2025年6月21日土曜日

大杉栄とその時代年表(532) 1904(明治37)年8月30日~9月 遼陽会戦中の南部での戦闘 日本側2ヶ日間の戦傷11,891(旅順口第1回攻撃の被害に匹敵) 橘周太少佐(陸の軍神)戦死

 


大杉栄とその時代年表(531) 1904(明治37)年8月23日~29日 〈砲弾の補給に苦しむ日本軍〉 砲弾は、5月の南山の闘いで開戦時の備蓄が食いつぶされるおそれが出てきた。しかも6月になると、砲弾を製造するはずだった工場は、旅順要塞を攻撃するための「所要兵器」(大型の大砲用の弾薬と各種車両)を「新造若は改造」するせいで「其作業力の大半を奪はれたり」という状況になり、「野戦砲弾」生産の業務までは手が廻らない事態となる。 その後も相次ぐ戦いで弾薬を消耗しつづける日本軍は、「八月二十一日旅順要塞第一回の総攻撃失敗の結果第三軍は其の携行弾薬の約四分の三を消費し而して未だ明かならざる」という苦境に陥り、とうとうドイツのクルップ社・イギリスのアームストロング社といった外国の兵器会社に対し砲弾を注文して弾薬不足を補う事になった。 より続く

1904(明治37)年

8月30日

午前中、ロシア軍の抵抗激しく第4軍(第10・5師団)・第2軍(第3・6・4師団)の追撃進まず。

午後1時、総参謀長児玉大将は総司令官名で督戦。

午後3時40分前、第6師団(大久保春野中将)左翼第24旅団は首山攻撃開始するも、第23連隊長江口昌條大佐負傷し頓挫。

午後9時、この日の遼陽南方での戦闘終る。

8月30日

この日付け『東京朝日新聞』に掲載された「遼陽旅順比較」をする「某陸軍将校の談」。

旅順の戦闘は遼陽に比べれば戦局への影響は小さい。何故なら、「敵の兵力より見れば旅順は約四万なるも遼陽は十三個師団」だから。しかも、「旅順の敵は今や如何なる妙策を以てしても増援軍を得るの道已に絶えたるも、遼陽は然らず」である。「現在のものゝ外九月には欧露第一軍来るべく、十月には西比利亜第六軍団も来るべき予定の由なれば、今日の敵の優勢は将に益(ますます)優勢とならんとす」だ。「旅順は檻中の虎なり、牙を鳴らして荒れ廻るも畏るゝに足らず、命は已に我手中にあ」る。これに対して「遼陽は是れ野に放てる虎なり、今にして之を捕へずんは後患何辺(ねへん)に及ぶやも知る可らず」である。「敵は今迄連戦連敗したりと雖も、畢竟支戦たるに過ぎ」なかったが、「今度は主戦なり」との決意をもって、「遼陽に向つて大戦を開始した」のだ。

8月30日

朝、大杉栄(19)、臼井欣五郎の弟の案内で、雨の中、西川光二郎、山田金市郎と神奈川県の石橋山古戦場に行く。のち、東京に戻る。

8月30日

(露暦8/17)露、ガボン組合第2支部(ヴァシエフスキー支部)。


8月31日

首山(遼陽南部)攻略

午前3時20分、第3師団(大島義昌中将)第17旅団第34連隊(関谷銘次郎大佐)、148高地へ進撃(右に第1・2大隊、左に第3大隊)。第2・3大隊は第1大隊との連絡が途切れ、この日の攻撃は第1大隊(橘周太少佐)独力の攻撃で開始。

午前5時、第1大隊は敵前200mに到達。5時20分、突撃し第4中隊(中村昌中尉)20が第1塁を奪取。塁内には70余、頂上を目指すがロシア軍砲火激しく、橘少佐は負傷。内田精一軍曹が少佐を背負い下山するが、途中で負傷。

午前6時30分、内田軍曹は蘇生し第1塁がロシア軍に奪回されたのを知る。日没を待って退却するが、午後6時30分、橘少佐は絶命(「陸の軍神」)。第2大隊と行動を共にした連隊長関谷大佐戦死。第3大隊長国司精造少佐も負傷。

