1907(明治40)年
2月12日
政界革新同志会、組織化決定(3月5日発会式)。この日、猶興会・同志記者倶楽部・国民倶楽部・国民作振会・維新倶楽部・国家社会党・江湖倶楽部・岡山鶴鳴会・同志会9団体代表が協議。
猶興会:明治38年12月、同攻会全員と有志会大半が合同し政交倶楽部(36名)結成、1年後、猶興会と改称。
有志会は明治37年11月、非常時特別税法に反対した都市部出身議員が、同年末島田三郎・田口卯吉を中心に結成(都市商工業者代表)。同攻会には河野広中・小川平吉ら日比谷国民大会のリーダが含まれる。
2月12日
菅野スガ・福田英子・堺為子・今井歌子ら、女子の政治結社・集会などのへの参加を求める請願(治安警察法改正)署名223名分を衆議院に提出(衆議院議員江原素六に手渡す)。
27日衆議院請願委員会可決。
3月16日衆議院本会議可決。
27日貴族院本会議否決(賛成4、反対多数)。
2月12日
遣英答礼大使・伏見宮貞愛親王、出発。
2月12日
三菱造船所、争議
2月12日
陸軍軍服、カーキ色となる
2月12日
本野公使、露側に日露協商締結に同意の旨回答。
2月12日
流刑地に移送中のトロツキー、ベリョーゾフに到着
「われわれはチュメーニまで鉄道で行った。チュメーニからは馬ソリになった。14人の流刑囚に加えて、52人の護送兵がおり、さらに大尉と警察署長、コサックの下士官がいた。約40台ものソリをつらねて目的地に向かった。チュメーニからトボロスクを経由してオビ河に沿って道はのびていた。私は妻に宛てて書いた――。
『このところ毎日、90~100ヴェルスタづつ、すなわち緯度にして1度づつ北に向かっている。このようにどんどん距離を進んでいるおかげで、文化が薄れていくさまが――そもそも文化と言えたらだが――、鮮烈な形ではっきりとわれわれの前に現われる。日々われわれは、一歩また一歩と極寒と未開の帝国へと下っていっているのだ』。
チフスが猛威を振るっている地方を通り過ぎて、33日間もかけてうやくわれわれは、1907年2月12日にベリョーゾフに到着した。そこはかつて、ピョートル大帝の盟友であったメニシコフ公が流刑された地である。ベリョーゾフでわれわれは2日間ほど滞在することになっていた。流刑先のオブドルスクまでまだおよそ500ヴェルスタもあった。われわれは自由に付近を散歩した。当局もここまでくれば逃亡を心配することはなくなった。帰り道はオビ河に沿って1本しかなく、電線もそれに沿っていた。どんな逃亡者も追跡されて捕らえられるはずであった。」(『わが生涯』)
2月13日
ロンドンで、婦人参政権要求デモ。
2月14日
田添鉄二「議会政策論」(日刊「平民新聞」)。~15日。
「議会政策も直接行動もともにこの階級意識覚醒の有力なる方便」。
運動方針は、①平民階級の教育、階級的自覚の喚起、②③平民階級の経済的、政治的団結運動、④議会政策、とすべき。
2月15日
漱石「漱石一夕話」(談話筆記)〔『新潮』6巻2号2月号〕
2月16日
長崎造船所スト。~19日迄。
2月16日
米上院、「ルール修正」(日本移民の転航禁止)を含む1907年新移民法可決。18日下院可決。20日大統領が裁可。之により日本学童排斥問題解決。
2月17日
社会党第2回大会
神田錦輝館。出席64。来賓徳富蘆花・奥宮健之。午後1時50分議長竹内余所次郎開会宣言。党則第1条「国法ノ下ニ社会主義ヲ主張ス」を「社会主義ノ実行ヲ目的トス」と改正。
評議員20名改選。堺利彦(38)、幸徳伝次郎(37)、西川光次郎(32)、斉藤兼次郎(46、毛筆用金櫛職)、野沢重吉(50前後、人力車夫)、藤田四郎(44、牛乳店主)、田添鉄二(33、英語塾経営)、松崎源吉(35、売薬業)、椎橋重吉(31)、森近運平(28)、深尾韶(28)、岡千代彦(35、印刷工)、竹内余所次郎(43、薬剤師)、幸内久太郎(44、親方金物職)、石川三四郎(32)、山口義三(25)、樋口伝(35)、安井有恒(44、青山学院事務員)、安中逸平(44、葉茶屋)、添田平吉(30、流行歌呼売)。
■荒畑寒村「続平民社時代」より
〈決議案〉
わが党は現時の社会組織を根本的に改革して生産機関を社会の公有となし、人民全体の利益幸福のためにこれを経営せんと欲するものなり。わが党はこの目的を持し、現時の情勢の下において左の件々を決議す。
一わが党は労働者の階級的自覚を喚起し、その団結訓練につとむ。
一わが党は足尾労働者の騒擾に対し、ついに軍隊を動かしてこれを鎮圧するに至りしを遺憾とし、これを以て甚だしき政府の失態なりと認む。
一わが党は世界における諸種の革命運動に対し、深厚なる同情を表す。
一左の諸問題は党員の随意運動とす。
イ 治安警察法改正運動
ロ 普通選挙運動
ハ 非軍備主義運動
二 非宗教運動
この決議案に対して予期された通り、田添と幸徳から修正案が提出された。
田添案は、第二項「足尾労働者」云々の前に、「わが党は議会政策を以て有力なる運動方法の一なりと認む」の一項を加え、そして「後段(ロ)普通選挙運動の文字を削除すべし」という。
幸徳案は第一項「わが党は」の次に「議会政策の無能を認め専ら」の十二字を加え、また同じく(ロ)の一項を削除しようとするもの。
田添、幸徳が夫々演説し、その梧、代議員数人の賛否の討論が行われ、前後3時間を費して採決の結果、田添案2票、幸徳案22票、評議員会案28票で原案が可決成立した。
〈いずれが是か、いずれが非か〉
堺は19日の『平民新聞』紙上で、「この政策問題はこの決議があったにも拘わらず、実はいまだ不定の状態にあった」と言う。
山川均は20日の紙上で「日本現時の社会主義運動は今ちょうど議会政策と直接行動とを、自由問題とする程度にある」と言うように、当時の社会党はこの重要な運動方針をまだ党員の「随意運動」とする意識的段階を出でなかったと書いた。また後年この論争に関して、
何ら大衆と接触がなく、大衆的運動の観念すら持たなかった者にとっては、革命の手段として直接行動を採用することは議会政策を弊履(へいり)の如く捨てしむるのと全く同様に、極めて容易簡単なことであった。恐らくは多くの青年の中には、革命を遂行するためではなくて自らがより革命的であることに満足するために、威勢のよい直接行動論に左袒(さたん)したものが少なくないだろう。(少なくとも私はそうであった。もし私が革命をただ機械的に理解していないで、真実にマルクス主義的に理解していたならは、当時私のとった態度には大きな相違があったであろうと思う。)議会政策対直接行動の問題は戦術上の問題であるが、大衆運動のないところには戦術上の問題はなかった。当時われわれは実践とは全然離れて、革命の理論について闘争をおこなった。
山川均にして既に然り、年少浅慮なる著者の如きがその「多くの青年」の一人であったことは、改めて言うまでもないだろう。
(続平民社時代より)
大杉栄、議会政策を否定した幸徳秋水の修正案に賛成する。

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