2025年12月4日木曜日

大杉栄とその時代年表(698) 1906(明治39)年12月27日~31日 石川啄木(20)長女京子誕生 「・・・こひしきせつ子が、無事女の児一可愛き京子を産み落したるなり。予が『若きお父さん』となりたるなり。天に充つるは愛なり。」(12月30日の日記)  

 

石川啄木

大杉栄とその時代年表(697) 1906(明治39)年12月16日~26日 第23議会招集 原敬と山縣派との闘い(郡制廃止問題) 衆議院では24票差で通過 貴族院では委員会で9対4で勝利、本会議で108対149で否決 原は、政友会の力の及ばぬ貴族院でも善戦し、「山縣の貴族院における勢力も驚くべき程のものにはあらざるが如し」と自信を強める より続く

1906(明治39)年

12月27日 

(漱石)

「十二月二十七日(木)、本郷区西片町十番地ろノ七号(現・文京区西片一丁目十二、十三番)に転居する。家賃二十七円。(まもなく三十円)松根東洋城・寺田寅彦・小宮豊隆・中川芳太郎・鈴木三重吉・野間真綱・野村伝四・野上豊一郎・皆川正禧ら手伝う。(森田草平は来たかどうか分らぬ)菅虎雄は馬力の世話をする。夕食後、鈴木三重吉と小宮豊隆は、箱火鉢を囲んで心中がしたいとかしたくないとか、夜遅くまで話す。小宮豊隆は、この日以来、鈴木三重吉に兄事する。

十二月二十八日(金)、午前、鈴木三重吉来る。書物や家財を片付ける。

十二月二十九日(土)、鈴木三重吉・小宮豊隆、一日がかりで障子を張り替える。(各自に手当を五円ずつ支払う)

十二月三十日(日)、湯浅廉孫に『俳句集』の刊行を断る。


その頃は貸家の払底しているうえに、漱石は学期試験で忙しかったので、鏡は周旋屋や御用聞きに頼んだり、後には自分でも出歩いたりして探す。二、三日前に春陽堂の本多直次郎(嘯月)の住む動坂の付近で、田端一群を眺望する座敷あり、間数も十あったので、漱石は見に行こうとしていたが、その前日に他と契約できたので断念する。二葉亭四迷も明治三十八年三月頃に、本郷区画片町十番地にノ三十四号に転居している。五、六百メートルしか離れていない。風呂屋で一緒になることもある。坂の下には、樋口一葉が明治二十九年十一月二十三日(日)に死去した家がある。二葉亭四迷と近いことは知らなかったらしいが、樋口一葉については、うすく知っていたらしい。(森田草平は、明治三十六年十一月、本郷区丸山福山町四番地伊藤ハル方に下宿し、馬場孤蝶から樋口一葉の旧居かも知れめと教えられ、自分の将来が約束されているように思い、感激する。)


鏡は最後まで残り、人力車に乗って貴重品を運び出そうとしていた。そこに皆川正禧かけつけ、ボンボン時計を運んで貰う。これは、漱石が英国留学から帰った時、鏡の実家中根家に出入りする重夫に頼んで買って来て貰ったもので、価格は三円であった。」(荒正人、前掲書)


この年(明治39年)末頃、漱石は、作家としてほぼ完全な自信を持つようになった。文士としての地位も、それまでに書いた「吾輩は猫である」「倫敦塔」「坊っちゃん」「草枕」などによって確立した。彼の身辺に集る文学好きの学生たちや俳人仲間の評価には、身贔屓や阿諛が混ざっているにしても、自分の作品が現代の智識階級にどれぐらい訴える力があるかを、測ることも出来た。

それとともに、10年あまり前熊本の第五高等学校の教授をしていた頃から時々心に浮んでいた、教師をやめて自由な著作家の生活をしたいという欲求が、はっきりした具体性をもって彼の心を占めるようになった。彼は教師をやめ、文学者として生活したいと考えた。学期毎に試験の答案を採点するとき、前年(明治38年)9月から続けている「十八世紀英文学」の講義原稿を準備するとき、教師としての仕事が無意味に思われて、甚しく億劫であった。第一高等学校で受け持っている英語の授業や、文科大学で科外に教えているシェイクスピアの講読などは、比較的楽な仕事であったが、きまった時間に出かけて、学生たちの前で喋るということがまた重苦しく思われた。

漱石の文科大学講師としての年俸は800円、第一高等学校教授としては年俸700円を得ていた。1月当りの収入は125円である。子規は、明治20年頃東京大学の学生として、将来50円の月給を取れればよいと空想したが、死ぬ少し前の明治35年には新聞「日本」の月給が40円になり、「ホトトギス」の経営に当っていた虚子から選科その他として10円の手当てをもらったので、月収は50円となった。漱石は 第一高等学校教授としての年俸700円だけでも、それを上廻る収入であった。

