2026年5月31日日曜日

大杉栄とその時代年表(824) 1909(明治42)年2月2日~7日 「約の如く朝日新聞社に佐藤氏をとひ、初対面、中背の、色の白い、肥つた、ビール色の髯をはやした武骨な人だつた、三分間許りで、三十円で使つて貰ふ約束、そのつもりで一つ運動してみるといふ確言をえて夕方ニコニコし乍らかへる、此方さへきまれば生活の心配は大分なくなるのだ」(啄木日記)

 

佐藤真一(北江)

大杉栄とその時代年表(823) 1909(明治42)年2月 「自分はいつまでも、いつまでも、暮行くこの深川の夕日を浴び、迷信の霊境なる本堂の石垣の下に佇んで、歌沢の端唄を聴いてゐたいと思った。永代橋を渡って帰って行くのが堪へられぬほど辛く思はれた。(略)あゝ、然し、自分は遂に帰らねばなるまい。それが自分の運命だ、河を隔て堀割を越え坂を上つて遠く行く、大久保の森のかげ、自分の書斎の机にはワグナアの画像の下にニイチエの詩ザラツストラの一巻が開かれたまゝに自分を待ってゐる……」(永井荷風『深川の唄』) より続く

1909(明治42)年

2月2日

小村寿太郎外相の外交方針演説、満韓移民集中論として衆議院で問題となる。

2月2日

(漱石)

「二月二日(火)以前に、青嘯会(西神田倶楽部)で謡の会をする。その時、『七騎落』の諸本忘れる。

松根東洋城選『新春夏秋冬』夏之部の序を書く。

二月三日(水)、本多直次郎(嘯月 春陽堂)宛葉書に、春陽堂で組んでいた『文學評論』原稿の413と414の間の原稿一枚が脱落していることに気付き、発見されるまで校正進めることできぬと伝える。米山熊次郎宛手紙に、火災のため米山保三郎の遺品を全て失い、せめて写真でも複写させて欲しいとの依頼に、承諾の旨を伝える。(大久保純一郎)

二月四日(木)、木曜会。坂本四方太来る。(推定)『ホトゝギス』に掲載した論文を賞める。小宮豊隆泊る。坂本四方太、これまで森田草平の『煤煙』をかついだが、「七」の会話は困ったという。小宮豊隆も同様な意見を持っている。

二月五日(金)、小宮豊隆、『文學評論』の目次を作る。夕刻、小宮豊隆と共に謡の稽古に赴く。宝亭で鴨のロース馳走する。坂本四方太来る。小宮豊隆の論文を読んだかと聞いてみたらまだ見ていないということである。」(荒正人、前掲書)


2月3日

啄木、盛岡出身朝日新聞社編集長佐藤真一(北江)に「スバル」と履歴書を送り就職の依頼。


「二月三日 水曜 雨 温

(略)

平野から第三、四、五号は原稿過剰に付き執筆見合せてくれとのハガキ、失敬な奴だ、然し面白くなつて来たと予は思つた。そして日がくれて雨のはれるのを待つて駿河台の新居に与謝野氏を訪ね、それから平出君をたづね、予はスバルのことを言つた、と、平野のハガキは平出君のしらぬところ、面白く文学談をした、予の意見に賛成だと平出君が言つた。

そしてかへつて、平野に手紙出した。オドシて見るのだ。

札幌なる加地君から手紙と原稿、

今日朝日新聞の佐藤北江氏へ手紙と履歴書とスバル一部おくる。

(略)」(啄木日記)

佐藤真一:啄木より20歳年長、盛岡中学校を中退、盛岡の「岩手新聞」をやめて上京。

「めさまし新聞」から「東京朝日」へ移る。啄木は長男に佐藤編集長と同じ「真一」と名付ける(長男は生後24日で没す)。

2月3日

独仏英など、ボスニア危機消息のため露墺に圧力(3月末危機去る)。

2月3日

シモーヌ・ヴェイユ生まれる

2月4日

新村忠雄(21)、「東北評論」署名人として入獄していた前橋監獄を出獄し、上京、巣鴨平民社滞在。

2月末、平民社を去る坂本清馬のあとを引き受け幸徳の世話をする。~3月29日迄。

2月5日

吉野作造、東京帝大法科大学助教授に就任。

1910年4月~1913年7月、欧米留学。

2月5日

漱石「『俳諧師』に就て(談話筆記)(『東京毎日新聞』)

2月5日

「二月五日 金曜 晴 小寒

(略)

北原君へ行かうかと思つてるところへ、太田君が来た、そして個人といふことについて語つた、調和といふことについて語つた。その議論は大分切迫つまつてゐた、そして、太田君を予は今咀嚼しつつある!

