2025年12月19日金曜日

大杉栄とその時代年表(713) 1907(明治40)年3月16日~25日 司法省行政局長兼大審院検事平沼騏一郎、英独仏の思想警察の社会主義者・無政府主愚者取締り研究のため渡欧。明治41年2月14日帰国。

 

平沼騏一郎

大杉栄とその時代年表(712) 1907(明治40)年3月10日~15日 3月10日 内村鑑三、福田英子を破門。日曜集会参加差止め。 13日「福田英子破門さる」(「平民新聞」)。 15日、福田英子「内村先生に上る書」「同じ道踏む人々に代りて」(「世界婦人」)。 より続く

1907(明治40)年

3月16日

「治安警察法中改正法律案」(福田英子、堺為子、今井歌子らが2月12日に提出していた治安警察法第5条改正請願書)、衆議院本会議に提出、可決。

27日、貴族院本会議、賛成鎌田栄吉ら4名のみ、否決。

3月16日

横浜の船工組合職工1,000人、賃上げ要求し同盟罷業。貫徹。

3月16日

沖縄県及島嶼町村制公布。(勅)

3月16日

有島武郎の日記(英文)

3月16日。「私を憂鬱にするものは何だらう。今日私は涙が出て、留めることさへ出来なかった。しかも、どうしたのかも分らない。、恐らく自分の中に、不思議な矛盾があるのだらう。私は、時々非常に純になり、時々非常に不純になる。ある時は非常に同情深くなり、又ある時は、不合理なぐらゐ利己主義になる。この性質の矛盾が何時かは無くなって欲しいものだ。(中略)壬生馬はどうしてゐるたらう。光は、増田は、ファニィは、ティルディは、信子は、愛子は。彼等は私のことを思ってゐることだらう。あなた方に感謝します。私は無為に生きない、然り、必ず。」


3月21日。「(略)不意に私は悲しい感じに襲はれた。私は欄干を堅く握って、その感じを追ひ払はうとしたが、駄目だった。私は特にティルディのことを考へてゐた。コロンボから彼女に手紙を出さうとしてゐること、その手紙の内容のこと、私が彼女のことを考へてゐる時に、彼女は何をしてゐるのだらうといふことなどを。私は本当に彼女を愛してゐるのか知ら。又は、単なる、一時の感情なのだらうか。彼女の思ひに沈んだ、あどけない、信頼し切った顔付が目についてならない。私は再び眠ることが出来なかった。そして、雲の移り変りに驚きつつ、心暗く見つめてゐた。私は、我にもなく同じ質問を繰返してゐた。私は犠牲になるべきか、それとも、犠牲を請ふべきか。永久に解けない謎だ。」


3月23日、有島は「アンナ・カレーニナ」を読み終って限りない満足を感じた。"


3月28日。シンガポールに着き、次に香港に向った。船に乗っていた日本の一僧侶が彼に桜井忠温の「肉弾」を読めと言って貸した。「肉弾」は日露戦争に出た著者の体験記である。日露戦争後陸軍の戦記が多く出た中で、最も広く読まれた。海軍軍人水野広徳の書いた「此一戦」とともに、日露戦争を描いた二大傑作と言あれていた。彼はそれを読んで書いた。「私は辛い思ひで読んだ。余の考へから見る所では、これ程非常に厭はしい日露戦争の記録は、今までかつて読んだことがなかった。此本を読んで、更に更に深く、戦争の不合理なことを信じた。国家は戦争などで、国民を死に晒す権利なんかない。(略)」


3月16日

英領インドのカルカッタ日本総領事館、開館。

3月17日

山口孤剣「教会を去れ」(日刊「平民新聞」)。内村攻撃。

3月17日

第13師団より第18師団に至る6個師団を高田、宇都宮、豊橋、京都、岡山、久留米の各地に増設の事確定する

3月17日

(漱石)

「三月十七日(日)、午前、白仁三郎(坂元雪鳥)来る。

三月十八日(月)、東京帝国大学文科大学及び第一高等学校の講義と授業は、この週まで行われる。

三月十九日(火)、白仁三郎(坂元雪鳥)から手紙来る。(推定)

