2026年2月22日日曜日

大杉栄とその時代年表(762) 1907(明治40)年12月5日~30日 日本社会政策学会第1回大会。金井延・桑田熊蔵(貴族院の多額納税議員、東大講師)ら、経済学関係の唯一の全国的学会として設立。階級闘争激化未然防止の必要性を感じている資本家(三井の早川千吉郎)・官僚(添田寿一・岡実ら)も参加。第1回大会では渋沢栄一らが工場法に関し講演。以後、大正13年12月の第18回大会まで。大内兵衛・森戸辰男・櫛田民蔵ら、大正デモクラシー期に活躍の若手学者を輩出。鈴木文治も会員。

 

高野岩三郎

大杉栄とその時代年表(761) 1907(明治40)年12月1日~5日 李垠(11、高宗の七男)、日本留学のため漢城発。伊藤統監同行。56年間の日本での生活。梨本宮方子と結婚。 より続く

1907(明治40)年

12月5日

直接行動派「日本平民新聞」、増税反対運動を茶番狂言と冷眼視する。

15日、議会政策派「社会新聞」は田添鉄二が、増税は帝国主義財政の帰結と指摘、反対運動参加呼掛け。

12月5日

有島武郎、母校・札幌農学校から教師に招聘される。

札幌農学校は、この年、専門学校から昇格して農科大学になったが、同時に仙台に設けられた東北帝国大学の一部分としての農科大学となった。武郎はこの予科の英語科講師に任命された。

明治27年以来、札幌農学校の第1回卒業生の佐藤昌介はこの学校の校長であったが、この時も佐藤昌介はこの農科大学の学長であった。

また明治29年、有島が札幌農学校へ入学した当時、そこの教授をしていた河野信子の叔父に当る新渡戸稲造は、明治30年にその職を離れ、台湾総督府の技師となり、その間に農学博士と法学博士の学位を得、二度の欧洲旅行を経て、明治36年に京都大学教授となり、明治39年からは第一高等学校長と東大の農科大学教授を兼任していた。

札幌の農科大学へ就職することは、有島にとっては直面している煩悶から逃れる機会であり、同時に父の世話にならずにすむ自活の道を見出したことであった。また、父武にとっては、長男が官立大学の教員になるという目出度いことであったので、それは父にとっても歓迎すべきことであった。

翌明治41年(1908年)1月3日夜、有島は東京を発って札幌に向った。"

12月6日

政界革新運動を進める新聞人、増税閣議決定に先立ち反対運動を起こすべく会合。

23日、政界・実業界100人を招き非増税懇親会開催。開会の辞は猶興会島田三郎(「毎日新聞」社社長)。大隈重信(前年、藩閥妥協派により憲政本党総裁の地位を奪われた)・中野武営(東商会頭)が演説。院外では商工会議所が、院内では猶興会・憲政本党反藩閥派(犬養毅ら)が、新聞が世論を喚起する、悪税反対運動の原型が示される。

12月6日

金曜後援会(第14回))。大杉栄、「現代社会の二大傾向」と題し、クロボトキン「パンの略取」第1章「強三斗無政府」を紹介。

12月8日

片山潜、幸徳が街鉄に買収されていると報じる(「社会新聞」第28号)。幸徳が電車賃値上げ反対運動に不熱心なため。

12月10日

(漱石)

「十二月十日(火)、暖かい雨降る。鏡、風邪で床に就く。『大阪朝日新聞』から、年が明けたら三十枚位の小説を書いて欲しいと依頼される。この日の前後、『文學評論』の訂正終る。(小宮豊隆)」(荒正人、前掲書)


12月10日

九段に品川弥二郎銅像除幕式

12月12日

啄木(21)、社の内紛に関して「小樽日邦」事務長小林寅吉から暴力をふるわれこれを契機に退社(21日退社広告)。給料未払いで生活困窮。

22日、沢田信太郎「石川啄2木兄と別る」(『小樽日報』に掲載)。  

12月13日

愛知県の機械職工宮下太吉、大阪出張の際、大阪平民社に森近運平訪問(1回目)。日本歴史のなかの皇室に関して質問。森近は久米邦武「日本古代史」の知識で、神武起源の不確実性について述べる。

12月15日

東京市の電車市有協定成立する

12月15日

ペルシア国王、国会廃止を企て、首相を投獄。

12月16日

(漱石)

「十二月十六日(月)、『坑夫』の発端書き始める。小宮豊隆宛葉書に、「文債に籠る冬の日短かゝり」と書く。

(浅井忠死去する。)

