1907(明治40)年
12月
-韓国、江原道義兵大将儒者李麟栄、各義兵団結して漢城へ進撃を呼掛け。京幾道楊州に旧兵3千含む1万人の各道義兵集結。漢城上京途上、許鳶率いる先発隊300余、東大門3里の地点で敗退。1年半後逮捕、処刑。
進撃前、工作員を漢城に侵入させ、各領事館に対し、義兵部隊は愛国血団であり各国は国際法上の交戦団体と認めるよう訴え。また、アメリカ在住朝鮮人団体(サンフランシスコの共立教会、ハワイの合成協会)に、日本の侵略行為を全世界に訴えるよう檄文を送る。
12月
満鉄、「時報」創刊(不定期)。調査部、一般経済調査・旧慣調査を開始。
12月
幸徳秋水、ローレル「経済組織の未来」訳出。秘密出版(金曜社)。
12月
片上天弦「人生観上の自然主義」(「早稲田文学」)
12月
岩野泡鳴「新体詩史」(「新思潮」)12月~41年3月
岩野泡鳴「新体詩の作法」(「修文館」)
12月
今村均(21)、少尉任官。
12月
東洋教会(会長桂太郎)、内閣に韓国の「拓地殖民」のための会社設立案提出。
12月
「(十二月、白仁三郎(坂元雪鳥)・西村真次、六か月の見習い期間を終了し、東京朝日新聞社に正社員として採用される。高須賀洋平・生方敏郎は退社する。)」(荒正人、前掲書)
12月上旬
(漱石)
「十二月上旬(推定)、夜、鈴木三重吉は小宮豊隆と共に、文鳥と籠持って来る。(『文鳥』)」(荒正人、前掲書)
12月上旬
「(十二月上旬または中旬(推定)、野田九甫、大阪朝日新聞社に入社する。)
第一回文展で「辻説法」が二等に選ばれる。瀧精一(節庵)の推薦で、大阪朝日新聞社に入社することになる。村山龍平・上野精一両社主、上京していた際に会い、入社が決定し、『坑夫』の挿画を響くことになる。漱石に意見を求めると〝万事委せる。とのことである。岡田版木屋で木版を彫らせる。挿画は、掲載される四日前に版木屋に届けられる。小宮豊隆が原稿を持って行く。やがて打合せの都合もあるからと、大阪へ移り、大阪朝日新聞社に近い西照庵(宿屋)に下宿する。野田九甫の挿画は漱石も喜び切抜を貼っているので感謝されたが、社の営業面からは余りに高級だと、書き替えさせられたこともあり、野田九甫は辞職を申し出る。二葉亭四迷は、明治四十一年六月十八日(木)神戸からロシヤに出発する直前に、西照庵に泊り、野田九辞の不満を慰めている。野田九甫は、八年間ほど大阪朝日新聞社に勤める。(野田九甫談)(昭和二十七年十月二十九日 清水三郎筆録)」(荒正人、前掲書)
12月1日
荒畑寒村(20)、横須賀海兵団入営。翌日、兵役免除。
12月5日
韓国、李垠(11)、日本留学のため漢城発。伊藤統監同行。56年間の日本での生活。梨本宮方子と結婚。
李垠;
大韓帝高宗の七男。この年8月27日、異母兄の李坧(純宗)が即位し、9月7日、皇太子に冊立された。純宗には子はなく、また毒茶事件でアヘン入りのコーヒーを飲んでいたことで心身ともに虚弱となり、子供を設けられない体になっていた。李垠には20歳年長の兄・義王李堈がいたが、品行に問題があり皇位継承者から外されていた。
李垠は、皇太子に擁立されると、同時に東京留学を進言される。
12月5日、李垠は軍艦満州丸でに仁川を出港、7日に下関に到着し、15日に東京に入る。
翌1908年(隆熙2年、明治41年)、学習院に入学。
1910年(隆熙4年/明治43年)のれた日韓併合によって、高宗、純宗、純貞孝皇后とともに日本の皇族に準じる存在である王族となり、李王(純宗)の王世子となった。
