2025年12月18日木曜日

大杉栄とその時代年表(712) 1907(明治40)年3月10日~15日 3月10日 内村鑑三、福田英子を破門。日曜集会参加差止め。 13日「福田英子破門さる」(「平民新聞」)。 15日、福田英子「内村先生に上る書」「同じ道踏む人々に代りて」(「世界婦人」)。

 

福田英子

大杉栄とその時代年表(711) 1907(明治40)年3月5日~9日 朝日新聞が漱石にオファーした月給は200円: 主筆の池辺三山は交際費含め270円、経済部長松山哲堂が140円、創刊以来の古参編集長佐藤北江130円、ベテラン小説記者半井桃水80円、新入社員美土路昌一30円。主筆を除きいずれも漱石よりはるかに低い。 より続く

1907(明治40)年

3月10日

日本、清国吉林に領事館開館。

3月10日

内村鑑三、福田英子破門。日曜集会参加差止め。

13日「福田英子破門さる」(「平民新聞」)。

15日、福田英子「内村先生に上る書」「同じ道踏む人々に代りて」(「世界婦人」)。

3月10日

大杉栄、上司小剣・雪子宅を訪問

3月10日

石井桃子、生まれる

3月11日

「三月十一日(月)、白仁三郎(坂元雪鳥)宛、三度めの手紙を出し、池辺吉太郎(三山)に会いたいこと、及び入社の具体的条件を列記する。」(荒正人、前掲書)  


3月11日付け漱石の白仁三郎への手紙

「拝啓先日御話しの朝日入社の件につき多忙中未だ熟考せざれども大約左の如き申出を許可相成候へば進んで池辺氏と会見致し度しと存候

一小生の文学的作物は一切を挙げて朝日新聞に掲載する事

一但し其分量と種類と長短と時日の割合は小生の随意たる事。(換言すれば小生は一年間に出来得る限り感興に応じ又思索を見出して凡てを朝日新聞に致す事。但しもとより文学的の述作故に器械的に時間を限る能はず。小説抔にても回数を受合う訳に行かず。時には長くなり又短かくなり。又は一週に何度もかき又は一月に一二度しか書かぬ事あるべし。而して小生のやり得る程度は自己にも分らぬ故先づ去年中に小生がなし得たる仕事を以て目安とせば大差なからんかと存候(略)

一報酬は御申出の通り月二百円にてよろしく候。但し他の社員並に盆暮の賞与は頂戴致し候。是は双方合して月々の手宛の四倍(?わからず)位の割にて予算を立て度と存候(略)

一小生の位地の安全を池辺氏及び社主より正式に保証せられ度事。是も念の為めに候。大学教授は頗る手堅く安全のものに候故小生が大学を出るには大学程の安全なる事を希望致す訳に候。(略)」


3月11日

ブルガリア、首相ニコラ・ペトコフ、無政府主義者に暗殺。

3月12日

フィリピン、独立を主張する諸政党が合同、国民党(ナショナリスタ)結成。

3月13日

「三月十三日(水)、正午近く、第一高等学校に白仁三郎(坂元雪鳥)訪ねて来る。

三月十四日(木)、東京帝国大学文科大学の講義休む。」(荒正人、前掲書)  


3月13日

米で株式市場が大暴落。1907年恐慌発生。

3月13日

米国大統領令を以て限地旅券を所持して米本土に渡来する日本人及び朝鮮人の入国を拒絶。

3月13日

米国サンフランシスコ學務局、日本児童の復校許可を協議。

19日、登校を許可。

セオドア・ローズヴェルト大統領が、連邦議会で審議中の1907年移民法に修正を加え、ハワイ等を経由しての日本人移民を禁止することと引き換えに、サンフランシスコ市に決議を取り消させる。

3月14日

福田英子、逸見斧吉夫妻・遠藤友四郎らと谷中村慰問。

3月14日

石川啄木の義兄山本千三郎、北海道鉄道株式会社中央小樽駅長に就任。

3月14日

米大統領令で、日本人労働者閉め出す。

3月14日

米内陸水路委員会任命。

3月15日

漱石(40)、池辺三山の訪問により朝日新聞社入社を決意。

翌16日、入社承諾の手紙が届く。

17日、三山から漱石へ手紙で19日の会食招待。

4月2日、入社。


「三月十五日(金)、東京朝日新聞社主筆池辺吉太郎(三山)、訪ねて来る。入社の契約を結ぶためである。(この時、入社を決意する)東京朝日新聞社入社を決める。月給二百円。賞与二回(うち六月に五十円の特別賞与)、社へ顔出すのは月二回、新聞連載始ると欠勤。


京橋区滝山町(現・中央区銀座六丁目六番)にある。社員(編集・営業・印刷)は百三十人足らずであった。月俸は主筆池辺吉太郎(三山)が百七十円、編集長佐藤真一(北江)が百二十円、政治部長松山忠二郎が百四十円、社会部長百二十円。小説の担当は、漱石二百円、半井桃水八十五円、武田仰天子五十五円で、画家は石田年英九十円、中村不折七十円、瀧精一博士六十円であった。新入社員、共土路昌一は三十円である。渋川柳次郎(玄耳)は、報道を第一にし、艶種記事を一掃した近代的新聞を作成しようとしていた。(荒正人、前掲書)  

「三月十五日池辺三山は漱石を訪問した。池辺は容貌魁偉な人物である。夏目は池辺に逢ったとき、何となく西郷隆盛もこんな男だったろうと思った。三山池辺吉太郎の父は池辺吉十郎で、西南戦争のとき西郷隆盛の旗挙げに応じて参加し、戦死した著名な人物であった。この時池辺三山は数え年四十四歳であった。漱石は朝日入社の最後の決定をするためには、大阪へ行って社主村山龍平や鳥居素川に逢わねばならないと思っていたが、入社の意志は池辺と逢った時に決定したのであった。

三月十九日、池辺は夏目を招き、渋川玄耳その他の人々とともに有楽町中山一位局横丁の日本倶楽部で会食をした。

三月二十五日、夏目は文科大学あてに「小生儀今般一身上の都合により文科大学講師の解嘱を希望致候につき可然御取計相成度此段相願候也」という辞表を出した。大学の事務当局は、それを「文科大学講師ヲ免セラレ度候ニ付御許可相成度此段相願候也」と訂正して返送して来た。許可してもらってやめるというその文言は承服しかたいものがあったか、夏目はその通り書き直して提出した。」(『日本文壇史』)


3月15日

片山潜(47)、横浜・羽衣座での対米同志会主催の対米問題大演説会で演説。

3月15日

樺太庁官制公布。軍政廃止、内務省管轄。

3月15日

フィンランドで最初の議会選挙( - 3月16日)。女性候補が出馬した世界で最初の選挙であるとともに、普通選挙権が適用されたヨーロッパで最初の選挙となる

3月15日

ガブリエル・ヴォアザンにより、初めて復葉飛行機の発明に成功する(フランス)


つづく

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