1907(明治40)年
2月
-韓国、秘密結社「新民会」結成。安昌浩。
2月
満鉄の長春付属地買収。
この月、日露戦争中特別任務についていた鎌田弥助は、東京で、満鉄から長春付属地買収委託を受けた佐藤安之助少佐に誘われ中村副総裁に会う。中村は鎌田に佐藤少佐の仕事を援助するように依頼、鎌田が先発することになる。
長春は日本軍占領地域ではなく、新たに満鉄線の終点を作る事になり、ここに1区域の付属地を設定しようというもの。
鎌田は、三井物産の支店(森恪ら)と連携し用地買収交渉を勧め、やがて佐藤少佐も来着、9月迄に150万坪(約500ha)50余万円で買収。ここは東西に延びる長春停車場を挟んで南北に跨る土地で、幹線道路は幅約30~40m、上水道設備をもつ近代都市建設が開始される。
2月
田中正造、谷中村復活請願書を衆参議院議長に提出。
2月
「読売新聞」主筆竹越三叉、西園寺総理を囲む一流文士の集会の計画を思いつく。
うまくゆけば、それはヨーロッパ流のアカデミーを日本に成立させることになるかも知れない、と彼は考えた。
彼の考の起りは、紅葉の在社した時代のように、「読売新聞」に、一流の小説家を集めたいということ。前年暮頃から、夏目漱石を「読売」の定期的執筆者にしようと努力したが、それは成功せず、夏目漱石は「朝日新聞」に入社することになるらしいという風評が流れていた。この会合が成功すれば、漱石招聘よりも、もっと大きな文学上の事件になると思われた。
竹越は、この計画を西園寺に示し、西園寺の同意を得た。人選その他の詳細は竹越に一任された。
竹越は「読売」編輯室でそのことを持ち出し、その会には文士の中から誰と誰を呼んだらいいだろう、と雑談的に相談してみた。するとそこにいた2,3名の者から西園寺に呼ばれたって誰が行くものか」と冷笑するような声が出た。
この時期、「読売」には友人同士である正宗白鳥と徳田秋江が在籍していた。徳田は、無愛想な正宗と違って、口が軽く、人好きのするところがあった。竹越は、この徳田を主筆室に招いてその計画の話をした。
「西園寺が御馳走をして、文学者を呼ぶというから、誰がいいか、君考えて名前を書き出して下さい」と言たれたとき、徳田はすぐ、それは面白い事だから考えてみましょう、と言った。彼はその計画に熱中し、家へ帰って机に向い、文学者の名前を紙に書きながら、組み合せや釣合を色々に考えてみた。
しかし、徳田は西園寺の文士招待が実現する前の4月に「読売」を退社した。
〈徳田秋江と正宗白鳥〉
徳田はこのとき数え年31歳。徳田は「読売」に勤めて5年目の正宗白鳥と同時に、明治34年に早稲田大学を卒業。2人は同じ岡山県出身で3歳ちがい。早稲田大学卒業の直後に正宗は大学附属の出版部に月給15円で勤めていた。徳田は博文館に入り、田山花袋の下で「中学世界」の編輯助手をしていたが、半年ほどでそこをやめ、月給20円で早稲田大学出版部に入った。正宗は主任であるにかかわらず、徳田より月給が安かった。その上、徳田は怠け者で、校正その他の事務を全部正宗に押しつけ、すぐどこかへ出て行ってしまう。
正宗は1年足らずで出版部をやめ、翻訳をしたり少年物語を善いたりして1年を過ごした後、明治36年に「読売新聞」に入った。
徳田もまた早稲田の出版部をやめ、明治37年、数え年29歳のとき、廃刊の危機にあった「中央公論」編輯主任となった。彼は編輯所を小石川区小日向台町の自宅に移し、数え年22歳の東京帝大文科大学の学生滝田哲太郎を助手として仕事に奮闘した。徳田はこの仕事を半年ほど続けたが、「新公論」に圧倒され、散々な不成績を残したまま辞任した。
