2026年2月10日火曜日

大杉栄とその時代年表(750) 1907(明治40)年9月2日~6日 陸羯南(51)没。明治22年2月「東京電報」を「日本」と改称し日本主義を宣言。その傾向は終始、官僚主義と藩閥勢力の攻撃にあった。三宅雪嶺、池辺三山、福本日南、古島一雄、子規、碧梧桐、不折、如是閑がこの新聞に籍を置いた。

 

陸羯南

大杉栄とその時代年表(749) 1907(明治40)年9月1日~2日 (漱石) 「九月上旬(日不詳)、午後、銭湯に行き長谷川辰之助(二葉亭四迷)に会う。風呂から出て、お互いに素裸のまま話し合う。二葉亭四迷は、前年一度卒倒し田端のほうで保養していたことがあると云う。現在は少しよい。それではまだ来客謝絶だろうと聞くと曖昧な返事をする。〝それぢや、行くのはまあ見合せ様。〞と云って別れる。(『長谷川君と余』) 九月二日(月)、体重十二賞五百匁(四十六・九キログラム)から二百五十匁(〇・九四キログラム)減る。胃の調子悪い。」(荒正人) より続く

1907(明治40)年

9月2日

陸羯南(51)、鎌倉極楽寺村の別荘で没。

陸鵜南は結核を患っていて新聞「日本」を退いて療養していた.

羯南は、中田謙斎の三子で、中津軽の清水村に生れ、仙台の師範学校を経て、司法省法律学に学ぶ。明治9年同級の原敬とともに賄征伐をして放校された。その後「東奥日報」の記者等を経て上京し、太政官御用係となり、後の官報局に当る文書局の仕事をして編輯課長となった。明治19年、先輩の援助を得て新聞「商業電報」を買収して「東京電報」を発行、22年2月「日本」と改称し、日本主義を紙上に宣言した。

その傾向は終始官僚主義と藩閥勢力の攻撃にあり、知識階級の間に読者が多かっだ。三宅雪嶺、池辺三山、福本日南、古島一雄、子規、碧梧桐、不折、如是閑がこの新聞に籍を置いた。

羯南は明治37年、日露戦争前にヨーロッパを歴遊し、帰朝後病を得たので、明治39年、「日本」を伊藤欽亮に譲り、鎌倉の極楽寺村に静養していた。


池辺三山の談話筆記「陸羯南の文章と人物」

その徹底した観察眼を賞讃した後、

「それは欧羅巴へ漫遊した時、青山胤通博士と同行した事である。元来知合で無かつたのを、加藤恒忠氏が紹介したのである。処が両方とも有名な鼾かきであったから堪らぬ。何でも先に眠就いた方が勝なので、一寸後れたら、もう相手の雷の如き鼾戸に妨げられて一晩中眠ることは出来なかったさうな。これはこれだけの話だが、面白いのは二人が帰朝してから、互に評し合った言葉である。

「陸君は加藤氏に向つて『君は飛んだ奴を己にくっつけて弱った。どうも鼾をかいて・・・・・それにせっかちで、吝嗇で仕様がない。然し君あれは一寸変った奴だね』と言ったさうな。処が青山氏は又加藤氏に向つて『飛んだ奴を己にくっつけて、鼾をかいてどうも弱った。おまけにぐづりぐづりしてゐて、ちっとも銭勘定を知らない奴だ。然し君、あれは一寸面白い奴だねえ』と言ったさうな。

「その話を後で陸君にした処が、先生苦笑ひをしてをつた。何でもフランスで、宿で昼飯を食ふ時、その以前何店かで飲んだ葡萄酒が陸君の気に入って、いつもあれを取らうといふ。処が一リットルのを取っては、半分位飲んであとは其儘打棄って了ふ。青山氏は西洋流できちんとやる方だから『君それは詰らない。取るにしても半リットルのにしたらよからう』と言ふと、『いや、君は困る。飯を食ふ時に、そんな詰らない事を言ほれると飯がまずくなる』といふ。如何とも始末に困ったさうだ。実際陸君は銭勘定を知らない方で、そこが陸君の一面である。旨いといふ事、好きといふ事を追って行くので、銭などは関はぬ。有れば有るだけ遣ふ。無くなればそれまでといふ風である。(略)」

青山胤通(このとき数え49歳)は、岐阜県人、東京大学医学部を卒業して、明治16年、鴎外と前後してドイツに留学、ベルリン大学に学んだ。帰朝後東大教授。明治37年陸羯南と同行したときは二度目の外遊。明治34年以後、東大医学部長で羯南が病気になると主治医として治療に当った。