1911年(明治44年)9月、陸軍中央幼年学校の第2学年時に編入(14期)。次いで、陸軍士官学校(29期)へ進む。
1915年(大正4年)6月5日、士官学校卒業後に近衛歩兵第2連隊に士官として配属され陸軍将校となる。
1916年(大正5年)8月、皇族の梨本宮守正王・伊都子妃の第1女子方子女王と婚約。
1918年(大正7年)12月5日、結婚の勅許が下りるが、1919年(大正8年)1月21日、挙式4日前に李太王(高宗)が死去し、結婚は延期された。
1920年(大正9年)4月28日、方子女王と結婚し。結婚式では、朝鮮人学生による爆弾投擲未遂事件が起きている(李王世子暗殺未遂事件)。主犯の徐相漢の供述では、標的は李垠夫妻ではなく、朝鮮総督となっていた斎藤実だったという。方子女王の側からは、厳密には非皇族への降嫁であるが、大正天皇の「御沙汰」により女王の身位を保持した。
夫妻の間には、結婚の翌年に第1男子の李晋が誕生したが、1922年(大正11年)4月、李王世子夫妻が生後8ヶ月の晋を連れて朝鮮を訪問した際、晋は急逝する。晋の急死には、当時より陰謀説がある。
翌年、陸軍大学校を卒業。
1924年(大正13年)、参謀本部附となる。
1926年(大正15年)の李王坧の薨去に伴い王位を継承、「昌徳宮李王垠」と呼ばれる。またこの後、朝鮮軍司令部附となる。
1927年(昭和2年)5月23日から翌1928年(昭和3年)4月10日、李垠夫妻はヨーロッパに外遊。この時、夫妻は「李伯爵」の仮名で旅行を行っていたが、各国元首と取り交わした文書ではプリンスを名乗っている。陸軍少佐となり、近衛歩兵第3連隊大隊長を兼務、
1930年(昭和5年)、教育総監部附となる。
1931年(昭和6年)、第2男子(李玖)誕生。
1937年(昭和12年)3月1日、歩兵第59連隊長から陸軍士官学校教官に転補。
1938年(昭和13年)、陸軍少将となり、北支那方面軍司令部附として中国に赴任。
翌1939年(昭和14年)8月、帰国し、近衛歩兵第2旅団長に転じたる。
翌1940年(昭和15年)5月、留守第4師団長となって大阪に赴任、この年、陸軍中将になる。
1941年(昭和16年)7月、第51師団長として再び中国に渡り、11月、教育総監部附となって帰国。
1943年(昭和18年)、第1航空軍司令官となる。
1945年(昭和20年)4月、軍事参議官に補せられる。
同年8月12日、昭和天皇から皇族らとともに御文庫附属庫に招かれ、天皇からポツダム宣言受諾を決心したことを聞く。
敗戦後は、日本政府からの歳費は1945年度で打ち切られ、李垠夫妻の生活は苦しいものとなる。建築業者梅田組の孫海圭からの支援でなんとか生活したが、怪しげな儲け話に騙されて資金や美術品、熱海の別荘であった滄浪閣などの財産を失う。滄浪閣は伊藤公爵家から購入していたもので、幣原内閣の内閣書記官長楢橋渡の要請で譲渡した。これは、度々李王家を訪れていた楢橋に心を許した李垠が、「私の地位はどうなりますか。どうかこれまで通りの待遇をしてもらえませんか」と楢橋に伝え、気を持たせる回答をした楢橋が新憲法の草案作業を滄浪閣で行うため、日本政府に譲渡してほしいと申し出たことによる。結局滄浪閣は日本政府の所有とはならず、楢橋が李王家に40万円を支払って購入した。
さらに財産税法によって課税された李王家は巨大な納税義務を背負うことになった。ちょうどその頃、創立準備中であった国際基督教大学から最大の財産であった紀尾井町の李王家邸を10万ドルで提供するよう打診があったが、李垠はこれを断っている。秘書の趙重九によれば、李垠にはホテル経営に参加して社交界に出入りする夢があったためであるとしている。その後李王家邸は参議院議長公舎として間貸しされ、夫妻は侍女の部屋で暮らすようになった。
