2025年12月14日日曜日

大杉栄とその時代年表(708) 1907(明治40)年2月24日 漱石の朝日招聘 「二月二十四日(日)、午前十一時三十分(推定)白仁三郎(坂元雪鳥)来て、朝日新聞社(大阪朝日新聞社・東京朝日新聞社)へ入社の件に関し最初の予備交渉を試みる。(午後三時頃(推定)、二葉亭四迷(本郷区西片町十番地にノ三十四号)の家で、渋川柳次郎(玄耳)・弓削田精一待っており、白仁三郎(坂元雷鳥)の来るのが遅いと迎えが来る。白仁三郎は、交渉の結果を報告する。二葉亭四迷も喜ぶ。)」(荒正人)

 

鳥居素川

大杉栄とその時代年表(707) 1907(明治40)年2月23日 有島武郎、ロンドンでクロポトキンを訪問 クロボトキンは、「長く待たしたね」と言いながら入って来た。写真で見ていたとおりの広くて高い額、白く垂れた頼髭と顎類、厚みのある形のよい鼻、眼鏡の奥で輝いている灰色の目など、写真にそっくりであった。しかし逢って見て分るのは、清廉な心とよい健康とを語るような艶々とした皮膚、60幾年の辛酸に耐えて来たその広く大きな胸を包んでいる単純な服装などであった。厚く大きく、そして温い手で強く握手をされたとき、武郎は目に涙の浮ぶのを感じた。 より続く

1907(明治40)年

2月24日

この日午前、坂本雪鳥(白仁三郎、前年東大より東京朝日入社、五高教授時代の熊本での俳句会で知合う)、朝日入社の可能性探るべく漱石を本郷西片町に訪問。漱石の反応良好。

3月4日、漱石から三山に会いたい旨の手紙が届く。

7日、雪鳥は漱石を再度訪問。入社条件提示。

11日、再度漱石より三山との面会意向の手紙。


「二月二十四日 (日)、午前十一時三十分(推定)白仁三郎(坂元雪鳥)来て、朝日新聞社(大阪朝日新聞社・東京朝日新聞社)へ入社の件に関し最初の予備交渉を試みる。(午後三時頃(推定)、二葉亭四迷(本郷区西片町十番地にノ三十四号)の家で、渋川柳次郎(玄耳)・弓削田精一待っており、白仁三郎(坂元雷鳥)の来るのが遅いと迎えが来る。白仁三郎は、交渉の結果を報告する。二葉亭四迷も喜ぶ。)


「三山翁の意を体して内偵に来れるを以て、成丈け漠然と軽き意味にて種々の質問応答あり、読売新聞との御関係如何、若し朝日社或は其他の社にても全然師の御入社を乞ふ事あらは、條件によりては目下御奉職の各學校を御止めになる事を得べきや、読売との関係は極めて簡単なり、書いたら出さう位也、學校は止められぬ事なし、寧ろ學校に出るは五月蝿い感に堪へず、併し叉或意味に於ては気楽なり、四月ならば或は高等學校にて教授とするやも知れず、左すれば当分止められぬ事となる可し、(以下略)」。(坂元雪鳥「西片町の二文豪」 (随筆集『壁生草』 (稿本)所収)


白仁三郎(坂元雪蔦) は予定の時間より早く家を出て、本郷区丸山福山町(現・文京区西片一丁目十七番七号) に住む長野蘇南(熊本県出身の軍医で、渋川柳次郎(玄耳)・白仁三郎の共通の俳友) を訪ねたが留守だった。西片町に向う途中生田長江に逢い森川町に野村宗明を訪ね、居合せた高須質淳平(乙字) と俳論をする。これは約束の時間まで待てなかったからである。西片町の二葉亭四迷宅で渋川柳次郎・弓削田精一と落ち合うことになっていたが、まだ来てないと思い、淀見軒(西洋料理・果物商 本郷区本郷四丁旦一十八番地) で昼食をし、淀見軒から朝日新聞社に電話したけれども通じない。市電で社に赴き、池辺吉太郎(三山)に報告し、当分内密にすることを約東する。銀蛭で境野正(愚石)と立話をし、白仁三郎は本郷三丁目まで市竜で行き、人力車で渋川柳次郎・弓削田精一と本郷一丁目の天麩羅屋で祝盃をあげる。弓削田精一が最も喜ぶ。この天麩羅屋はよく分らぬ。但し、都築音松(本郷区本郷一丁目四番地)の経営する料理店では、天婦羅も出す。(明治四十四年一月『東京職業名鑑』による)三人は、神楽坂下停留所まで電車で行って別れる。白仁三郎は、九時前に帰宅する。渋川柳次郎は、陸軍から退職の辞令が出ず、まだ正式に東京朝日新聞社に入社してはいない。だが、一年半ほど前から、『東京朝日新聞』に、「閑耳目」という欄を与えられ執筆している。渋川柳次郎を池辺吉太郎に推薦したのは、弓削田精一である。漱石の入社を喜んで、二人が同席していたのは、こういぅ事情からである。」(荒正人、前掲書)  