狂歌師坂井久良岐(くらき)「陸羯南の書簡」(「文章世界」同号

「前の日本新聞社長として、直言硬骨の志士として天下の三大記者として徳富蘇峰、朝比奈知泉(ちせん)と並称せられ、文壇の珍とせられた睦美先生は遂に肺結核の為めに近く四十九歳をもって鎌倉に没せられた。自分の陸先生を知ったのは(略)今川小路の玉川亭に会合した其時に、眉太く眼大きく髯いかめしき偉丈夫を認めた(略)其人が陸羯南先生であることを始めて知った。

「其後日本新聞社に入って、陸先生と日夕面を合はすことに成ったが(略)先生の道楽は碁位で、社へ出ても別席で閑な時は、福本日南先生や国分青崖や桂湖村などと絶えず盤面に向つて石を下してゐられる。先生は漢学の素養が深いのは勿論であるが、余技として和歌をも詠まれ、新古今を愛読せられたので、余が作歌に就いても愛読せられた一人で、正岡子規子の百中十首体の歌とは意見が合はなかつた。ソコで子規先生は『歌よみに与ふるの書』を『日本』へ連載して、大に旧派の和歌者流の迷夢を破った、が、其実は陸先生の新古今式の主張に対して、極力優美打破を力めたので、一体普通の人ならば、自分の手下の者で自分の趣味や持説に反対する者があれば、直ちに小言を云ふかこれをいぶせく思って遠ざけるのであるが、さすが陸先生もエライ、子規先生もエライ、益〃紙面を貸し与へますます病中の子規先生を保護して、其歌論を尽すことを許したので、其当時新派の和歌などは、老人株からは殆ど書生のイタヅラ仕事のやうに見做し、社会も亦決して之れを歌などと認めてはゐなかった。之れが今日自由自在に漢語、俗語を駆使して、誰も攻撃する者もなく、怪しむ者もゐないやうになった。(略)

「其議論の材料は、兼て陸先生と議論を上下したに依ったのか多く、子規先生は、コレでも分らぬかコレでも分らぬかと日々認められたので、陸先生も大分和歌について意見の進歩を見たのは、同先生の人言を容るゝに客でなく、能く人を用ゐるの眼識に服さねはならぬ。(略)先生は女の子ばかり六人で、男の子は七八歳ばかりの四郎と云ふお子がある外、男子はない。先生も心細く思ほれたことであらう。(略)」

9月3日

北京自治局設立。

9月4日

独歩、平磯海岸で転地療養。

この日、奥井君子と次女みどり(4歳)を伴って出発。水戸に着いて杉田恭助家で休憩し、那珂川を舟で下り、夕刻に牛久保の杉田別荘に着いた。

そこでは、独歩は散歩したり、魚釣りをしたり、杉田恭助から借りた写真機で写したりしていたが、妻の治子に出す手紙には、熱があるとか仕事ができないとか愚痴っぽい事ばかりを書いてやった。

9月4日

作曲家グリーク(64)、没。

9月5日

ズイタン帝、ベトナムの皇帝に即位。

9月6日

幸徳秋水・堺利彦・山川均ら直接行動派、金曜講演会結成。初め九段下のユニヴァサリスト会堂で開かれ、のち神田三崎町の貸席吉田屋に移り、警察の干渉厳しく、吉田屋も追われ、本郷弓町の平民書房の2階となる。翌年1月17日、金曜会屋上事件に繋がる。

9月6日

(漱石)

「九月六日(金)、夜、泥棒に入られる。机上のニッケル時計・鋏・小刀を盗まれる。

九月七日(土)畔柳都太郎(芥舟)宛手紙に、「中川は一體熊本へ行くのかな何だか些とも分らない/まづ此位でやめる。/もう一つある。體量は十二貫半から半の牛に減じた翌日から急に十三貫に増して昨日は十三・一あった。此様子で見ると體量と家賃は正比例するものと見て差支ない」と洩らす。


中川芳太郎は、『文學諭』の校正で失敗したため、漱石に叱られて次第に遼のいていた。だが、漱石は第五高等学校を世話していたらしい。中川芳太郎には別の口もあって迷っているうちに両方ともだめになってしまう。(森田草平『續夏目漱石』)」(荒正人、前掲書)


つづく

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