶ月ぶりに会った娘の真柄は、父の顔を忘れていたという。幸徳秋水は病気で寝込んでいた。堺は自分の家に上がるより先に、秋水を見舞うために彼の家を訪ねた。

6月26日、堺の出獄歓迎を兼ねた園遊会が角筈十二社の池畔梅林亭で開かれ、150人余りの同志が集まった。発起人総代安部磯雄は、開会の挨拶で、「若し吾党の士の中に出獄者ある毎に歓迎会を開くことゝすれば、今後何百回こゝで歓迎会を開かなければならぬかも知れぬ」と述べる。堺はのちに『新版楽天囚人』(1927)で「安部氏のこの意見は、当時としては、誠に善く見透しのついた、適切な警告であった」と書く。

6月20日

島田三郎(51)、横浜・尾上町の指路教会での婦人矯風会主催時局問題大演説会で「露西亜は果して基督教国たる乎」を演説。

6月20日

(漱石)

「六月二十日(月)、東京帝国大学文科大学で、午前十時から十二時まで「英文学概説」を講義する。

六月二十一日(火)、東京帝国大学文科大学で、午前十時から十二時まで King Lear を講義する。午後一時から三時まで「英文学概説」を講義する。

六月二十三日(木)、東京帝国大学文科大学で、午前十時から十二時まで King Lear を講義する。」(荒正人、前掲書)


つづく


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