しかし、当時の夏目家の家計は膨脹していて、125円の月収では生活ができなかった。子供時代の養父塩原昌之助が落魄して時々金をせびりに来るばかりでなく、夏目家の一族の中にも何らかの援助をしなければならぬ者が絶えず、妻の実家中根家もまた生活に困って漱石をあてにした。子供は4人あり、来客は多く、妻の性格は派手であったので、出費は目に見えて増した。それで漱石は、明治37年春から明治大学にも出講して月30円の収入を得ていた。

その三つの収入の合計155円が夏目家の生活費であり、少しの余裕もなかった。明治38年から原稿料や印税の収入が次第にふえていたので、その分だけ家計に余裕が出ていた。しかし彼が最も多く書いた「ホトトギス」は稿料の安い雑誌であった。「吾輩は猫である」の第1回の稿料は13円ほどであった。「猫」の評判が高くなるに従って虚子は漱石の稿料だけを特に高く支払った。明治39年4月、「猫」の第10回目に対し稿料は38円50銭であり、同時に載せた「坊っちゃん」の稿料は148円であった。

「猫」の10回は80枚前後であり、「坊っちゃん」は300枚ほどあるから、この時の稿料は1枚50銭の計算と推定される。しかし、この月は漱石が珍しく大量の作品を一時に発表した時であるから、毎月このような200円近い原稿料を得ることができるとは考えられない。またこの明治39年、漱石が「新小説」に書いた「草枕」の原稿料は1枚1円であり、「中央公論」に書いた「二百十日」の原稿料は1枚1円20、30銭であった。ともに300円前後の収入となった。だが文士の地位は極めて不安定なものであり、一時の収入をもって学校の教師の安定した俸給に比較することはできなかった

漱石は、明治38年から39年にかけて、しばしば人に、学校の教師をやめて文士として立ちたいと語り、また知人あての手紙にもその旨を書いた。しかし彼には、今の膨脹した生活班を文筆だけで賄うことができるとは考えられなかった。

江見水蔭は、明治30年代には完全な通俗作家であり、一方で浪費をしなから一方では濫作をするという生活をしていた作家であるが、彼が最も収入の多かった明治28年の収入総額は803円64銭である。この程度の金額が一応名の通った作家の年収だから、専門の文士が売文だけで暮すのは、容易なことでなかった。明治38年島崎藤村は「破戒」を書いているとき月30円で生活していた。だが、そのために子供を栄養不良にして死なせる結果になった、と言われた。それに較べれば漱石の明治39年の収入は、学校から1860円、「猫」を5回分で約250円、「草枕」、「坊っちゃん」、「二百十日」で約750円、合計年収が2860円であるから、膨大なものとなる。稿料の分だけ夏目家は余裕ができていた。当時米1升は23銭であり、大工の1日の手間は1円であった。30円で一家族が暮すのはかなり窮屈であり、50円から60円が智識階級人の安定した生活を支えるに足りる収入であった。明治39年頃の夏目家のように、三つの学校の俸給と流行作家としての収入との両方によって一度膨脹してしまった家計を縮小するのは難かしいことであった。


12月28日

エリフ・ルート米国務長官、青木周蔵駐米大使に日米相互移民禁止協約締結を提議。

12月29日

明治製糖株式会社設立。本社台湾台南市、資本金500万円。取締役浅田正文ら。

1907年8月、蔴荳製糖を買収し事業開始。1910年6月、維新製糖買収。

12月29日

山本安英、東京に誕生。

12月29日

石川啄木(20)、長女京子誕生。

「・・こひしきせつ子が、無事女の児一可愛き京子を産み落したるなり。予が『若きお父さん』となりたるなり。天に充つるは愛なり。」(12月30日の日記)

12月30日

サンフランシスコ上野領事より革命事件の報告。

12月30日

第1回帝劇創立委員会。

12月30日

全インド・ムスリム連盟創立大会開催(ダッカ)。議長ウィカールル・ムルク。英への忠誠、ムスリム権益擁護などの目標採択。

12月30日

イラン国王、10月7日からの初議会で起草された自由憲法草案に署名。基本法(憲法)第一部公布。31日、国王没。

12月31日

(漱石)

「十二月三十一日(月)、大晦日。『読売新聞』に、来年から特別寄書家として、創作・批評を掲載するという「社告」発表される。」(荒正人、前掲書)


12月下旬

(漱石)

「十二月下旬(日不詳)、鈴木三重吉の下宿を訪ね、下宿代二か月分八、九十円不足していると云うので、第一高等学校からの賞与を、滞っている下宿代の一部にするよう渡す。鈴木三重吉は父から貰うからと断る。本当に貰えるのか確かめ、持ち婦る。(鈴木三重吉「漱石先生」『読売新聞』「故夏目漱石追悼號」大正五年十二月十七日)」(荒正人、前掲書)


つづく

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