1907(明治40)年
2月18日
三菱長崎造船所職工800人、賃上げで同盟罷業。~20日。
2月18日
(漱石)
「二月十八日 (月)、講義休む。」(荒正人、前掲書)
2月18日
大杉栄「エスペラント語講義 第八回」(『語学』)
2月18日
米下院、新移民法可決。
20日、大統領、裁可。
24日、日米、移民に関する紳士協定を結ぶ。
2月19日
「幸徳秋水氏の演説」「日本社会党大会」(「平民新聞」第28号)。
20日、発売頒布禁止・同号差押さえ処分。発行兼編集人石川起訴、禁固4ヶ月。
「日本社会党の大会が終ると早くも二月二十日、前日発行の『平民新聞』に掲載された大会の決議、及び幸徳秋水の演説は新聞紙条令第三十三条に違反するとして発売頒布を禁止された上、裁判所に告発された。超えて同二十二日、社会党大会の決議が「安寧秩序に妨害ありと認むる」として、内務大臣から日本社会党禁止の命令が発せられた。
幸徳の演説記事が発売禁止及び告訴となったのは、革命的手段としてゼネストを鼓吹したものとの認定、また大会の決議が社会党禁止の理由とされたのは、大会が「本党は国法の下に社会主義を主張する」という党の綱領を、一層明瞭に「本党は社会主義の実行を期す」と改訂したからである。」(続平民社時代)
2月19日
片山潜、帰国。
2月19日
警視庁、自動車取締規則を制定。自動車運転免許第一号が発効
2月19日
郡制廃止法案、衆議院に提出。
3月21日、貴族院で否決。
2月20日
「東京朝日」主筆池辺三山、この頃、漱石に入社の可能性を打診。村山・上野良社長に漱石招聘を伝え、五校時代の漱石の教え子坂元雪鳥(東京帝大生、時々「朝日」に寄稿」を通じて漱石に確認。24日、雪鳥が漱石を訪問、入社に前向きな返事を貰う。
東京朝日の主筆池辺三山が夏目漱石の入社を経営陣に薦める書簡(2月20日)。
書簡の前半は、当時熊本第六師団の法官部に勤めていた渋川玄耳が円満に陸軍を退官できそうで、すぐにも朝日に入社する見込みを述べている。渋川玄耳は後に東京朝日社会部長として活躍する。その後、三山はこう記す。
「さて昨今流行第一の文学家小説家夏目漱石君二百円くらいの俸給ならば大学教授を辞職して入社いたし候べき見込有之、此際断然招聘如何と存じ候。その人物及び伎倆は鳥居君承知に候、御聞取奉希候」。
(漱石)
「二月二十日 (水)、『東京朝日新聞』主筆の池辺吉太郎(三山)、村山龍平・上野精一両重役に、渋川柳次郎(玄耳)の入社予定を報告し、その日に白仁三郎(坂元雪鳥)に依願して、夏目漱石に面会を申し込む手紙を出す。
二月二十一日 (木)付で、二十四日(日)午前十一時と十二時の間に会いたいと白仁三郎(坂元雪蔦)宛に返事を出す。」(荒正人、前掲書)
2月20日
フッ素研究でノーベル化学賞受賞、仏モアッサン(54)、没。
2月20日
米大統領、新移民法を裁可。
2月21日
治安警察法改正請願署名223名分、衆議院議員江原素六に手渡す。
2月21日
ルーマニア大農民反乱開始。
2月22日
奥村組創業。
2月22日
日本社会党、内相命令により「安寧秩序に妨害ありと認む」との理由で治安警察法第8条第2項により結社禁止命令。
2月22日
菅野須賀子妹秀子(21)、没。
2月22日
(漱石)
「二月二十二日(金)、東京帝国大学の事務所へ、研究科在学の川井田勝助の徴兵延期のため在学証明書を貰いに行ったところ、研究科生は東京にいなければならぬという規則があることを知る。川井田勝助は、広島県江田島海軍兵学校丙号宿舎に住んでいる。川井田勝助宛手紙に、「もし胡魔化せば小生が責任となる。あらはれゝぼ君は忌避となる。よろしくない事と思ふ。」と書き、研究科を退学し、徴兵検査を受けたほうがよいと勧める。
二月二十三日 (土)、鈴木三重吉宛に、次の手紙を出す。「拝啓書物の名前は愈千代紙と御定めの由千代紙は至極思つきと存候表紙の意匠は東洋城擔任の由先日の面令の折色合模様等逐一講釈を承はり候校正も小宮氏引受のよし是又好都合に候発刊の日は君もうれしく候両人も嬉しく候小生もうれしく候さて頂戴の栄螺は大に結構あれも甚だうれしく候 以上」。(鈴木三重吉は、この手紙をそのまま『千代紙』の序(四月一日)に使っている)」(荒正人、前掲書)"
2月22日
露外相、本野公使に日ロ協商案を提示。
つづく

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