十二月十八日(水)、『坑夫』執筆で忙しい。


『坑夫』を起稿したのは十二月十日(火)過ぎであろう。(不確かな推定)推定の根拠は次のとおりである。

(1)十二月十日(火)鈴木三重吉宛葉書(消印午後十一時-十二時)に、「小生も三十日つゞきのものを只今たのまれた許りに候。小説と行かなくても三十日はつゞげろ義務が出来候。可相成は二十九日位で御勘辨を願はんかと存候。」とある。この葉書を書いた日に、大阪朝日新聞社から電報または手紙で、三十日続きのものを依頼されたと推定される。必ずしも小説ではない。

(2)荒井某から『坑夫』の材料を提供されたのは、十二月十日(火)から数日の間だと推定される。

(3)十二月十六日(月)小宮豊隆宛葉書に、「小生矢張り執華中。毎日ニ三回かく豫定/文再に籠る冬の日短かゝり」と書く。」(荒正人、前掲書)

12月16日

浅井忠(52)、没

12月17日

韓国、金秀敏、処刑。

12月19日

ペンシルベニア州ジェーコブス・クリークの炭鉱中の爆発、死者239人。

12月20日

東京電灯株式会社、山梨県駒橋水力発電所一部完成により、東京への送電開始。麻布・麹町配電所区域で電灯点火。

12月20日

(漱石)

「十二月二十日(金)前後(推定)、鈴木三重吉からの手紙で午前十時、鈴木三重吉に会い、昼食と夕食を共にし、午後九時頃帰る。縁談である。(『文鳥』)翌日も同じ用件で出掛け、午後三時頃帰宅する。その間に、文鳥の餌なくなり死んでいる。十六歳になる女中を呼びつけ、文鳥の死骸を抛り出す。鈴木三重吉宛葉書で文鳥の死を知らせる。女中に、この葉書の投函と、文鳥を持ち去るように命令する。暫くすると裏庭で子供たちは文鳥を埋めると云って騒ぐ。植木屋も手伝う。翌日午前十時に起き、前日植木屋の声のしたあたりを眺めると木賊(とくさ)より低い小さな木札が立ててある。筆の筆跡で、この土手登るべからず、と書いてある。午後、鈴木三重吉から返事あり、文鳥はかわいそうなことをしたとだけ記してある。」(荒正人、前掲書)

12月21日

啄木、「小樽日報」退社。

「小樽日報」に退社広告を掲げる。

「小生本日を以て退社候也 二十一日.石川啄木 猶小生に御用の方は区内花園町畑十四番地(月見小路)に御申越被下度候」。

「小樽日報」退社後、一家のの生活困窮を極める。

22日 沢田信太郎、「小梅日報」紙上に「石川啄木兄と別る」と題する告別の辞を掲げる。


啄木は潔く退社したものの、アテにしていた札幌の新聞は容易に誕生しなかった。日報社よりの収入が絶えると、蓄もない彼は、正月を目前にひかえて暮しに困るようになった。

老母と妻子を抱えて門松も立てられず、まともな正月の準備もできず、流石に暢気な啄木もあせらずにはいられなかった。彼は「小樽新聞」の上田社長を訪問したり、札幌の「北海タイムス」に就職運動をしたりしたが、何れも失敗に終った。

雪吹きすさぶ小樽花園町の一角に、一家は再び生活の危機に直面した。


12月22日

清国、鉄路総局設置。

12月22日

日本社会政策学会第1回大会。金井延・桑田熊蔵(貴族院の多額納税議員、東大講師)ら、経済学関係の唯一の全国的学会として設立。階級闘争激化未然防止の必要性を感じている資本家(三井の早川千吉郎)・官僚(添田寿一・岡実ら)も参加。第1回大会では渋沢栄一らが工場法に関し講演。以後、大正13年12月の第18回大会まで。大内兵衛・森戸辰男・櫛田民蔵ら、大正デモクラシー期に活躍の若手学者を輩出。鈴木文治も会員。

①右派(日本興業銀行総裁添田寿一):国家的保護政策と主従関係利用策。工場法施行・労働保険の強制的施行を主張するが、労使関係調整は主従関係利用。

②左派(高野岩三郎):社会問題解決の鍵は労働組合・消費組合等の活動の発展。

③中間派(桑田熊蔵):社会改良主義実行には3種の方針。

ⅰ、国家的方針:国家原則は平等、「国家は弱者を助け強者を制する」べき、「国家の権力に訴え立法行政の手段に依って、社会改良の目的を達すること」を主眼とする。

ⅱ、慈恵的方針:「富豪及び資本化がその私財を抛(なげう)ち、以て貧者労働者を救助」し、労使間に家族関係を保つとこが目標。

ⅲ、個人的方針:職工組合・消費組合・共済組合等を組織し労働者の利益を保護、地位を改良する。

評価:

①「官僚的・資本家国家のために階級闘争の抹殺者として出現」(住谷悦治)。

②「労働争議・労働組合運動・社会主義を否定し、その上で天皇制支配の立場に立って「上から」の社会政策を主張」する「絶対主義的改良主義」(岸本英太郎)。

③「全体としてその立場は国家主義的基調に立っての社会改良・労使協調を基軸とするものであって、労働階級の自主的な組織や闘争については、必ずしも積極的な好意を示すものではなかった」(大河内一男)。

④「勃興期の日本資本主義に対する社会政策的良心」(大内兵衛)。


12月22日

大杉栄(22)、午後1時、牛込区牛込赤城元町の貸席・清風亭で張継らが開いた社会主義講演会(第8回)で「バクーニンの連邦主義(3回目)」を講演。5時~6時に散会。参加者60~70名。

12月22日

金曜講演の通信に見る、この日の金曜講演会の様子。神田三崎町の貸席。

「・・・我党の演説会になくてならぬ臨監警部の顔も揃ったので、会場の配合がズツト引立った。尚御念入りにも下座敷の四畳半には三、四名の正服巡査まで詰めて居た。先ず山川君は『資本家が智慧のない横暴な振舞をして到る処に社会主義の種を蒔いていても、日本政府では見ぬ振をして社会主義勃興の勢を助けて下さるが、此頃は亦、何者か壮士を差向けて金曜講演の発起人等を撲るという噂があるので、定めし今夜は吾々を保護して主義の伝道を助ける御趣意で臨監を添うせしことならん。吾々は大いに発奮努力してお思召に報いねはならぬ』と前置きして『米国恐慌談』に移り・・・」。

山川の発言によって「弁士中止」となり、続いて解散を命ぜられ全員総立ちとなり、警官を取巻いて「社会主義万歳!」を三唱。

12月23日

片山潜・鈴木楯夫ら、「憲法治下において、社会主義の実行につとむ」綱領で平民協会の結社届出。25日、内務省は結社禁止とする。

12月25日

第24議会召集。

12月25日

(漱石)

十二月二十五日(水)、小宮豊隆に東京朝日新聞社へ月給を取りに行って貰う。

(鈴木三重吉、加計正文宛手紙に、「木曜木曜に先生の所へ行くだけだ。先生の内へは缺が(ママ)きないでいく。そして近頃は先生と〇〇〇〇談をやる」と伝える。)

(『時事新報』の『文芸週報』(第八十五号)に、「漱石と獨歩」(上・下)掲載される。署名鞍疾苦。)

十二月二十六日(木)、木曜会。

十二月二十七日(金)、本多直次郎(囁月)来る。(小宮豊隆)

(十二月二十八日(土)、口付煙草「敷島」は十銭に、「大和」は九銭に、「朝日」は八銭に、「カメリヤ」は七銭に、「不二」は十二銭に値上げされる。漱石は、十銭で釣銭なしに買えるので「敷島」を喫む。「敷島」は、大正六年十二月一日まで値上げしない。何時頃から煙草を喫い始めたか、分らぬ。また、イギリス留学時代にどんな煙草を喫っていたか分らない。)

十二月三十日(月)、小官豊隆に、第一銀行(日本橋区兜町)へ行って貰う。(推定)

十二月三十一日(火)、大晦日。

十二月下旬、松本文三郎(京都帝国大学)が上京し、「随意講義」を依頼され承諾する。


伏字は、『鈴木三重吉全集』(岩波書店) の編集者によるものである。


夏目漱石は、『二百十日』・『趣味の遺伝』・『草枕』・『野分』などから評判が悪くなったが、国木田独歩は駄作を発表しているにも拘らず評判がよいことを具体的にあげ、「作家と作物を混同する勿れ」と繰り返している。漱石の微妙な文壇的地位を伝える。漱石は、この文章を読まなかったかもしれない。」(荒正人、前掲書)

12月27日

大杉栄(22)、神田区三崎町の吉田屋で開かれた金曜講演会(第17回)で「バクーニン伝」を講演。吉田屋から会場を貸すのは今回限りと言われる。翌年の新年会は吉田屋で開かれたが、それ以降は平民書房に場所を写す)

12月28日

煙草の値上げ実施。

12月29日

警視庁令にて最初の自動車取締規則出る(速力が規定される)

12月30日

森近運平、大杉栄を訪問

12月下旬

大杉栄、石川三四郎著、幸徳秋水補「日本社会主義史」(隆文館)に掲載予定の「日本社会主義史補遺」を書き上げる。


つづく

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