午前9時、この日午前6時30分迄に日本軍第1軍の太子河渡河の報を受け謝家屯のロシア軍第17軍団(ビルデルリング大将)司令部で緊急作戦会議(午前10時30分、第1軍右翼近衛後備歩兵旅団は本渓湖を占領)。

正午、第3師団第34連隊の第148高地攻撃失敗のため、第3師団第18・6連隊、第5師団第21・33連隊は北大山に進撃。第18連隊第2大隊長前田喜熊少佐ら死傷者続出。第6連隊第3大隊(高島友武少佐)が突撃。敵の同様をついて第1大隊第2中隊(松井中尉)小隊長市川紀元少尉らが第1塁を奪取。塁内は兵士4~500となり第2塁を攻撃。ロシア軍の砲火激しく頓挫。

午後7時、ロシア満州軍司令官クロパトキン大将、「満州軍第3号命令」発する。

午後9時、日本軍と対峙するシベリア第1軍、撤退開始。雨による悪路と日本軍砲火に難渋。

午後10時、シベリア第3・10軍も撤退開始。

午前2時過ぎ、第6師団第45連隊、首山占領。

午前3時、第3師団第33連隊が北大山占領。

日本側2ヶ日間の戦傷11,891(旅順口第1回攻撃の被害に匹敵)


第1軍の進撃。

前夜午後8時30分、第1軍(黒木為禎大将)第2師団(西寛二郎大将)第15旅団(岡崎生三少将)第30連隊、饅頭山東麓小隆起点確保。

午後10時30分、第2大隊(児玉市蔵少佐)が山頂に到達。三方からロシア軍が反撃、死傷者続出。

午前1時、ロシア側が退却を始めるが、反撃態勢を整える。

午前11時30分、第1軍第12師団(井上光中将)第12旅団が北方の烟台炭坑へ進撃。饅頭山133高地では第2師団第15旅団第16連隊第12中隊と第4連隊第1大隊(下林保武少佐)が苦戦。

午後2時20分、ロシア軍の攻撃激しく、下命により第4連隊第1大隊は133高地を退却。

午後2時30分、第12師団第12旅団は烟台炭坑に迫る。後続の第12・47連隊は五頂山確保。

午後3時、貴子山北方180高地を攻撃中の第14連隊第3大隊を側面攻撃のロシア第54師団長オルロフ少将と第2旅団長フォミン少将負傷し、ロシア軍は潰走。

午後8時、饅頭山の第30連隊(馬場大佐)にロシア軍が総攻撃。

午後10時、ロシア軍、饅頭山より退却。

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9月

韓国、京幾道始興、黄海道谷山で民擾。

9月

戦争報道により、「大阪朝日」「東京朝日」ともに発行部数を伸ばす。

明治37年上半期(4月~9月)で、1日平均部数で「大阪朝日」が152,400部で前年下半期より20,200部増、「東京朝日」は87,200部で5,100部増。

号外も発行され、各社の号外合戦の様相を呈す。「大朝」の場合、明治36年は25回であった号外が、37年は248回と激増、1日に4回発行したこともある。漱石の俳句に「号外の鈴ふり立る時雨哉」があるほど、号外はまちの風物詩でもある。

9月

愛国婦人会創立

9月

小川未明「漂浪児」(「新小説」)

9月

島崎藤村『藤村詩集』

9月

『文芸倶楽部』誌上で上田敏は「好戦論者と不好戦論者」と題し、自分の立場は非戦ではなく、不好戦だと述べる。

9月 -

(漱石) - "

「九月(日不詳)、坂本四方太来る。高浜虚子来る。連句を論じると坂本四方太も賛成である。三人で連句を作ることになり、高浜虚子から連句の規則を繰り返し教えて貰い、規則に合った句を作る。(高浜虚子と「俳体詩」を作ることになる。)

★九月頃、高浜虚子に誘われて、本郷座の新派や歌舞伎座へ歌舞伎を見に行ったりしたが、つまらないので帰る。能にも行く。能は退屈だが面白く思う。神経衰弱で鏡は困っている。」(荒正人、前掲書)