日本倶楽部(麹町区有楽町一丁目五番地、現・千代田区有楽町一丁日) で、東京朝日新聞社から、池辺吉太郎(三山)・中村鈼太郎(不折)・渋川柳次郎(玄耳)らと共に晩餐会に招かれる。漱石と東京朝日新聞社幹部たちとの顔合せである。

三月中旬(推定)、第一高等学校の二学期(一月から三月まで)の試験はしないで、一学期(前年九月から十二月まで) の成績を参考にして採点すると発表する。」(荒正人、前掲書) 


3月17日

大杉栄、堀保子と柏木の堺利彦宅を訪問。秋水、菅野すが、上司小剣、臼井操子がいた。その夜、堺、上司と自宅に戻り、上司にカレーライスを振舞う。

3月17日

三木武夫、生まれる

3月19

癩予防に関する法律公布。医師の診断届出を義務化。消毒・予防法規定。

3月20日

東京府勧業博覧会開催、上野公園。~7月31日。

3月20日

播磨船渠株式会社設立。本社兵庫県相生、資本金50万円、石川島播磨重工株式会社の前身の1つ。

3月20日

石川啄木(22)、学年末に離村して新生活を閑かんと決意、この前後函館の苜蓿(もくしゅく)社の知人松岡蕗堂(政之助)に北海道移住の依頼をなす。

3月21日

(漱石)

「三月二十一日 (木)、朝早く、白仁三郎(坂元雪鳥)は、池辺吉太郎(三山)を訪ねると、村山龍平から漱石を京都に定住させるよぅにして貰いたいと電話で云ってきたことを伝え、この件を至急漱石に連絡して欲しいと依頼される。白仁三郎(坂元雪鳥)は、午前中に第一高等学校(推定) へ赴き、漱石に会い事情を知らせる。

〔「小学校令」改め、尋常小学校義務教育年限を六年とする。高等小学校を二年または三年とし、中学校に接続しないものとする。明治四十一年四月一日(水)から順次実施する。〕

三月二十二日(金)、春分の日。春季皇霊祭。片上伸宛手紙に、『早稲田文学』 へ書く予定の原稿が延びていたが、こんど大学をやめて新聞社に入ることとなり、一切の原稿はそちらに廻す義務が生じたからと、了解を求める。狩野亨吉宛手紙で、今月末から来月初めにかけて、京都に遊びに行きたいが、上京していることはないか、留守でも逗留させて欲しいと云い、「小生は今度大學も高等學校もやめに致して新聞屋に相成候」と伝える。便通なく、胃痛む。夜、遅くまで起きる。

三月二十三日(土)、昼寝して過す。野上豊一郎から、東京帝国大学の講義で激励受けたことに感謝していると手紙を貰う。返書に、京都市に行って、狩野亨吉に会い、大阪市にも行き、大阪朝日新聞社の人たちと会うことを伝える。高浜虚子宛葉書に、『ホトゝキス』小説選抜の件は当分難しいと伝える。

三月二十四日(日)、二十五日(月)、『文學論』校閲完了する。(小宮豊隆)第五章の「調和法」以下と第四章第五篇を徹底的に書き直す。

三月二十五日(月)、東京帝国大学総長浜尾新宛に、「講師退職願」を書く。

三月二十三日(土)野上豊一郎宛手紙に、「京都には狩野といふ友人有之候。あれは學長なれども學長や教授や博士抔よりも種類の違ふたエライ人に候。あの人に逢ふために候。わざわざ京へ参り候。」 と書く。」(荒正人、前掲書)  


3月21日

小学校令中改正。尋常小学校年限を6年に延長(義務教育)。高等小学校は2年または3年制に。1908年4月1日より逐年施行。

3月22日

南アフリカ、トランスバール政府、アジア人登録法公布、インド人移民を制限。これに対しガンディー、民衆とともに非暴力抵抗運動開始。

3月23日

仏・シャム条約により、バッタンバン・シェムリアップ・シソポンなど諸州、仏領になる。

3月25日

司法省行政局長兼大審院検事平沼騏一郎、英独仏の思想警察の社会主義者・無政府主愚者取締り研究のため渡欧。明治41年2月14日帰国。

3月25日

日清輪船公司成立。


つづく

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