明治39年1月、新帰朝の島村抱月が「早稲田文学」を再刊すると、徳田は島村抱月のもとで働いた。それと同時に、徳田は正宗が主任をしている「読売」の毎月曜日の「文芸附録」に雑文を書いて小遣い稼ぎをしていた。
明治40年2月頃、徳田は「早稲田文学」編輯部を1年あまりでやめ「読売」に入社した。正宗は、遊び相手としては面白いが一緒に働きたくはないと思っていたこの友人を同じ社に迎えることとなった。
〈徳田の人選案〉
徳田秋江は二つの案を作った。
一つは三宅雪嶺、徳富蘇峰、森鴎外、坪内逍遥という硬派文筆家又は学者を主にした20名ほどの一群で、その中には蘆花、上田敏、抱月等も含まれていた。
更に彼はもう一つの案として、一部は前と重複しているが、純作家又は文壇的作家のリストを作った。それは、逍遥、鴎外、露伴、抱月、蘆花、上田敏、巌谷小波、内田魯庵、広澤柳浪、眉山、漱石、四迷、宙外、鏡花、風葉、天外、秋声、独歩、藤村、花袋等であった。
(日本文壇史)
2月
正宗白鳥「塵埃」(「趣味」)
正宗白鳥は本郷の東大前の森川町に下宿していて、電車で京橋の橋の袂にあった読売新聞社に通勤していた。読売新聞社は古風な煉瓦造りの二階建てであり、編輯室は二階、印刷室が一階であった。雨の日など正宗は和服の着流しに二重廻しを着て、高足駄で音を立てて編輯室へ上って来た。主筆の足立北鴎はこの時36、7歳、神経質な顔で、正宗に土足で上っては困ると言った。すると正宗はぶっきらぼうに、下駄箱へ草履を入れておくと無くなるからだ、と答えた。彼は入社当時15円の安月給で、外出のときは社の俥に乗って歩いたが、その車夫の月給は16円であった。
編輯室には、正宗白鳥より5歳年長で、もう8年もこの新聞社にいる上司小剣が社会部の編輯主任をしていた。上司小剣は温厚を人間で、小説を書こうという気持などは持たぬ忠実な記者であった。正宗は時々その上司と言葉を交わしたが、自分の仕事だけはさっさと片附けては出て行く不愛想な青年であった。冬になると、その編輯室の真中にはストーヴがたかれた。胃腸の弱い正宗は、京橋の東側に当る三十間堀の日進亭から取り寄せたパンとビフテキを昼食に食べた。この編輯室の隅に、小沢という40近い無口な校正主任がいた。小沢は気の小さい律義者で、四谷の自宅から銀座一丁目の社まで、毎日歩いて通っていた。原稿の読み合せをする時の外、よくよくの用がなければものを言わぬ男であったが、社の宴会があって酒が少し入ると、人が変ったように気が大きくなり、幹部の前に坐って気焔を吐いては悩ませる癖があった。そして翌日になると、また別人のように無口になって仕事以外に何も考えない人間に見えた。
明治40年2月、正宗白鳥は、雑誌「趣味」に、この小沢校正主任をモデルとして「塵埃」という短い小説を書いた。その前月の1月号の「新小説」に彼は「醜婦」という小説を葺書いていたが、その作品よりもこの「塵瑛」 の方が好評であり、この作品の写実的手法の確かさが高く評価され、初めて彼は新進作家の一人として認められるようになった。このとき彼は数え年29歳であった。(日本文壇史)
2月
大杉栄の父、東が萱(かや)と再婚。静岡県安倍郡清水町(現、静岡市)に住み、のち三保村に移る。
2月
岡山製紙株式会社創立。資本金50万円。
2月
製紙連合会より印刷局抄紙部の拡張廃止を請願。3月印刷局抄紙分工場新設工事に着手。
2月
富士製紙、日本製紙を合弁。資本金1千万円となる。
2月
北海道人造肥料株式会社創立(函館)。資本金100万円。
2月
ロシア外相、日露協商案提案。
2月
ロシア、第2国会開設。
2月
英エドワード7世、パリ、マドリード、ローマを訪問。
つづく

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