〈「大阪朝日」主筆鳥居素川の漱石招聘計画(日本文壇史より)〉

前年(明治39年)12月初め、「大阪朝日新聞」主筆の鳥居素川から漱石へ随筆を依頼する手紙が画家の中村不折経由て届く。この依頼は実を結ばなかったが、以後素川は漱石の著作を読みあさり、社主村山龍平にも読ませ、池辺三山とも打ち合せて、漱石を「大阪朝日」に迎える案を立てた。

鳥居素川(赫雄)は、熊本の出身で、三山池辺吉太郎が明治29年に「大阪朝日」主筆となって後、その翌年末頃に「大阪朝日」に招いた。鳥居は独逸協会学校に学び、かつ漢学にも素養があり、筆力旺盛で、特に諷刺比喩の才能があり、辛辣な政治批評では並ぶもののない名手であった。鳥居は、独逸協会学校を経て、明治24年上海の日清貿易研究所に入ったが、病んで帰ってから池辺三山の「経世評論」に執筆し、日清戦争には「日本」の記者としての正岡子規とともに従軍した。三山はその人物を愛して、彼が「東京朝日」に移って後、素川を「大阪朝日」主筆に推薦した。

素川は、漱石の「草枕」を「新小説」で読んで、その才筆に感歎し、原稿を依頼をした。

この月(2月)、朝日新聞社側の案は熟し、漱石の「東京朝日」招聘の交渉することになった。「東京朝日」は、池辺が主筆で玄耳渋川柳次郎が社会部長であった。その渋川の同郷人で、熊本の第五高等学校で漱石の生徒であった自仁三郎は、このとき文科大学国文科の学生であったが、渋川との縁で時々「東京朝日」に短文を番いていた。その白仁が使者に選ばれた。

白仁三郎は穏和な青年で、俳句を好んで作っていて、時々漱石に逢っていた。予め面会したいとの手紙を出して打ち合せてから、白仁三郎は、約束の2月24日11時頃に夏目家を訪れた。そして、朝日が招聴したがっている旨を伝えた。同時に白仁は、大学や高等学校は本人の意志ですぐにもやめられるものか、留学後の勤務の義務年限はどうなっているのか、「読売」の社告に出た件は実際はどのようなものなの、を訊ねた。漱石は「読売」には何等縛られていない、義務年限は留学年限の二倍なので今年3月で終ると話した。

こ時の漱石の話しぶりで白仁は直感的に有望だと思った。この日「朝日」側は、結果を気づかって、漱石の家のすぐ近くにある二葉亭四迷の家を足だまりとし、そこへ渋川玄耳と通信部長の弓削田精一を待たせておいた。白仁が戻って、有望だ、と告げると、待っていた3人はともに喜び合った。(日本文壇史より)

2月24日

大杉栄、「東京複式消費組合」(発起人竹内余所次郎)設立の参政人となり、その会員募集広告が『平民新聞』(33號)に載る。

ほかの参政人は、石川三四郎、原真一郎、岡千代彦、吉川守邦、田添鉄二、村田四郎、宇都宮卓爾、矢木健次郎、山口義三、山川均、福田英子、深尾韶、幸徳秋水、幸内久太郎、幸徳伝次郎、赤羽一、堺利彦、斎藤兼治郎、志津野又、椎葉十千ら

2月24日

日米、移民に関する紳士協定を結ぶ。


つづく

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