1947年(昭和22年)5月3日、王族としての地位を喪失し、更に外国人扱いとなった。「正規陸軍将校」であったため公職追放となった。
1949年(昭和24年)、「小説家張赫宙氏」が李王家東京邸を訪ね、「李王垠さまの口述を速記し、それを主軸として構成」し、面識がある趙重九から 権藤四郎介「李王宮秘史」などを借りて執筆した「李王家悲史 秘苑の花」を世界社発行の雑誌「富士」昭和24年12月〜昭和25年2月号に連載した後、若干手直しして口絵も減らした上で、1950年(昭和25年)に同社で単行本化された。
1952年(昭和27年)4月28日、サンフランシスコ講和条約発効にともない、李垠・方子夫妻は正式に日本国籍を喪失したが、大韓民国政府は李垠ら日本在住の旧王公族の韓国籍を認めず、帰国もできなかった。息子の李玖がマサチューセッツ工科大学に留学したが、そのパスポートも大韓民国から正式に受けることはできなかった。
また李王家邸は大韓民国政府によって駐日大使館の候補地と定められ、李垠は議長公舎の契約を解除した。しかし韓国政府からの送金がなかったため、実業家堤康次郎に売却し、赤坂プリンスホテルとして利用された。売却した金は借金返済で殆ど消えてしまい、夫妻は田園調布に家を購入して移り住んだ。
1957年(昭和32年)5月16日、李玖のマサチューセッツ工科大学卒業式に出席するため、夫妻は渡米することとなり、昭和天皇、香淳皇后への挨拶のため参内。この渡米に際しても、大韓民国政府はパスポートの発給を行わなかった。夫妻は大学からの招聘状に基づき、日本政府から特別な旅行証明書の発給を受けた。卒業式に出席した後、李垠夫妻と李玖は、元プロボクサーのジーン・タニーから借りた家で生活を始めた。1958年(昭和33年)6月8日に帰国し、同年6月10日に参内。
1959年(昭和34年)3月、李垠が脳血栓で倒れ歩行困難となったため、夫妻は5月17日に日本に戻る。
1960年(昭和35年)、夫妻は再び渡米しようとするが、今度は日本政府からの証明書が降りず、夫妻は日本国籍を取得した。8月に帰国。
1961年(昭和36年)、仕事のためにハワイを訪れていた李玖を訪ねる。11月12日には、渡米途中に日本に立ち寄った朴正煕国家再建最高会議議長が病床の李垠の元を訪れ、方子にいつ帰国しても構わないと伝えた。
1962年(昭和37年)12月15日、夫婦ともに韓国籍になることを認めるとの通知を受ける。
1963年(昭和38年)、韓国政府から生活費の送金が開始。日韓国交正常化交渉が始まると、11月22日に夫婦ともに韓国へ渡った。金浦国際空港からソウルの聖母病院への沿道は歓迎の市民で埋め尽くされた。
1970年(昭和45年)4月28日、金婚式を病院で開き、その3日後に病院で死去。葬儀は5月9日に韓国皇太子の礼をもって行われ、日本からは昭和天皇の名代として高松宮宣仁親王・高松宮妃喜久子、方子の親族として秩父宮妃勢津子・広橋規子が参列した。
1973年(昭和48年)5月、三年祭が執り行われ、李垠は皇帝になったことは無いが、朴正煕の許可を経て王家の宗廟である永寧殿に「懿愍太子」の諡号で位牌が納められた。
つづく

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