高浜虚子、夏目漱石を芝居に連れ出すが、漱石は一向に関心を示さない。

この年の9月のある日、虚子が夏目家を訪問。漱石は不在であったが、妻の鏡子が高浜に、またこの頃夏目は機嫌が悪くて、寺田寅彦にも頼んであるが、あなたも時々夏目をどこかへ遊びに連れ出してほしい、と言った。

間もなく虚子は本郷座の新派の芝居に夏目を連れて行った。夏目は不愉快そうな顔をしてしばらく芝居を見ていたが、やがて我慢できなくなったように、高浜に向って、君はいつもこんなものを見て面白がっているのですか、と言って帰ってしまった。

その次には彼を歌舞伎に連れて行った。すると夏目は、どこが面白いのです? と聞いたり、なぜあの役者はあんなに不自然な大きな声をして怒鳴るのかと言ったりした。だが、能楽に連れて行くと、漱石はそれを面白がり、能は退屈だけれども面白いものだ、と言った。

その頃、高浜は連句の研究に凝っていて、「ホトトギス」に「連句論」を発表した。「ホトトギス」仲間で高浜の連句論に賛成なのは坂本四方太(しほうた)で、反対は内藤鳴雪・河東碧梧桐。

夏目は連句に興味を示し、高浜からその方法を学びながら、一緒に連句を作った。

連句は二人以上の作家が短歌形式を二分した十七字と十四字の句を交互に作りながら、意味の連続した長い合作句を作るもの。

高浜が、それを利用して長い俳体詩を作ろうという提案すると、夏目は賛成して「尼」という題の俳体詩を作った。夏目の句は、華やかな調子の高いものが多かった。

そのあと夏目は、自分で五五調や五七調の新体詩を作るようになった。

彼はこの時期、自分の内部にあるものを表現する途があれば、何でもやって見たいと考えるほど、自己表現の衝動に溢れていた。

「ホトトギス」の仲間は、子規の生存中から、写生文を作って批評し合う山会を続けていた。文章の主目的は写生であるが、それには山がなければならない、という子規の意見によって名づけられた。会の主な出席者は坂本四方太、寒川鼠骨、河東碧梧桐、虚子などで、子規系の歌人の伊藤左千夫、長塚節なども時々出席した。

子規の親友である漱石を大切に扱っていた虚子は、淑石がしきりにものを書きたがっているのを見て取って、この明治37年の末頃、夏目に文章を書くことをすすめた。"


漱石、明治大学予科の講師となる。


「九月(日不詳)、明治大学(神田区駿河台甲賀町二番地、現・千代田区神田駿河台二丁目)予科の講師となる。週四時間(毎週土曜日)で月俸三十円。」

「上田敏も出講する。高等予科には、深田康算が出講する。「明治大學の高等豫科は私をして、著述以前講演以前の夏目漱石氏に近づかしめたといふ縁故もある。」(深田康筑)

月収三十円増額になったことは、漱石の家を潤す。英語科には、上田敏のほか戸川明三(秋骨)も教える。漱石は、教員室では同僚たちと殆ど口を活かない。(古沢安二郎)」(荒正人、前掲書)

9月

寺田寅彦、東京帝国大学理科大学講師嘱託となる。

9月

鈴木三重吉、東京帝国大学文科大学英文学科入学。漱石の講義を聴いて敬慕の念深める。

9月

トロツキー(25)、メンシェヴィキから離脱を宣言。「イスクラ」協力は再開。この時期、ロシア人亡命者から離れてミュンヘンで過ごす。

9月

秋、トロツキー(25)、「次は何か?」と問題提起。ゼネストのあと、プロレタリアートの蜂起が続くと主張。

9月

この時期、ロシアでは、ゼムストヴォ活動家や自由主義地知識人中心に「祝祭カンパニア」開始。会議・パーティを開き、議会創設・市民的自由獲得など読み上げ。すぐに袋小路に入る。

9月

有島武郎、ハーバード大学で歴史・経済を専攻。社会主義者金子喜一を知る。

9月

ジャワの女性運動家カルティニ、没(1878~)。

9月

英帝国国防委員会設置。

9月

パラグアイ、自由党のコロラド党政府に対する反乱開始.


つづく


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