吉井君が来た、此の男について太田君の予へ話したところは、要領をえぬ――ウソツキだといふことであつた。そして来たけれども二言許りしか話さなかつた。

三人一緒に出かけて予は一人北原君をとふた、留守、小母さんと世帯じみた話をして一種の愉快をうる。それから晶子さんのこと、その夫婦関係のこと、寛氏が時々ヒドク小供を虐めること――一昨年北原君が千駄ヶ谷にゐた頃の話をきき、ほし柿と餅を御馳走になつて一時間許りでかへる。・・・・・

(略)」(啄木日記)


2月5日

ゼネラル・ベークライト社(アメリカ)設立。1939年、UCCに発展。

2月6日

「二月六日

(略)

それから予一人朝日新聞社に佐藤北江(眞一氏)をとひ、明日の会見を約して<初対面、三十円で夜勤校正に使つて貰ふ約束、そのつもりで一つ運動してくれるといふ確言をえて>夕方かへる。

吉井へ寄ると、北原は来ないといふ、今日は森先生の歌会だが、予は用があつて行けぬといつて、吉井にことづてを頼んで帰宿、

日くれて一人浅草にあそび(辞典をうつて)活動写真を見、九時頃、いつか吉井とのんだ馬肉屋で十四銭で飯を食ひ、かへつて北原を待つたが来ず、十一時頃寝る。

(略)」(啄木日記)


2月7日

(漱石)

「二月七日(日)、森田草平宛手紙で、『煤煙』の会話がまずいのは、中心人物要吉を客観的に描かぬから生じてくると技術批評する。

二月八日(月)、飯田政良(青涼)の『町の湯』(原稿)本人の希望通り春陽堂に郵送する。

二月九日(火)、坂元三郎(雪鳥)から、天才の死に際扱った書物問い合せて来たので、記憶にないが、天才の死ぬ時の様子を六つほど具体的にあげる。

二月十日(水)前後、筆、小宮豊隆に託して、鈴木三重吉に贈物をする。(推定)

二月十一日(木)、紀元節。寺田寅彦来る。森田草平、小宮豊隆と連れだって来る。


(筆の贈物)二月十二日(金)鈴木三重吉の小宮豊隆宛手紙に、「御手紙拝見。女王の選り物も慥かに落手した。筆子嬢が何を思ひ出したものか。何だかいぢらしい。こんな時にはやっぱり先生の娘だとしみじみ思ふ。」」(荒正人、前掲書)


2月7日

啄木、東京朝日新聞社に佐藤編集長を訪問。就職を懇請、考慮する旨の確約を得る。


「二月七日 日曜

・・・・・約の如く朝日新聞社に佐藤氏をとひ、初対面、中背の、色の白い、肥つた、ビール色の髯をはやした武骨な人だつた、三分間許りで、三十円で使つて貰ふ約束、そのつもりで一つ運動してみるといふ確言をえて夕方ニコニコし乍らかへる、此方さへきまれば生活の心配は大分なくなるのだ、

今日は万事好運で、そして何れもきまらぬ日であつた、

かへつて金田一君と話す、盛岡の娘だちが、農林校の支那人に参つてるといふ憤慨談、

それから同君のために共に質屋にゆき、フロツクその他で二十一円、今年初めて天宗へ行つて十二時まで天プラで呑み、大笑ひをしてかへつて寝る。

(略)」


「二月八日 月曜 晴

・・・・・、十二時頃春陽堂へ行つて編輯の本多といふ人にあひ一時間談判の結果、嘗てやつておいた(病院の窓)稿料二十二円七十五銭(一枚二十五銭に値切られた)を貰ひ、すぐ北原君へゆき、喜んで貰ふ、又すぐ二人で永田町二ノ二十七に鈴木鼓村氏をとひ、初対面、面白い人、(鳥影)のことを頼み、四時間遊び、朝飯も昼飯もくはぬところへソバを御馳走になつて夕方辞す、

それから北原と二人で浅草にゆき、新松緑でのみ、ハズミで或るソバ屋へつや子すみ子をよぶ、(例の葉書一件の女、顔を見ようぢやないかといふので)と、つや子は病気だといつてすみ子一人来た、そして予なことを察して女中をひそかにやつて姉貞子をよんだ! 貞子は米松と名告つて芸者になつてゐた!

末廣屋といふへ行つて、四人で二時頃までのんだ、実に不思議な晩であつた、そして妹のすみ子(けい)は美人で、気持のよい程キビキビした女、十八、   実に不思議な晩であつた、

二人とも酔つてゐた、そしてとんだ宿屋へとまつてしまつた、

(略)」


「二月九日 火曜 晴

隣りへ泊つた北原君に六時頃おこされ、六時半二人で出てとあるところで朝飯をくつた、腹がへつたといつてシンコを食つた男があつた、それから手拭をかつて湯にゆき、公園で新聞をよむ、吾妻橋から両国まで川蒸気にのる、面白かつた! 二人は時々すみ子をほめた、予の心にはいろいろの感情がゴチヤゴチヤしてゐた。

北原の宅へゆき、休む、六円しか残つてゐなかつた、午後同君から八円受取つて髪を刈つてかへる、並木来る、太田来る、昨夜の話をして大笑ひ、太田からスバル三号の原稿をたのまれたが何れアトで返事することにする、

夕方金田一君かへつて来た、七時頃共に夕めし、(それまで予に飯を出さなかつたのだ)ところへ女中が談判に来た、六円は金田一君へやつたので、残りのうちから五円やつて十三日までのばして貰ふことにする、残り二円と少し、金田一君と昨夜の話、

八時頃に、つかれて寝た、

(略)」(啄木日記)


つづく

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